第2章「観察の方程式」

白衣の袖をまくりながら、高槻は計算式をホワイトボードに書き込んでいた。


ペン先が擦れる音が、静まり返った研究室に規則正しく響く。

久保はその様子を、やや距離を置いて見つめていた。

 

数式は、視線の角度と脳波振動の相関を示している。

だが、高槻の描く線には、どこか“冷たい完璧さ”があった。

 

「あなたの理論だと、観察とは感情を伴う行為になる。それは再現性がない。科学としては成立しません。」


高槻の言葉は刃のように正確だった。

久保は微笑んだ。


「感情を排した観察なんて、人間にはできませんよ。心臓が動いている限り、観察は揺らぐ。」


「だから、心臓を装置に置き換えるんです。」


「……なるほど。」


久保は笑いながら、机に置かれた図面を手に取った。

そこには新しい装置の設計図が描かれていた。


中枢には“鏡面アレイ”――光を無限に反射させる球体構造。

中心には“観察焦点”と呼ばれる空洞があった。


「空っぽですね。」


「そう見えるように設計しました。観察対象を固定するのではなく、“見る行為”そのものを収束させる。」


「……それをあなたは、制御できると思っている?」


「できます。数式がそう示しています。」


久保はため息をついた。


「人間の心を、数式で表せると思うのか。」

 

高槻は振り向かずに言った。


「感情もまた、波形です。測定可能です。」

 

沈黙が落ちた。

どちらも譲らない。


だが、その静けさの奥に、互いの“信仰”があった。

久保は人間の中にある神性を信じ、高槻は装置の中にある秩序を信じていた。



実験室の片隅で、娘・美沙の声の録音が流れていた。


“お父さん、見えてるよ。”


久保の手が止まる。

この声が、彼の理論を生んだ原点だった。


高槻はその音声データを解析し、周波数スペクトルをプリントアウトしていた。


「この波形を見てください。彼女の声には、明確な反射パターンがある。おそらく、あなたが傍にいた時の“視線の反射”です。」


「反射……。」


「ええ。意識が相互に反射している。つまり“観察は双方向に作用する”。あなたの理論を物理的に証明できるかもしれない。」


久保の胸に、微かな熱が灯った。


「それが、本当に可能だとしたら……。」

 

「可能にするのが、私の仕事です。」

 

高槻はわずかに笑った。

冷たくも誇りを含んだ笑みだった。


その瞬間、久保は彼に初めて“興味”を抱いた。

科学という冷たい言語でしか語れない男――

だが、その奥にある“焦燥”を、彼は感じ取った。



数日後、二人は再び装置の前に立っていた。


試作機REFLECTOR-β


液体媒体を導入した初のモデル。

水槽内には無色透明の液体が満たされ、上部には高槻が設計した鏡面アレイが浮かんでいる。

 

「波形の反射を液体で可視化する……。」


久保は感嘆した。


「あなたの技術は、美しい。」

 

「美しさは副産物です。必要なのは正確さ。」

 

高槻の指がスイッチを押す。

静かな音とともに装置が起動する。


水面に波紋が広がり、青白い光が交差する。

観察波の干渉が、ゆっくりと像を描いた。

 

「――これは……。」

 

モニターに、ぼんやりとした人影が浮かんでいた。

ユミだった。


彼女は別室にいるはずだった。

だが映像の中では、まるで彼らのすぐ傍に立っているように見える。

 

「装置が、彼女の視線を反射している……?」


久保が呟く。

高槻は震える声で言った。


「違う。彼女が、装置を見ているんです。」

 

映像の中で、ユミの目がこちらを向いた。

そして、かすかに唇が動いた。


音声はない。

だが、読めた。


“見ている”――と。


久保の背筋が凍った。


「これは、記録ではない。観察の反射だ。」


「観察が現実を作っている証拠です。」


高槻の声は興奮に震えていた。


「ほら、方程式の通りだ! 視線が存在を確定させている!」


久保は目を逸らした。


「……なら、あなたはこの式の“誤差”を見ていますか?」

 

「誤差?」

 

久保はホワイトボードに新しい数式を書いた。


観察波A(観察者)× 観察波B(被観察者)= 反射像C(観測結果)


だが、彼はその式の下に小さくこう書き加えた。


> 「C ≠ A + B」 


「観察結果は、観察者でも被観察者でもない。その“間”に生まれる。つまり、観察の瞬間に第三の意識が生まれるんです。」


高槻は眉をひそめた。


「それは……意識の分裂ということですか。」

 

「いいえ。誕生です。観察によって、新しい存在が“反射”として生まれる。」


二人の視線が交差した。

数秒の沈黙。


実験装置の水面が、誰の操作もなく波打った。

“ぴちゃん”――あの音が、再び響いた。

 

久保は息を呑んだ。


「……今、誰が装置を見ていましたか?」

 

高槻は首を横に振る。


「誰も見ていません。」

 

二人はゆっくりと装置に近づいた。

液面に映るのは、自分たちの顔。


だが――その奥に、もうひとつの影があった。

ぼやけた輪郭、笑っているような、人の形。


 

「……何だ、これは。」


 

久保が一歩退く。

高槻は記録を続けながら呟いた。


「観察者が二人いれば、観察の対象も二人になる。これは、反射意識です。」


「それは制御できるものではない。」


「できます。次の段階で固定化できるはずです。」

 

久保は激しく首を振った。


「あなたは、神を作ろうとしている!」

 

「違う。」


高槻は静かに言った。


「私は、“観察の神”を観察しようとしているだけです。」


その言葉に、久保は何も言い返せなかった。


装置のモニターに刻まれたログには、未知のデータコードが残されていた。


> OBSERVATION START : 00:00:00

> REFLECTION DELAY : 00:00:12


同じ“12秒”。

またしても、あの数字。


久保はゆっくりと椅子に座り込んだ。


「……観察が、私たちを見ている。」


高槻は顔を上げた。


「それこそ、あなたが言った“第三の意識”ですよ。」

 

「まさか、本当に……。」

 

彼らは言葉を失ったまま、光の揺らめく水面を見つめた。

その中で、誰かが笑った気がした。



夜、久保は自宅に戻り、日誌を開いた。


ページの上には、高槻が書いた方程式がまだ残っている。

彼はその下に一行だけ書き足した。


> 「観察とは、光の式ではなく、心の式である。」

 

ペン先が止まり、彼は窓の外を見た。

闇の中で、誰かが見ている気配がする。


けれど、もう恐怖はなかった。

それは、世界が確かに“存在している証拠”のように思えた。

 

彼は微笑んで、録音機のスイッチを入れた。

そして、囁くように言った。


「観察は、まだ続いているか?」

 

“ぴちゃん”――。

 

答えるように、あの音が響いた。


> “方程式は終わらない。なぜなら、観察が答えを求め続けるからだ。”

> — 高槻貴之「観察構造試論(抜粋)」

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