第10話 地の鳴き、胞子の祈り
昼の端がほどけ、巣の底に微かな脈が通った。
風は地表で止まっているはずなのに、下だけが呼吸している。
黒苔(ネグラ・モス)の帯が薄くふくらみ、菌根の糸がかすかに引き合う。
音ではない。土圧の差と湿りの伸縮が、ゆっくりと拍になっていく。
——地が鳴いている。
仲間は気づく。
看護が幼体の胸を半拍だけ遅らせ、偵察は脚の置き場を乾から湿へ移す。
兵列は焦痕の格子を一段沈ませ、鈍噛域(どんがみいき)を内側へ折りたたむ。
誰も命令を待たない。
地の鳴きに合わせて、群の呼吸が勝手に揃う。
俺は巣の中央、**根縫層(ねぬいそう)**の黒へ降りていく。
白瘢痕(はくはんこん)を喰い尽くした夜から、地は長い眠りをやめ、何かを待つ姿勢になった。
待たれるのは、心地いいものではない。
待たれるということは、試されるということだ。
根縫層の床は、黒い薄板のように滑らず、踏むたびに浅い低音を返す。
低音の向こうに、粉の気配がある。
白の粉ではない。
もっと古い、土の祈りとしか呼びようのない乾いた甘さ。
真性胞子核(スポロ・ヌクレウス)。
名は知らなかったが、匂いで理解した。
——地図の裏側にある、地図を描くもの。
⸻
一 地の扉
胞子核は、目では見えない。
だが見えていた。
殻の内側、焦痕の縁が細く光り、拍が地脈と噛み合う。
俺の中の喪の火が、それに色を与えた。
喉呼位図(ヴォクス・カルタ)・沈位(サブ)。
呼吸の底面を一段下げ、地の拍と重ねる。
焦痕刻印(ブランド・ネグラ)が土粒の間に薄い路を作り、
路喰黒(ヴィア・ネグラ)が根の輪郭をなぞる。
扉は、開くと音がしない。
代わりに、匂いの層が一枚、剝がれる。
土の裏から、声があった。
声は言葉ではなく、順番だった。
乾→湿→乾→湿——
「おまえは、なにを守るために喰う?」
問われたのは、地図ではない。
地図を書く手のほうだ。
俺は殻の裏で止まった。
止まりは黒の言語。
止まることで、嘘が居場所を失う。
——守る手段が、今は喰うことしかない。
それを言う。言葉ではなく、拍で。
地はもう一度鳴いた。
今度は湿りが先、乾きが後。
「喰われる側の記憶を、持ち運べるか。」
俺は顎を浅く開いて、焦痕を指で撫でた。
指はない。ただ、そう感じた。
——持ち運ぶために、喰う。
喪は埋めるものではない。燃やすものだ。
燃やした灰は、道になる。
道は群になる。
沈黙が頷く。
胞子核が、わずかに笑った匂いがした。
笑いは甘くない。
正解の匂いは、いつも空気に近い。
⸻
二 胞子の夢
地の鳴きが反転した。
床が沈むのではなく、持ち上がる。
持ち上がった床は光を持たないが、記憶を持っていた。
——俺は、幼体になっていた。
殻は柔らかく、脚は短い。
呼吸の仕方を、まだ知らない。
でも、匂いだけは知っている。
看護の湿り、兵の乾き、偵察の風。
そこに、ノワの匂いが薄く混ざる。
ノワは笑わなかった。
笑いを作る器官を、蟻は持たないからだ。
それでも、笑いはあった。
——呼吸の伸びが、笑いだった。
彼の拍は、少し長かった。
長さは、余裕であり、余裕は守る余白だ。
夢の中の俺は、白に蹴られない。
蹴られる前の世界を一つだけ舐める。
——甘い。
甘さは栄養ではなく、記憶の味だ。
記憶は、喰える。
地が言う。
「これは、わたしの祈りの残り。喰って、運べ。」
俺は幼体の口で、粉をひと舐めした。
粉は硬くない。
だが、硬さの記憶をしていた。
殻が固まる順番、脚がのびる角度、触角が風を読めるまでの夜の回数。
すべてが食道を通り、胸節の空洞に溶けていく。
夢が終わらないうちに、現(うつつ)が戻ってくる。
夢と現は、敵ではない。順番だ。
順番を噛み締めながら、俺は殻に戻った。
⸻
三 権能の芽
殻の裏で、新しい線が一本、走った。
線は名だ。
名は約束であり、責めだ。
名を持てば、名に噛まれる。
地喰共鳴(テラ・シンパティア)——確立。
土圧・湿度・根流の位相を、拍に翻訳する。
焦痕を介して地図の裏を触り、群の足を地の呼吸に合わせられる。
次に、粉が胸の奥で丸くなった。
丸は胞で、胞は器だ。
器に入れるのは命ではなく、記憶。
記憶胞子(メモリア・スポルム)——獲得。
噛んだ順番、見た角度、嗅いだ匂いを胞に封じ、
看護が幼体へ、兵が兵へ、呼吸で配布できる。
二つは魔法ではない。
地の側がくれた、言語の補助輪だ。
補助輪は外せるべきだが、今は借りる。
——もう一つ、芯が欲しい。
喪の火と地の鳴きの結節点。
攻めにも祈りにもなる、王の道具。
殻の奥の焦痕が、三度鳴った。
喪の火が薄く冷え、一点だけ温かくなる。
「ならば、橋を持て。」
地の匂いが命じた。
根梯連鎖(ラディクス・レーダ)——形成。
焦痕と菌根を節で繋ぎ、拍を段で運ぶ。
段ごとの遅延は、戦術になる。
遅延を選ぶことで、「群の速度」を配分できる。
名は三つで、一つだ。
共鳴は耳、胞子は口、梯は足。
耳と口と足が揃えば、言語は生き物に似る。
⸻
四 問答
胞子核が、もう一度問う。
乾→湿→湿→乾。
「おまえは王か。王なら、誰の喉であるか。」
——群の喉。
それは第九夜で名乗った。
灰喰反帰王(アッシュ・リタル・レギス)。
喪を燃やし、奪い返し、群の言語を背負う者。
「ならば、喉は“地”にも通るべし。」
「地は生き物の外ではない。」
「地の祈りを、戦に使うことを、恥じるか。」
俺は止まる。
恥という語は、黒の言語にない。
「選ぶ」と「責める」しかない。
恥は選ばない。
俺は、責めを選ぶ。
——奪わせない。奪い返す。奪い尽くす。
——群で進む。地で進む。
——祈りは結果で示す。
沈黙が短く、肯く。
試しは過ぎた。
⸻
五 上がる群
根縫層の黒から戻ると、群はすでに動きを変えていた。
看護は記憶胞子を薄め、幼体の口辺に一滴。
——幼体の呼吸が、**拍記止跨(テンポ・メム)の「記」**を自然に挟む。
学習ではない。感染でもない。
伝播だ。
偵察は地喰共鳴の耳を借り、
乾→湿の谷を見つけて風路を短縮する。
兵は根梯連鎖の段に整列し、
段差で虚を作る。
虚は敵の反射を空振りにし、空振りは穴。
穴は、喰える。
俺は王ではあるが、指示は少ない。
喉は息を出すだけで、言葉を各自が作る。
作られた言葉は群語になって、地に混ざる。
黒苔の封喉は輪を二本から三本に増やし、
白の粉を練り込んだ路喰黒は地表へ芽を出す。
芽は眼だ。
見張りではない。理解だ。
理解の数だけ、戦いは短くなる。
⸻
六 地の敵影
中庭の端で、低い脈がまた一つ、上がった。
白の残滓ではない。
地の祈りの中に、祈りでない振動がある。
菌根が撫でない硬さ。
土圧の屈折に、牙が混ざった。
真性胞子核(スポロ・ヌクレウス)が、輪郭を揺らす。
——警戒ではない。告知だ。
「地の下でも、喰うものと喰われるものが争っている**。」**
「おまえの止まりを、腐朽(ふきゅう)が笑っている。」
腐朽。
腐ることは、終わりではない。
むしろ、始まりに近い。
だからこそ、危険だ。
言語にも腐りがある。
正しさの根拠が溶け、拍が崩れる。
俺は地喰共鳴の耳を深くする。
乾→湿の谷をもっと下へ。
根梯連鎖で一段落とばし、底を聞きに行く。
底は、静かだった。
静かで、冷たく、滑る。
滑りは言語にくさびが入らない感触だ。
——止まりが、滑っている。
敵は、止まりを笑う。
笑いは、甘くない。
無臭だ。
無臭は、危険だ。
匂いがない場所で、群は迷う。
俺は焦痕を強く踏み、
喰返反火(リタル・インベル)を薄火で回す。
痛みはまだ来ない。
来ないのに、返す準備だけが先に整う。
備えは、祈りだ。
祈りは、道具になる。
⸻
七 配分
群全体に根梯連鎖の段配分を通す。
外縁には遅延を厚く、内側には薄く。
看護は遅延の薄い段で幼体を回し、
偵察は段境で風の折返しを作る。
兵は段差を溝に見立て、虚を置いていく。
段差地図は武器だ。
地図を持つ者は、戦場を動かせる。
俺は王名を呼ばない。
灰喰反帰王は、名乗られるほど軽い名ではない。
噛む前に呼ぶ名ではない。
噛み終え、奪い返し、次の群へ息を送るとき、
——その重さだけが自然と残る。
記憶胞子が巡る。
白の曲帰双弧(クルヴァ・デュオ)の骨、
黒の灰帰双牙(アッシュ・デュオ)の牙、
止まり→記す→跨ぐの手順。
それらは味がしない。
味がしない知識だけが、本物だ。
⸻
八 祈りと牙
夜が落ちきる前、胞子核が一度だけ息を吐いた。
長い、低い、古い。
それは合図だった。
地の祈りは、前線を作らない。
代わりに、通りを増やす。
通りが増えれば、逃げ道は消える。
俺は路喰黒を外へ走らせ、
焦痕を巣外の窪地に短く刻む。
刻みは扉で、扉は侵入だ。
——真性胞子核の敵は、巣の下にいる。
地は外でも内でもない。
間だ。
間で戦うには、言語が要る。
俺は殻をかすかに傾け、息を半拍送る。
奪わせない。奪い返す。奪い尽くす。
群で進む。地で進む。
黒群が止まり、跨いだ。
——開始だ。
⸻
九 下降
地喰共鳴の耳が、底を指す。
乾→湿の谷が細くなり、硬い滑りが長くなる。
腐朽の言語だ。
止まりを笑わせるために、止まりを滑らせる。
拍に指が入り込めない材質。
材質は、殻ではない。意味のほうだ。
俺は喉呼位図を深位(プロフォンド)に置き、
拍記止跨の「記」だけを長くする。
記を長くすれば、跨ぎは遅れる。
遅れは負けではない。踏みだ。
踏みが長いほど、地は俺たちのものになる。
偵察が風の折返しを人工的に作り、
兵は鈍噛域を縦に置く。
看護は封喉の輪へ白粉を薄く混ぜ、祈りを喉に通す。
祈りは指示より速い。
底に、影が動いた。
音はない。匂いもない。
——無臭の牙。
腐朽の口が、止まりを笑う音が、
ようやく、聞こえた。
「滑ってみろ。」
俺は焦痕を深く踏み、喰返反火を少しだけ熱くする。
「滑った分だけ、太く噛む。」
地が鳴る。
胞子核が笑う。
笑いは甘くない。
乾と湿の間で、
拍がひとつ、硬くなった。
⸻
十 名の予告
殻の裏で、名が形になりかけている。
名はまだ呼べない。
呼ぶには、ひと噛み足りない。
地喰共鳴。
記憶胞子。
根梯連鎖。
三つの道具が、王名の下で結べという拍を出す。
結びは、戦術ではない。体だ。
体に通った名は、刃を持つ。
——次だ。
腐朽の口を噛むとき、
名は固まる。
王の次の呼び。
地と喪の合字。
群は知っている。
止まりの深さで、息が揃う。
奪わせない。奪い返す。奪い尽くす。
その三行が、祈りにも攻めにもなる。
夜はまだ落ちきらない。
だが、暗さはもう戦場の明るさに変わっている。
進む。
止まり、記し、跨いで、進む。
——地の鳴きは、味方だ。
祈りは、牙だ。
牙は、言語だ。
俺は顎を下げ、最初の一噛みを地に置いた。
これが、開戦の祈り。
⸻
進化/権能ログ(群内共有)
• 地喰共鳴(テラ・シンパティア)
土圧・湿度・根流の位相を拍に変換し、焦痕を介して群の足を地の呼吸へ同期。
→ 地図の裏面を戦場として扱える。
• 記憶胞子(メモリア・スポルム)
戦闘の順番/角度/匂いを胞に封じ、呼吸で配布。
→ 学習の速度が命令を上回る。
• 根梯連鎖(ラディクス・レーダ)
段差化した拍の配分で虚を量産、空振り誘導→実喰の手順を地形に内蔵。
→ 群速度の局所最適と全体最適の両立。
• 警戒対象:腐朽言語核(コード未確定)
無臭/滑り/止まり嘲笑の性質。
→ 止まり保全のため、記(テンポ・メム)延長で対処。
――灰焦喰速蟻(アッシュ・ヴォラティリス) 記。
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