愛と嘘と放課後の魔法
トムさんとナナ
第1章 願いのペンダント
放課後の喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえる。 私、白鳥紗菜(しらとり さな)にとって、この校舎の屋上は唯一の聖域だ。生徒たちの間でも「聖地」なんて呼ばれているけれど、本当にそう思っているのは、きっと私くらいのものだろう。 フェンスの向こうには都会のビル群が広がり、風が私の髪を優しく撫でていく。スケッチブックを開き、鉛筆を握るこの時間だけが、息苦しい教室から私を解放してくれる。
『――ナイス! もう一本!』
あけ放たれた体育館から聞こえてくる快活な声に、思わず手が止まる。 相葉陽太(あいば ようた)くんの声だ。 バスケットボール部のエースで、明るくて、誰にでも優しくて、太陽みたいに笑う人。私とは住む世界が違う、眩しい人。 スケッチブックの上で、私の鉛筆は行き場をなくして彷徨う。本当は、彼の躍動する姿を描きたい。でも、そんな勇気はなかった。もし誰かに見られたら、なんて考えただけで顔が熱くなる。だからいつも、名前も知らない誰かの背中や、空に浮かぶ雲ばかりを描いていた。
今日もまた、無機質なビルを描き始めた時だった。 西日に照らされたコンクリートの上で、何かがキラリと光を反射した。古びたベンチの脚のそば。普段なら気にも留めないような小さな光。 吸い寄せられるように近づくと、それは古びた銀色のペンダントだった。繊細な蔦の模様が彫られた小さなロケット。チェーンは切れ、長い間ここに忘れられていたようだった。 そっと拾い上げると、手のひらに不思議な温かさが広がった。誰かの大切なものだったのかもしれない。そう思うと、胸が少しだけきゅっとなる。
「……持ち主のところに、帰れるといいね」
誰に言うでもなく呟き、ペンダントを握りしめる。その温かさが、まるで私の心に直接語りかけてくるようだった。 ――もし、一つだけ願いが叶うなら。 馬鹿げている。そう頭では分かっているのに、心臓が勝手に期待で跳ねるのを止められない。
「……相葉、陽太くんと……もっと、仲良くなれますように」
声に出した瞬間、自分がとんでもなく恥ずかしいことをした気がして、慌ててあたりを見回す。もちろん、誰もいない。ほっと胸をなでおろした、その時だった。
ガチャリ、と。背後で屋上のドアが開く音がした。
嘘でしょ。心臓が喉から飛び出そうになる。こんなタイミングで誰かが来るなんて。慌ててペンダントをポケットに押し込み、振り返ることもできずに固まった。
「あれ、誰かいたんだ。ごめんな、驚かせた?」
その声は、今まさに私が名前を呼んだ、その人のものだった。 ゆっくりと振り返ると、少し汗を光らせた陽太くんが、少しバツが悪そうに笑っていた。練習を抜けてきたのだろうか、Tシャツ姿が眩しい。
「し、白鳥さん、だよな? 美術部の」 「は、はい……」
私の名前、知っててくれたんだ。それだけのことで、頭が真っ白になる。 彼は人懐っこい笑顔のまま、私の手元――スケッチブックに視線を落とした。
「何描いてんの? うわ、すげー。ビルとか?」 「あ、えっと……うん」 「白鳥さんの絵って、なんかこう、空気が伝わってくる感じだよな。前にコンクールで金賞だったろ? 見たよ、あれ」
陽太くんは、屈託なくそう言って笑う。私の絵を見てくれた? コンクールの? 思考が追いつかない。ただ「ありがとう」と蚊の鳴くような声で返すのが精一杯だった。
「邪魔して悪いな。ちょっと風に当たりたかっただけだから。じゃあ、また」
ひらひらと手を振って、彼はあっという間にドアの向こうへ消えていった。 あとに残されたのは、夏の終わりの生ぬるい風と、呆然と立ち尽くす私だけ。
心臓が、痛いくらいに鳴り響いている。 さっきまでの出来事が、まるで夢のようだ。今まで一度だって、まともに話したことなんてなかったのに。
そっとポケットの中を探る。指先に触れたペンダントは、まだあの不思議な温かさを保っていた。 手のひらに乗せた銀色のロケットが、夕日を浴びて鈍く輝く。
――まさか、本当に? ――ううん、そんなはずない。ただの偶然だよ。
頭の中で二つの声が言い争っている。 でも、私の心は、ありえない奇跡を信じたがっていた。 これは、ただの偶然なんかじゃないのかもしれない。この小さなペンダントが、私の灰色の日々を、少しだけ変えてくれるのかもしれない。 そんな淡い期待を胸に、私は夕焼けに染まる空を、いつまでも見上げていた。
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