また君と
てつ
第1話 別れの朝
「……ごめん、健人。もう、無理だと思う。」
その言葉を聞いた瞬間、時が止まったように感じた。
カフェの窓の外では小雨が降り始め、灰色の空が二人の沈黙を包み込む。
「無理って……どういう意味」
問いかける声が、自分でも驚くほど掠れていた。
対面に座る美咲は、まっすぐこちらを見ようとしない。
白いカップの縁を指でなぞりながら、小さく息を吐いた。
「他に、好きな人ができたの。」
健人の頭の中が真っ白になる。
何度も繰り返されたようなドラマの台詞が、まさか自分の人生で聞くことになるとは思わなかった。
「……そうか。」
それ以上、何も言えなかった。
責める言葉も、涙も出てこない。
ただ、何かが胸の奥で静かに崩れていくのを感じた。
美咲とは大学時代から7年付き合った。
就職してからもお互い多忙な中で支え合い、結婚の話も少しずつしていた。
それが、突然の“終わり”。
健人には、何一つ手がかりがなかった。
「ごめんね、こんな形で……」
美咲は立ち上がり、ハンドバッグを手に取る。
「元気でね」と呟いて、雨の中へ消えていった。
残されたコーヒーの香りだけが、健人の胸に焼き付く。
* * *
帰り道、傘を持ってこなかったことを思い出す。
だが、どうでもよかった。
ビルのガラスに映る自分の顔は、ひどく疲れ切って見える。
「……情けないな。」
その夜、部屋に戻っても眠れなかった。
ソファに沈み込み、スマホのアルバムを開く。
そこには、美咲と過ごした7年間の写真が並んでいた。
旅行、誕生日、そして何でもない日常。
笑顔ばかりの二人が、もう別々の未来を歩いていると思うと、胸が痛んだ。
通知音が鳴る。だが、それは会社のグループLINEからの連絡だった。
誰も、自分の喪失を知らない。
誰も、気づいてくれない。
世界がいつも通り動いていることが、やけに残酷に感じた。
* * *
翌朝。
雨は上がり、空気だけがひどく冷たかった。
鏡の前でネクタイを締める手が震える。
「切り替えろ」——そう自分に言い聞かせても、心は追いつかない。
会社ではいつも通りのふりをした。
「佐藤さん、例のクライアント資料、今日中で大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。」
口ではそう言いながら、頭は何も考えられない。
昼休み、同僚が笑いながら恋バナをしているのを横目に、健人は無言で弁当をつついた。
失恋は時間が癒す——よく聞く言葉だ。
だが、今の自分には、そんな時間さえも怖かった。
このまま何も変わらず、ただ淡々と日々をこなしていくだけなのか。
心の奥に小さな空洞ができ、それが日に日に広がっていくような感覚。
帰り際、ふと立ち寄ったカフェの看板が目に留まった。
「Coffee & Smile」
初めて見る店だが、温かい灯りに少しだけ惹かれた。
扉を開けると、コーヒーの香りと柔らかなBGMが迎えてくれる。
カウンターの奥から、女性の声がした。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
その声に、なぜか胸が少しだけざわめいた。
どこかで聞いたような、懐かしい響き。
顔を上げると、エプロン姿の女性が微笑んでいた。
「……もしかして、佐藤健人くん?」
健人は思わず瞬きをした。
見覚えのないはずの顔。けれど、なぜか懐かしい。
「え……?」
女性は少し照れたように笑った。
「やっぱり。久しぶりだね、健人。——山本美久、覚えてる?」
名前を聞いても、記憶は曖昧だった。
だが、その笑顔だけが、過去のどこかに確かに残っている気がした。
雨上がりの午後。
新しい出会いが、静かに始まろうとしていた。
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