千円の行方 ― 報われない日々に、静かな奇跡を

ソコニ

第1話『千円の行方』



 財布の中を三回確認した。


 千円札が一枚。小銭が百八十円。水野香織の全財産は、それだけだった。


 コンビニの自動ドアが開く。冷房の冷たい空気が、汗ばんだ首筋を撫でる。八月の終わり。就職活動は終わっていない。今日も、一次面接で落ちた。


 弁当売り場の前で立ち止まる。四百円の幕の内弁当と、三百五十円の焼き鮭弁当。どちらにしても、明日の朝食を買う金は残らない。


 香織は焼き鮭弁当を手に取った。


 レジに向かおうとしたとき、店の外で何かが倒れる音がした。


 ガラス越しに見える歩道。老人が膝をついている。七十代か、八十代か。白髪が夕日に透けて見えた。


 通行人が二人、三人と老人の横を通り過ぎていく。誰も足を止めない。


 香織も、弁当を握りしめたまま、レジへ向かった。


   *


 自動ドアが開く。


 香織は立ち止まった。理由は分からない。ただ、足が動かなかった。


 老人はまだ、そこにいた。


 誰も助けない。当たり前だ。面倒に巻き込まれたくない。それは、香織も同じだった。


 でも。


 見て見ぬふりをする自分が、許せなかった。


 香織は老人に駆け寄る。


「大丈夫ですか」


 老人は顔を上げた。目が合う。その目は、何も語らなかった。


「立てますか?」


 老人は首を横に振る。香織は老人の腕を支え、近くのベンチまで誘導した。老人は何も言わない。ただ、荒い息をしているだけだった。


「救急車、呼びますか?」


 老人は再び首を横に振る。


 香織は立ち尽くす。何をすればいいのか分からなかった。


 ふと、老人の足元に財布が落ちているのに気づく。拾い上げると、中は空だった。小銭入れも、カード入れも、何も入っていない。


「お金、ないんですか」


 老人は何も答えない。ただ、視線を逸らした。


 香織は自分の財布を開く。千円札が一枚。それが今日の夕食代で、明日の朝食代で、明後日まで生きるための全てだった。


 でも、手は勝手に動いていた。


 千円札を老人の手に押し込む。


 老人は驚いたように香織を見た。そして、震える手で千円札を握りしめる。


 香織は何も言わなかった。言葉が見つからなかった。


 老人も、何も言わなかった。


 ただ、夕暮れの空気だけが、二人の間に流れていた。


   *


 香織はコンビニに戻らなかった。弁当を買う金はもうない。


 駅までの道を歩きながら、香織は思った。


 なぜ、渡したのか。


 答えは出なかった。ただ、あの老人を見捨てることができなかった。それだけだった。


 電車の窓に映る自分の顔を見る。疲れている。就職活動も、アルバイトも、全てが上手くいかない。


 でも、後悔はしていなかった。


 それだけが、不思議だった。


   *


 翌朝、大学の門の前に黒塗りの車が停まっていた。


 香織は足を止める。見たこともない高級車。運転手が降りてきて、こちらに向かって歩いてくる。


「水野香織さんですか」


 香織は頷く。


 運転手は小さな封筒を差し出した。


「これを、お預かりしています」


「誰からですか」


 運転手は答えなかった。ただ、一礼して車に戻る。


 香織は封筒を握りしめたまま、呆然と立ち尽くす。車はゆっくりと走り去っていく。


 封筒を開ける。


 中には、何も書かれていない白い便箋が一枚。そして、千円札が一枚。


 香織は千円札を見つめた。


 これは、昨日の千円なのか。それとも、別の千円なのか。


 分からなかった。


 ただ、この千円が「戻ってきた」という事実だけが、そこにあった。


 香織は封筒を鞄にしまう。


 大学の門をくぐる。


 いつもと同じ朝。いつもと同じ景色。


 でも、何かが少しだけ、違う気がした。


   *


 香織は、その日の夜、再びコンビニに行った。


 焼き鮭弁当を手に取る。レジで千円札を出す。


 お釣りを受け取りながら、香織は思った。


 あの老人は、誰だったのか。


 なぜ、千円が戻ってきたのか。


 答えは出なかった。


 でも、それでいいのかもしれない。


 香織は弁当を持って、コンビニを出る。


 夜の空気が、少しだけ冷たい。


 明日も、就職活動は続く。


 明日も、何も変わらない日常が続く。


 それでも、香織は歩き続ける。


 千円札は、財布の中にあった。


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