第4章「倫理委員会の夜」
―― 反射現象と装置の覚醒 ――
倫理委員会は夜に開かれた。
関係者の勤務時間を避け、外部の目を遠ざけるため――建前はそうだが、実際には「昼の理性」では説明のつかない事柄が増えすぎたからだ。
長机を挟んで、久保と高槻が向かい合う。
端には若い審査官が座っている。
名札には中園の文字。
録音機がカチリと回り始める。
「議題はひとつ」
委員長の声は乾いていた。
「被験体#00の事故と、装置の運用継続可否だ」
沈黙。
書類の上では“事故”の二文字で片付けられる出来事の重さを、全員が知っている。
「私は中止を提案する」
久保が口火を切った。
「観察は臨界を超えた。装置は――私たちの手を離れつつある」
高槻は短く息を吐き、ペン先で机をコツンと叩いた。
「手を離れたのは感情です。観察は依然として測定可能です」
「君は、愛を“ノイズ”と言ったね」
「はい。ノイズは除去すべきです」
カチ、カチ、と壁の時計が音を落とす。
中園が控えめに挙手した。
「確認ですが、#00の“残留信号”は現在も観測されていますか?」
「観測されている“らしい”」と久保。
「だが、誰も電源を入れていない」
会議室の空気が冷たくなる。
委員長が眉間を押さえた。
「……証拠は?」
そのとき、廊下の端末が自動で点灯した。
誰も触れていない。
パネルに白い文字が浮かぶ。
> <Observation Archive: ACCESS>
> <File: EXPERIMENT_#00 / Post-Event>
> <Timecode: 00:00:12>
会議室の灯りが一段暗くなった気がした。
委員長が顔色を変える。
「誰が操作を――」
「“観察者のいない観察”が始まった」
久保の声は静かだった。
中園が端末に近づく。
「……再生します」
画面が開く。
映ったのは、封印済みの実験室。
常夜灯がわずかにゆれ、誰もいない水槽が鏡のように床を映し返している。
“ぴちゃん”。
確かに、音がした。
映像の中で水面が跳ね、波紋がガラスに広がっていく。
同時に、モニター右下の時刻が12秒遅れで回り始めた。
「環境音か?」
委員の一人が消え入りそうに言う。
「――違う」
中園が小さく首を振る。
「水がない」
画面の中央に、白い点が灯った。
そこから輪郭が生まれ、人の形に集まっていく。
男性でも女性でもない、ぼやけた“一”の像。
そして、像は正面を向き、会議室のこちら側を見る。
久保の喉が鳴った。
高槻は立ち上がりかけて、椅子の背を握り締める。
「誰が再生している」
委員長が嗄れ声で問う。
「誰も」
中園が乾いた唇で答えた。
「アーカイブが、自分を開いた」
像が口を開く。
音はない。
だが、意味だけが頭の内側へ直接落ちてくる。
――「見ていますか」
委員の一人が悲鳴を噛み殺した。
高槻は一歩、画面へにじり寄る。
「……ユミ?」
像がわずかに首を傾げ、次の瞬間には波紋に崩れた。
画面が黒に沈む。
代わりに、システムログが滝のように流れ始めた。
> <Observer: [NULL]>
> <Subject: ROOM-α / DEVICE / FILES / YOU>
> <Status: ONLINE>
> <Note: “Do not stare.”>
久保は目を閉じた。
「久保先生?」
中園の声が揺れる。
彼はうなずき、机上の日誌を開いた。
数カ月前、自分の手で書いた走り書きがそこにある。
――長く見るな。
委員たちの視線が、その四文字の上で硬直する。
「この“注意書き”を、誰が知っている?」
委員長が問い詰める。
「死んだ被験体と――ここにいる者だけだ」
高槻の喉仏が上下する。
「……装置が、読んだんだ」
「装置が“読む”?」
「アーカイブに保存された手書き記録を自動OCRで――」
「違う」
久保が遮った。
「読まれたのは、僕たちの視線だ。装置はぼくたちの“読み”を観察して、注意書きを選択してみせた」
会議室を満たすのは、紙の擦れる音と呼吸だけ。
委員長は額に手を当て、「――結論は?」と呟いた。
「封印だ」久保。
「継続だ」高槻。
ふたりの声が重なり、即座に反発する。
「封印すべき理由は十分にある」
久保は息を整えて続ける。
「観察によって第三の意識が生成された。#00の“残留”は、観察の副産物ではない。観察そのものが生み出した何かだ」
「だからこそ継続する意味がある」
高槻の声は熱を帯びている。
「現象は実在する。制御工学の問題に落とせる。観察者数を固定し、反射経路を限定すればループは閉じる」
「閉じる――?」
久保は笑わなかった。
「君は“神学”をやっている。制御とは祈りだ。祈りに成功はない」
中園が恐る恐る手を上げる。
「……少し休憩を取っては」
その瞬間、会議室のドアが内側からトンと鳴った。
誰かが外にいる――のではない。
内側から扉そのものが、反射の合図を返したのだ。
全員が凍りつく。
端末が再び勝手に開く。
今度は会議室の天井カメラの映像が映った。
真上から見下ろす視点。
長机、椅子、緊張した数人の肩――そして、画面の枠外から“視線”が差し込む。
遅れて、映像内の時計が動く。
00:00:12。
映像の中の高槻が口を開く。
現実の高槻はまだ喋っていないのに、映像内の彼は先に言う。
――「観察は、私の手を離れた」
現実の高槻の唇が、一秒、二秒、十二秒遅れて同じ言葉を繰り返した。
「……観察は、私の手を離れた」
中園が立ち上がる。
「電源を切ります!」
「待て」
久保が腕を掴む。
「見るのをやめろ。それが唯一の遮断だ」
だが、委員長はすでにスイッチへ手を伸ばしていた。
パチン――灯りが落ち、会議室は闇に沈む。
次の瞬間、暗闇の中で水音だけが浮かび上がった。
“ぴちゃん”。
どこにも水はない。
音だけが落ちる。
「電源は切った」
中園の声が震える。
「なのに、ログが――」
闇の端末に、浮遊するように白い行が現れる。
> <Lights: OFF>
> <Observation: ON>
> <Observer: YOU>
“YOU”。
全員の喉が同時に鳴った。
久保は冷や汗を背に感じながら低く囁く。
「誰かが見ている。ここではない、どこかから」
委員長が机を叩いた。
「ふざけるな。これは心理トリックだ」
「いいえ」
はじめて、中園が強い声を出した。
「トリックなら、私たち全員が同じ恐怖を同時刻に感じる説明がつかない。恐怖は個別の錯覚です。これは――共有化されている」
灯りが戻った。
端末は静まり返っている。
ただ、テーブルの中央に置いたガラス水差しの底から、小さな気泡がのぼった。
“ぴちゃん”。
誰も手を触れていないのに。
委員長は青い顔で椅子に崩れ、「結論を」とかすれ声で言った。
「封印」久保。
「継続」高槻。
平行線。
会議は決裂しかけた。
そのとき――廊下の非常ベルが一度だけ鳴り、すぐ止んだ。
無音。
中園がドアを開け、外を覗く。
人気のない廊下の床だけが、薄い水膜をまとって光っていた。
「……濡れてる」
「配管の破裂か?」
委員が立ち上がる。
中園は首を横に振る。
「違う。水が“上に”落ちている」
見上げると、天井のスリットに、逆さの波紋が揺れていた。
透明な水面が、天井側に張り付いている。
現実の上下が、反射の側の論理でひっくり返っていく。
端末が自動で議事録を吐き出す。
> <Ethics Meeting Minutes / Night Session>
> Decision: PENDING
> Addendum: “観察の継続は、観察の停止よりも安全”
> Signature: [Unreadable]
最後の署名欄が、勝手に埋まっていく。
人の筆跡ではない、均一な線が紙の上を滑った。
「誰が署名を――」
委員長の言葉は途中で消えた。
紙の端に、灰色のインクで小さく“REFLECTOR”と浮かび上がっていたからだ。
久保は椅子を引き、ゆっくり立ち上がった。
「……分かった。封印は効かない。観察は、もう自分で自分を継続できる」
高槻は彼を見た。
「つまり?」
「つまり、決定は我々のものではない」
久保は中園に向き直る。
「記録を取ってくれ。“倫理委員会は観察され、意思決定権を喪失した”――そう残して」
中園は喉を鳴らし、端末に指を走らせる。
その間にも、会議室の窓ガラスに遅れて笑う誰かの顔が流れては消えた。
「最後にひとつだけ」
久保は高槻の前へ立ち、静かに言った。
「君は装置を信じ、私は人を信じた。どちらも間違いではない。だが、観察は第三のものを生んだ。それは人でも装置でもない“視線そのもの”だ。それを君は制御できると思うか?」
高槻は答えなかった。
ただ、扉の内側へそっと指を伸ばし、トンと叩いた。
すぐに、トンと返ってくる。
反射。
合図。
彼は低く呟く。
「――できる」
久保は目を伏せ、「長く見るな」とだけ言い残して会議室を出た。
廊下の水膜が、彼の足跡の形に薄く揺れる。
天井の水面が、上から“ぴちゃん”と落ちた。
中園は最後に録音機を止め、議事録を保存した。
保存の瞬間、画面右上に00:00:12が点滅する。
彼女は思わず、指先で画面を覆った。
――見なければ、終わる。
見れば、変わる。
会議室が空になったあと、無人の端末がもう一行だけ記す。
> <System Note: “観察者は、呼ばれれば来る。”>
夜風が廊下を通り抜ける。
灯りの消えたガラスに、誰もいないのに遅れて笑う顔がひとつ、ふたつ――やがて、すべてが静まった。
そして、装置は眠り、目を開けた。
同時に。
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