『ALISYA FHATOM SPHERE』
蒼空 秋
第1話
「すごい! すごいよ、お兄ちゃん!」
白いワンピース姿の少女が歓声をあげながら嬉しそうに草原を駆けている。草原は蒼蒼としており、空も雲一つない晴天だ。草原を駆ける少女の足取りはまだ慣れていないのか、どこか危なっかしく、何度もこけそうになる。
それはそうだろう、少女が外を走るのは数年ぶりであり、さらにその脚は厳密には彼女のものではないのだから。
「そんなにはしゃぐと転ぶぞ! マナミ!」
少女の兄であるシンが妹に駆け寄る。案の定、少女は脚をもつらせて転ぶ。
「ふぎゃん!」
「大丈夫か!」
「う~ん、ちょっとだけ痛い~えへへ」
どうやら大丈夫そうだ。マナミは起き上がらずにそのままゴロンと草原に寝そべった。
「脚をみせてごらん、ケガをしていたら大変だ」
シンは側にかがみ、妹の膝に手をあてる。妹のそれは見慣れた痩せ細った脚ではなく、普通より少し細い程度の健康的な少女ものだ。
「よかった、傷は無いみたいだな」
「うん、大丈夫。でもちゃんと痛いんだね。仮想世界だから、転んでも痛くないと思ってた」
ちゃんと痛いのは当然だ。この仮想世界は、現実世界のあらゆる感覚を再現しているのだから。蒼蒼とした草原も、雲一つない晴天も、そして今駆けていた脚も、全て仮想的に作り出されたものなのだ。今彼らが見ている世界も感じている感覚も、全て仮想(バーチャル)のものだった。本当の二人は、ヘッドギアタイプの装置を頭からかぶり、病院のベッドで寝ている。いわば意識だけが、この仮想世界に来ているといえる。
シンはそばに咲いていた花をいくつか摘むんで、寝そべっているマナミに差し出す。
「わー、綺麗、クンクン……いい匂い。でも、お花を摘むんじゃ可哀想だよ」
花の香りを楽しみながらも、『お花が可哀想』と言うマナミ。
「マナミ、このお花はね、本当に生きている花じゃないんだよ」
この花も、仮想的に再現されたデータの集合体に過ぎない。
「うん。わかった。ありがとう。でも、やっぱり可哀想かな」
データの集合体にさえ哀れみをかけるマナミ。自分は病床にふせっているのに優しい子だ。
それにマナミの言う事は全くの見当違いという訳でもない。この仮想世界の凄いところは、全ての生命体にAIが搭載されており、ある意味では文字通り『生きて』いるのだ。それはシステムの複雑さの重軽こそあれ、動物達でもこの花でも変わらない。
『この電子異世界であるA・F・S(アリシア・ファントム・スフィア)の生命体は、草木の一本に至るまで、全て生きているのです』
制作者である芦名誠がこの仮想世界を解放するにあたって語った言葉を思い出す。もっともシンにとって、彼が言う『生命』の定義などは知らないし、そんな事は正直どうでもいい。
それよりこの世界が妹に『脚』を与えてくれた事だけが彼にとっては重要な事だった。
「あ、お兄ちゃん。雪だよ。雪が降ってきた」
気がつくと先ほどまでの晴天は嘘の様に、雪が降り始めていた。仮想世界のため雪を降らす事も簡単なのだ。天気予報ならぬ天気予定表によると、この雪は明日の朝まで降り続けて、明日は一面銀世界となる。つまり、明日は妹に銀世界を見せる事ができると言う事だった。
「雪だ~、凄い!お外で雪をみるのって、初めてかも!」
マナミはぴょんぴょんと飛び跳ねてはしゃいでいる。いつも病院の窓の外から眺めるしかない雪を間近で見る事ができたのだから、嬉しいのだろう。妹をこの仮想世界に連れてくるためにシンが負ったリスクは決して小さいものではなかった。だがこの笑顔を見るだけでそんな事は吹き飛んでしまう。後悔は無い、間違っているのは法律の方だ。
「へっくしゅん!! う~寒~い」
マナミがくしゃみをする。確かに寒い。先ほどまでの晴天が嘘のようだ。雪が降っているくらいなのだから、当然といえば当然だが。
「ちょっと待ってろ」
シンは用意していたマフラーを取り出し、妹の首にかける。このマフラーもまたデータの集合体でしかないが、現実世界のマフラーと同じくこの世界の寒気から身を守ってくれる。
「せっかくの仮想世界なんだから、あったかい雪にとかにしてくれればいいのにな……バーチャルならいくらでも調整可能だろうに」
マフラーを念入りに妹の首に巻きつけながら不満げにつぶやく。何でも再現可能な仮想世界とはいえ、雪の冷たさまで再現する必要は無い。嫌なものや辛いものは、わざわざ創造する必要はないのだ。あるいは人間側の感覚の一つを遮断するか……今のシンなら雑作も無い事だ。
「む~、お兄ちゃんはわかってないな~。雪は、冷たいからいいんだよ」
妹が口を尖らせてつぶやく。
冷たいものはみんな嫌いなはずだが、彼女はこの冷たさを肯定している様だ。だが彼の考えは違う。『仮想世界』に嫌なものがあるなら削るか変えてしまえばいい。
そう思う彼の心を読んでいるかの様に、妹は優しく言葉を続けた。
「違うよお兄ちゃん。雪は冷たいから、いいんだよ。夏は暑いから、いいんだよ。梅雨は、雨ばかりだから、いいんだよ。だから──」
──私の脚は、動かなくても、いいんだよ──
彼女の言葉がそう続きそうだったので、シンはあわてて話題を変える。
マナミはまだ十二歳だ。大人になんかに、ならなくていい。辛い現実なんか、受け入れなくていい。夢の様な『仮想世界』に逃げて、何が悪い。そのためになら、法律だろうが仮想世界だろうがいくらでも犯してやる。
「マナミ! 晩ご飯にしよう。アオイちゃんとケイが、ご飯を作って待っているよ」
「ごはん!?」
その言葉に、妹は再び大きく目を見開いた。
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