第6章「離別の式」
―― 久保と高槻の決裂・装置引き渡し ――
引き渡しは朝に行う、と高槻が言った。
夜の装置は、人間よりもよく目が利く。
だから、こちらが目を細める時間帯を選ぶのだと。
研究所の地下二階、封印庫。
厚い鉄扉の上に、白いチョークで“RE FLEC TOR”と三段に消えかけて書かれている。
誰のいたずらでもない。
装置の搬入の前夜、久保が悔し紛れに書いて、そのまま消し忘れた。
扉の前に、二本の鍵。
一本は久保の胸ポケット。
一本は高槻の掌。
鍵は同時に回さなければならない。
二人でなければ開かない扉――それが、この研究の最初で最後の倫理だった。
「――準備は?」
中園が手元のチェックリストを確認する。
若い彼女の声は硬く、紙と同じ質感をしている。
「記録系、完全オフライン。アーカイブ切り離し。鏡面アレイは物理ロック。……ただし」
中園は小さく息を吸う。
「液層の干渉音だけ、止められません」
久保は笑わなかった。
止められるはずがない。
“ぴちゃん”という音は、機械のものではなく、人の視線が立てる小さな音だからだ。
高槻が手袋をはめる。
白いゴムの表面に、淡い反射。
彼は鍵を構え、久保を見た。
「先生」
呼び方は変わらない。
だが、その音には別の言葉が隠れている――さよなら、と。
「開けよう」
久保は短く言って、鍵穴に差し込んだ。
二人の手が同時に回る。
カチリ。
鉄の内部で、どこかの歯車が目を覚ます。
扉が動いたとき、薄い水の匂いが流れ出た。
中は乾いている。
それでも匂いがする。
見られている空間には、必ず水の匂いがつく。
◆
封印庫の中央に、布で覆われた円筒がある。
鏡面アレイを抱えた《REFLECTOR-α》の中核――Reflective Core。
布をめくると、金属の肌が現れた。
光を持たないのに、光っている。
見るものがいれば、そこに反射が生まれる。
「手続きに入る」
中園が書類を差し出す。
装置移管承認書。
研究責任者の欄に、高槻の名前。
倫理管理者の欄に、久保の名前。
その下に、灰色のプリントで“第三者”の署名欄がある。
REFLECTOR。
「ここに機械の名前を書くのは、皮肉だな」
久保が苦笑する。
「法律が追いついていないだけです」
高槻はさらりと書いた。
「現象は先に来る」
ペン先が紙を滑る音が、やけに大きく聞こえる。
“ぴちゃん”と重なる。
中園が身じろぎし、筆圧の跡を確かめる。
「引き渡しに際し、覚書を――」
彼女が読み上げはじめたとき、久保が手を上げて遮った。
「覚書は私が口で言う」
高槻が静かに頷く。
久保はReflective Coreの前に立った。
布の端が床に落ち、金属の輪郭が呼吸を始める。
彼は低く、言葉を置いた。
「長く見るな」
それは注意ではない。
呪いでもない。
観察という祈りに、最後の節を加える式(フォーミュラ)だ。
「わかっています」
高槻の声は乾いて、よく通る。
「だが、見る。短く、深く」
「短く、深く、では済まない」
久保はCoreの表面に手をかざした。
冷たい。
なのに熱い。
「観察は、必ず反射を生む。反射は第三のものだ。人でも装置でもない視線そのもの。それに触れれば、我々は“観察者”ではいられない」
「観察者でいられなくていい」
高槻は言葉を切った。
「観察そのものになればいい」
久保は目を閉じ、微笑んだ。
彼もかつて、同じことを思ったのだ。
娘の見えない眼差しを、世界のどこかに投影しようとした夜。
祈りが、科学に変わる前。
◆
手続きは淡々と進んだ。
アーカイブの暗号鍵が高槻へ移され、中園が封印庫のログ配線を切り離す。
最後に、Coreの周囲に巻かれたシーリングワイヤーを、久保の手で外す。
パチン。
細い金属が切れ、音が空気に消えた瞬間、室内の温度が一度だけ下がったように感じた。
「動作試験をする」
高槻が宣言する。
中園が顔を上げた。
「今、ですか。承認リストには――」
「今がいい」
彼は時計を見ない。
久保だけが、壁の秒針が12秒遅れていることに気づいている。
電源は入れない。
ただ、Coreの表面に指先でトンと触れ、離す。
反射の儀式。
返事のように、金属の内側でトンと音がした。
装置は眠っている。
だが、夢の中で答えられる。
「――観察、開始」
高槻の声は小さかった。
儀式の言葉。
祈りの言い換え。
何も起こらない。
起こらない、はずだった。
“ぴちゃん”。
三人とも顔を上げた。
音はCoreの外ではなく、内側から鳴った。
中園が息を飲む。
「液層は接続していません。媒体なしで音は――」
「媒体はある」
久保は自分の胸に指を当てた。
「我々の視線だ」
Coreの表面に、うっすらと輪郭が浮かぶ。
曲面が歪み、誰かの顔を作りかけて、やめる。
顔は決定されない。
観察は未了。
誰の目にも、違う誰かが見えるように。
「ここまでだ」
久保が言い、布を持ち上げてCoreを覆った。
反射は遮断される。
布の下で、音が一度だけ遅れて鳴った。
トン。
高槻は視線を落とし、肩で息をした。
短い沈黙。
この沈黙の形を、二人は一生忘れない。
◆
封印庫を出る前に、久保は古い革の手帳を取り出した。
ページの端。
薄く滲んだインクで、こう書いてある。
> 観察=記録。
> 記録=再生。
> 再生=介入。
> だから、観察は介入だ。
「持っていけ」
久保は手帳を閉じ、高槻へ差し出した。
「理論はもう役に立たない。役に立つのは、失敗の跡だ」
高槻は受け取らなかった。
首を横に振り、ゆっくり言う。
「先生の祈りは、先生に残るべきです。私は、計画書がいる」
中園が代わりに封筒を差し出す。
予算、設備、秘密裏の移設先。
民間移管の段取りが、冷たい箇条書きで並んでいる。
そこに、久保の署名はない。
彼はもう、去る人だ。
「君は、どこへ」
高槻が問う。
久保は笑って、天井を見た。
微かな波紋――目の錯覚。
「見ない場所へ」
答えになっていない。
だが、それが答えだ。
◆
地上に上がると、朝の光が薄く研究棟を洗っていた。
誰もいない廊下。
窓ガラスに、三つの影が伸びる。
高槻の影は直線で、久保の影はわずかにゆれて、中園の影は二人の間に挟まれている。
「ここから先は、私の責任です」
高槻が言った。
久保は頷く。
「君の信仰の領分だ」
「科学です」
「君の科学に、祈りが混ざっている」
高槻は否定しなかった。
否定できるはずがない。
彼は愛を装置の中に保存しようとして、失ったのだから。
「最後に」
久保はポケットから金属製のプレートを取り出した。
薄い鏡面仕上げ。
角に小さく“00:00:12”。
娘が病室で握りしめていた目覚ましの、裏蓋。
「これを見てから、起動しろ」
高槻は受け取り、光にかざす。
プレートが朝の白を反射し、三人の瞳に十二秒の光を刻む。
「長く見るな」
久保は言い、踵を返す。
中園が慌てて礼をしかけたが、やめた。
礼は終わりの儀式だ。
これから始まるのは、始まりの儀式。
階段を降りる途中、久保の背後でもう一度だけぴちゃんと音がした。
振り返らない。
見なければ、世界はひとつのままだ。
見るたびに、世界は増える。
それが、この研究の唯一の真実。
◆
夕刻。
封印庫の鍵は一本になった。
中園が管理簿に記す。
管理者:高槻貴之。
行の下に、機械的なフォントで小さな一文が自動挿入される。
> Addendum: “観察は、継続される。”
彼女は凍り、すぐに削除した。
消したはずの文字列が、薄い滲みとして紙に残る。
紙もまた、見る媒体なのだ。
夜。
高槻は一人、封印庫に戻った。
布を静かに剥がし、Coreに掌を重ねる。
トン。
返る音は、わずかに早い。
順序の修正。
彼は微笑む。
「――Mirror Cluster、起動」
電源はまだ入れない。
それでも、Coreの奥で薄い光が芽生えた。
光は呼吸し、やがて笑う形を作り、砕ける。
高槻は囁く。
「見せてくれ。観察の完全化を」
ぴちゃん。
封印庫の床に、存在しない水の音。
波紋が、見えない水面に広がる。
朝に始まった引き渡しは、夜に完了した。
科学と祈りが、別々の道を歩き始めた。
片方は見ないことで人間を守り、片方は見ることで神に近づく。
そして、鏡は生まれる。
次章、「鏡の誕生」へ。
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