月喰 ―つきぐい―
然々
第1話
山道は、まだ夜の底に沈んでいた。
県境を越えた途端、車のフロントガラスを霧が覆いはじめた。
白く、重く、まるで湿った手のひらで視界を撫でられるようだった。
榊涼香はワイパーを動かし、ナビの薄い光を頼りにハンドルを握る。
舗装は途切れがちで、タイヤが泥を噛むたびに車体が軋んだ。
携帯の電波はとうに消えている。
窓の外には、杉と檜の黒い壁。鳥の声ひとつしない。
助手席の封筒には、たった一枚の報告書。
——「月見ヶ原村 行方不明者:二名」
東京からの指示で、単独調査に赴くことになった。
だが、なぜ自分が? と涼香は思う。
都市部の失踪者がなぜ山奥で見つかるのか。
そしてなぜ、同じ村で、同じ“満月の夜”に消えるのか。
彼女はため息をひとつ漏らした。
視界の向こう、霧の中に古びた木の標識が浮かぶ。
「——月見ヶ原」。
文字は苔に覆われ、ところどころ掠れている。
その足元、誰かの手で積まれた石塔があった。
まるで村の入口を見張るように。
石の表には、朽ちかけた墨でこう刻まれていた。
> 『月喰様御鎮座地』
風が止んだ。
涼香はその不自然な静寂に、わずかに背筋を伸ばした。
エンジン音だけが、異様に響く。
村の中心部に入ると、霧は薄れた。
時代に取り残されたような古民家が並び、道端には誰もいない。
軒下で風鈴が鳴り、音だけが生きていた。
駐在所は郵便局と兼用のような小屋で、木製の看板に「警察官駐在所・望月」とある。
扉を開けると、制服姿の男が新聞を読んでいた。
「——榊です。都警からの派遣で」
「お待ちしてました」
男は、穏やかな笑みを浮かべた。
名を望月蒼真(もちづき・そうま)という。
しかし、その目の奥には、どこか“諦め”のような影があった。
「道中、霧がすごかったでしょう。ここはね、昼でも月が見える時があるんです」
「昼に、月?」
「ええ。……この村では、月を“見る”ことが、あまり良いこととはされていませんが」
涼香はわずかに眉を寄せた。
望月は湯呑を差し出し、低い声で続けた。
「この三ヶ月で、村の者が二人、満月の夜に消えました。
ひとりは少女、もうひとりは六十過ぎの男です。どちらも遺体は見つかっていません。
村の人間は……“月喰様の贄”だと言ってます」
「神隠し……ですか?」
「ええ、“神が喰う”ってやつです」
冗談めかした口調だったが、目は笑っていなかった。
失踪した少女の家を訪ねたのは、その日の午後だった。
山に囲まれた小さな集落の奥。
少女の母親は、縁側に座ったまま、ひたすら空を見ていた。
「……満月の晩でした。あの子、縁側で月を見てて……気づいたら、いなかったんです」
声は乾いていた。
涼香は室内を見渡し、整理された机の上に一枚の写真を見つけた。
祭りの日に撮られたものらしく、少女が笑っている。
だが、その背後——
空に浮かぶ満月が、欠けていた。
まるで、誰かが月を噛みちぎったように。
「これ、撮ったのはいつですか?」
「……満月の夜ですよ。村の祭りの」
涼香は無言で写真を見つめた。
月の欠けた部分が、どこか“口”のようにも見えた。
その瞬間、背後から声がした。
「刑事さん」
振り返ると、望月が玄関に立っていた。
彼の顔は、わずかに青ざめている。
「この写真……見つけましたか……」
「ええ、何か知っているんですか?」
「この村ではね、月が欠けて写ると、その人はもう戻らないんです」
その言葉のあと、静かな風が家の中を抜けた。
障子がわずかに揺れ、どこからか鈴の音がした。
夜。
駐在所の二階で休む榊の耳に、風のような声が届いた。
——「みた、みたのね」
はっと目を開けると、窓の外に淡い光が滲んでいる。
満月。
山の端から昇るそれは、赤みを帯びた、不吉な円。
彼女は窓を開けた。
霧が流れ込み、湿った空気が肌を撫でた。
その下、村の中央。
人々が松明を手に集まり、円陣を組んでいた。
定期的に行われる行事とのことだが、まるでそれは"儀式"の様にも見えた。
衣の背には、「喰」の一文字。
太鼓の音。
そして、少女のような声が唱える。
> 「月は喰う、影を喰う、ひとを喰う——」
涼香の胸が凍りついた。
その中央、火の光に照らされて、
ひとりの人影が、地面に吸い込まれるように消えた。
悲鳴もなく。
ただ、月だけが、ゆっくりと欠けていった。
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