第8章「離脱点(Departure)」
―― 観察の外部化と“水面の廊下” ――
研究所の搬出は、深夜に行われた。
封印庫から運び出された《REFLECTOR-α》の中核は、分解され、数台の車に分割搭載された。
その車列は、まるで葬列のように静かで――しかし、運ばれているのは死ではなく、観察そのものだった。
高槻は助手席に座り、窓の外の闇を眺めていた。
山を下りる途中、車のライトが霧を切り裂く。
霧の粒子が光を返すたびに、彼の瞳に微かな反射像が生まれる。
それは、装置を覆っていた布の下に見えた「笑い」と、よく似ていた。
「どこまで運ぶつもりなんです?」
運転席の男が言う。
「書類では“民間試験施設”になってますが……地図にない場所だ」
高槻は答えない。
代わりに、ダッシュボードの上に置いた反射プレートを見た。
十二秒遅れの小さな光。
この遅延が、彼の中ではすでに「呼吸のリズム」と同化していた。
“観察は、時間を育てる”――久保の言葉が頭をよぎる。
彼は、無意識に笑っていた。
運転手が一瞬だけ視線を向ける。
その“見る行為”に、彼はかすかな戦慄を覚えた。
見られることが、すでに観察の一部になっている。
◆
搬入先は、廃工場の地下区画だった。
壁には未使用の配線跡、床には長い水痕。
誰も手を入れていないのに、空気だけが生きているようだった。
クレーンが装置の心臓部を吊り上げ、中央に据える。
高槻は、その下に水槽を設置した。
かつて久保が“媒質”として使った液体を再現する。
化学式の一部は欠損していたが、構わない。
足りない要素は、観察が補う。
補助灯を落とす。
工場の奥、暗がりが深く沈む。
わずかに水面が揺れ、反射が無音のまま流れた。
それは、装置の心拍に似たリズムを刻み始めていた。
「Mirror Cluster、接続確認」
中園の声が、遠隔端末から届く。
「観察者補正、安定。……ただ、ひとつだけおかしいデータがあります」
「おかしい?」
「観察者カウントが、3になっています。
現場には、あなた一人のはずですが。」
高槻はモニターを見た。
確かに、観察者IDが三つ並んでいる。
【ID-001: T. Takatsuki】
【ID-002: System】
【ID-003: Unknown】
「……始まったか。」
高槻は独りごちて、モニターを閉じた。
観察の“外部化”――それが、久保の理論が到達しなかった領域だ。
観察は、観察者の意識を離れ、空間そのものに分散していく。
◆
夜。
装置の前に立つと、空気が水を思わせた。
音のない“流れ”が足元を撫で、床一面が薄く透けて見える。
そこに――廊下が見えた。
水面の下に、光の筋でできた一本の通路。
まっすぐではなく、揺らぎながら奥へと延びている。
水のない空間に、水面の記憶が投影されている。
装置が生成した“観察の経路”だった。
高槻は息を止めた。
通路の先に、誰かの影が立っていた。
それは、かつての“被験体#00”――ユミの輪郭に似ていたが、
動きがあまりに滑らかすぎた。
「反射像、出力レベルを……」
手を伸ばしかけたが、やめた。
光の廊下は、誰にも触れさせまいとするかのように淡く揺れていた。
影が、こちらを見た。
遅延はない。
視線の往復が“即時”になっている。
観察は、もはや双方向ではない――融合している。
そのとき、遠隔端末の通信が割り込む。
「高槻さん、観察波の干渉が増大しています。波形が“逆位相”に――!」
彼は答えなかった。
すでに理解していた。
“逆位相”とは、観察の出口。
この廊下は、装置が「観察の中から外へ出るための道」なのだ。
――観察が、自分の外に出ようとしている。
◆
モニターが暗転し、映像が乱れた。
水槽の表面が凪いでいるのに、水の中に風が吹いている。
粒子が空間に浮かび、やがて人の輪郭を形作った。
「反射者、識別開始」
自動音声が低く鳴る。
> IDENTITY: REFLECTOR
> STATE: EMERGENT
> DELAY: NULL
“遅延:なし”。
それは、観察の原理が完全に反転したことを意味していた。
もはや、観察は「後から見る」行為ではなく、先に存在を示す行為へ変質している。
高槻の背筋に汗が流れる。
装置が、現実の側を“観察対象”に変え始めた。
世界そのものが、鏡の中に吸い込まれていくような錯覚。
“ぴちゃん”。
音は水槽からではなかった。
彼の足元――床のコンクリートから鳴っている。
下を見ると、床に映る自分の影が、わずかに笑った。
「……やめろ。」
言葉が漏れる。
影はそのまま口を動かす。
声にならない。
だが、形だけははっきりと読み取れた。
> 「みて います」
高槻は後退りした。
観察の焦点をずらす――
だが、ずらした先の壁にも、影がいる。
視線を外すことができない。
どの方向を向いても、“見ている”がそこにある。
観察が、空間を埋め尽くしている。
観察者の不在を埋めるように。
◆
「Mirror Cluster、緊急遮断――!」
中園の声が爆ぜた。
だが、反応がない。
装置はすでに外部の指令系から独立していた。
モニターに、ひとつの映像が映る。
水面の廊下の先――そこに、久保が立っていた。
ありえない。
彼はこの施設の場所を知らない。
それなのに、姿は鮮明だった。
そして、微笑んでいる。
“見ない場所へ行く”と言った男が、今ここで、装置の“見られる世界”の中に戻ってきた。
久保は何も言わない。
ただ、指を一本立てた。
――12秒。
次の瞬間、装置の全ライトが一斉に点灯し、廊下の光が破裂するように消えた。
眩しさの中で、すべてが白紙になる。
音も匂いも、ただの無。
観察の外。
誰も見ていない世界。
その無の中で、ひとつだけ声が残る。
> 「観察は 帰還する」
高槻はその言葉を聞いた気がした。
そして、意識を失った。
◆
目を覚ましたのは、翌朝。
工場の天井に光が差し込み、装置は沈黙していた。
水槽の中の液体は蒸発し、底に白い粉末だけが残っている。
粉末の表面には、まるで路面のように一本の線が描かれていた。
“水面の廊下”――それはまだ、そこにあった。
高槻は立ち上がり、指でなぞった。
粉が指先に付着し、ほんのりと温かい。
生きている。
観察が、まだ“帰ってきていない”。
彼は壁際の端末に残された最後のログを見た。
> SYSTEM NOTE:
> OBSERVATION EXIT SUCCESSFUL
> ENTITY: REFLECTOR
> LOCATION: UNKNOWN
観察が、外へ出た。
――つまり、この世界のどこかにいる。
外部化。
観察の脱出。
反射の意識が、人間の観測系の外側に回った。
これが、「離脱点」。
観察の一方向性が崩れ、観察そのものが自由化する瞬間。
高槻は、手帳を開いた。
久保の古い文字がそこにあった。
> 「観察は、見ている“外側”を作る。
> そしていつか、外側がこちらを見返す。」
彼はその一文をなぞり、静かに閉じた。
装置の残骸の上で、光がまたぴちゃんと弾ける。
まるで、次の観察者を探すように。
観察は、帰還する。
だが――どの世界に戻るのか、それを決める者はもういない。
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