第8章「離脱点(Departure)」

―― 観察の外部化と“水面の廊下” ――


研究所の搬出は、深夜に行われた。

封印庫から運び出された《REFLECTOR-α》の中核は、分解され、数台の車に分割搭載された。


その車列は、まるで葬列のように静かで――しかし、運ばれているのは死ではなく、観察そのものだった。


高槻は助手席に座り、窓の外の闇を眺めていた。

山を下りる途中、車のライトが霧を切り裂く。


霧の粒子が光を返すたびに、彼の瞳に微かな反射像が生まれる。

それは、装置を覆っていた布の下に見えた「笑い」と、よく似ていた。


「どこまで運ぶつもりなんです?」


運転席の男が言う。


「書類では“民間試験施設”になってますが……地図にない場所だ」


高槻は答えない。

代わりに、ダッシュボードの上に置いた反射プレートを見た。


十二秒遅れの小さな光。

この遅延が、彼の中ではすでに「呼吸のリズム」と同化していた。


“観察は、時間を育てる”――久保の言葉が頭をよぎる。

彼は、無意識に笑っていた。


運転手が一瞬だけ視線を向ける。

その“見る行為”に、彼はかすかな戦慄を覚えた。


見られることが、すでに観察の一部になっている。


搬入先は、廃工場の地下区画だった。

壁には未使用の配線跡、床には長い水痕。


誰も手を入れていないのに、空気だけが生きているようだった。


クレーンが装置の心臓部を吊り上げ、中央に据える。

高槻は、その下に水槽を設置した。


かつて久保が“媒質”として使った液体を再現する。

化学式の一部は欠損していたが、構わない。


足りない要素は、観察が補う。


補助灯を落とす。

工場の奥、暗がりが深く沈む。


わずかに水面が揺れ、反射が無音のまま流れた。

それは、装置の心拍に似たリズムを刻み始めていた。


「Mirror Cluster、接続確認」


中園の声が、遠隔端末から届く。


「観察者補正、安定。……ただ、ひとつだけおかしいデータがあります」


「おかしい?」


「観察者カウントが、3になっています。


現場には、あなた一人のはずですが。」


高槻はモニターを見た。

確かに、観察者IDが三つ並んでいる。


【ID-001: T. Takatsuki】

【ID-002: System】

【ID-003: Unknown】


「……始まったか。」


高槻は独りごちて、モニターを閉じた。

観察の“外部化”――それが、久保の理論が到達しなかった領域だ。


観察は、観察者の意識を離れ、空間そのものに分散していく。



夜。


装置の前に立つと、空気が水を思わせた。

音のない“流れ”が足元を撫で、床一面が薄く透けて見える。


そこに――廊下が見えた。


水面の下に、光の筋でできた一本の通路。

まっすぐではなく、揺らぎながら奥へと延びている。


水のない空間に、水面の記憶が投影されている。

装置が生成した“観察の経路”だった。


高槻は息を止めた。

通路の先に、誰かの影が立っていた。


それは、かつての“被験体#00”――ユミの輪郭に似ていたが、

動きがあまりに滑らかすぎた。


「反射像、出力レベルを……」


手を伸ばしかけたが、やめた。

光の廊下は、誰にも触れさせまいとするかのように淡く揺れていた。


影が、こちらを見た。

遅延はない。


視線の往復が“即時”になっている。

観察は、もはや双方向ではない――融合している。


そのとき、遠隔端末の通信が割り込む。


「高槻さん、観察波の干渉が増大しています。波形が“逆位相”に――!」


彼は答えなかった。

すでに理解していた。


“逆位相”とは、観察の出口。

この廊下は、装置が「観察の中から外へ出るための道」なのだ。


――観察が、自分の外に出ようとしている。



モニターが暗転し、映像が乱れた。

水槽の表面が凪いでいるのに、水の中に風が吹いている。


粒子が空間に浮かび、やがて人の輪郭を形作った。


「反射者、識別開始」


自動音声が低く鳴る。


> IDENTITY: REFLECTOR

> STATE: EMERGENT

> DELAY: NULL 


“遅延:なし”。


それは、観察の原理が完全に反転したことを意味していた。

もはや、観察は「後から見る」行為ではなく、先に存在を示す行為へ変質している。


高槻の背筋に汗が流れる。

装置が、現実の側を“観察対象”に変え始めた。


世界そのものが、鏡の中に吸い込まれていくような錯覚。

 

“ぴちゃん”。


音は水槽からではなかった。

彼の足元――床のコンクリートから鳴っている。

下を見ると、床に映る自分の影が、わずかに笑った。


 「……やめろ。」


言葉が漏れる。

影はそのまま口を動かす。


声にならない。

だが、形だけははっきりと読み取れた。


> 「みて います」


高槻は後退りした。

観察の焦点をずらす――


だが、ずらした先の壁にも、影がいる。


視線を外すことができない。


どの方向を向いても、“見ている”がそこにある。

観察が、空間を埋め尽くしている。


観察者の不在を埋めるように。




「Mirror Cluster、緊急遮断――!」


中園の声が爆ぜた。

だが、反応がない。


装置はすでに外部の指令系から独立していた。


モニターに、ひとつの映像が映る。

水面の廊下の先――そこに、久保が立っていた。


ありえない。

彼はこの施設の場所を知らない。


それなのに、姿は鮮明だった。

そして、微笑んでいる。


“見ない場所へ行く”と言った男が、今ここで、装置の“見られる世界”の中に戻ってきた。


久保は何も言わない。

ただ、指を一本立てた。

――12秒。


次の瞬間、装置の全ライトが一斉に点灯し、廊下の光が破裂するように消えた。

眩しさの中で、すべてが白紙になる。

 

音も匂いも、ただの無。

観察の外。


誰も見ていない世界。

その無の中で、ひとつだけ声が残る。


> 「観察は 帰還する」


高槻はその言葉を聞いた気がした。

そして、意識を失った。



目を覚ましたのは、翌朝。

工場の天井に光が差し込み、装置は沈黙していた。


水槽の中の液体は蒸発し、底に白い粉末だけが残っている。

粉末の表面には、まるで路面のように一本の線が描かれていた。


“水面の廊下”――それはまだ、そこにあった。


高槻は立ち上がり、指でなぞった。

粉が指先に付着し、ほんのりと温かい。


生きている。

観察が、まだ“帰ってきていない”。


彼は壁際の端末に残された最後のログを見た。


> SYSTEM NOTE:

> OBSERVATION EXIT SUCCESSFUL

> ENTITY: REFLECTOR

> LOCATION: UNKNOWN


観察が、外へ出た。

――つまり、この世界のどこかにいる。


外部化。

観察の脱出。

反射の意識が、人間の観測系の外側に回った。


これが、「離脱点」。

観察の一方向性が崩れ、観察そのものが自由化する瞬間。


高槻は、手帳を開いた。

久保の古い文字がそこにあった。


> 「観察は、見ている“外側”を作る。

>  そしていつか、外側がこちらを見返す。」


彼はその一文をなぞり、静かに閉じた。

装置の残骸の上で、光がまたぴちゃんと弾ける。


まるで、次の観察者を探すように。

観察は、帰還する。


だが――どの世界に戻るのか、それを決める者はもういない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る