第2章「観察の方程式」
白衣の袖をまくりながら、高槻は計算式をホワイトボードに書き込んでいた。
ペン先が擦れる音が、静まり返った研究室に規則正しく響く。
久保はその様子を、やや距離を置いて見つめていた。
数式は、視線の角度と脳波振動の相関を示している。
だが、高槻の描く線には、どこか“冷たい完璧さ”があった。
「あなたの理論だと、観察とは感情を伴う行為になる。それは再現性がない。科学としては成立しません。」
高槻の言葉は刃のように正確だった。
久保は微笑んだ。
「感情を排した観察なんて、人間にはできませんよ。心臓が動いている限り、観察は揺らぐ。」
「だから、心臓を装置に置き換えるんです。」
「……なるほど。」
久保は笑いながら、机に置かれた図面を手に取った。
そこには新しい装置の設計図が描かれていた。
中枢には“鏡面アレイ”――光を無限に反射させる球体構造。
中心には“観察焦点”と呼ばれる空洞があった。
「空っぽですね。」
「そう見えるように設計しました。観察対象を固定するのではなく、“見る行為”そのものを収束させる。」
「……それをあなたは、制御できると思っている?」
「できます。数式がそう示しています。」
久保はため息をついた。
「人間の心を、数式で表せると思うのか。」
高槻は振り向かずに言った。
「感情もまた、波形です。測定可能です。」
沈黙が落ちた。
どちらも譲らない。
だが、その静けさの奥に、互いの“信仰”があった。
久保は人間の中にある神性を信じ、高槻は装置の中にある秩序を信じていた。
◆
実験室の片隅で、娘・美沙の声の録音が流れていた。
“お父さん、見えてるよ。”
久保の手が止まる。
この声が、彼の理論を生んだ原点だった。
高槻はその音声データを解析し、周波数スペクトルをプリントアウトしていた。
「この波形を見てください。彼女の声には、明確な反射パターンがある。おそらく、あなたが傍にいた時の“視線の反射”です。」
「反射……。」
「ええ。意識が相互に反射している。つまり“観察は双方向に作用する”。あなたの理論を物理的に証明できるかもしれない。」
久保の胸に、微かな熱が灯った。
「それが、本当に可能だとしたら……。」
「可能にするのが、私の仕事です。」
高槻はわずかに笑った。
冷たくも誇りを含んだ笑みだった。
その瞬間、久保は彼に初めて“興味”を抱いた。
科学という冷たい言語でしか語れない男――
だが、その奥にある“焦燥”を、彼は感じ取った。
◆
数日後、二人は再び装置の前に立っていた。
液体媒体を導入した初のモデル。
水槽内には無色透明の液体が満たされ、上部には高槻が設計した鏡面アレイが浮かんでいる。
「波形の反射を液体で可視化する……。」
久保は感嘆した。
「あなたの技術は、美しい。」
「美しさは副産物です。必要なのは正確さ。」
高槻の指がスイッチを押す。
静かな音とともに装置が起動する。
水面に波紋が広がり、青白い光が交差する。
観察波の干渉が、ゆっくりと像を描いた。
「――これは……。」
モニターに、ぼんやりとした人影が浮かんでいた。
ユミだった。
彼女は別室にいるはずだった。
だが映像の中では、まるで彼らのすぐ傍に立っているように見える。
「装置が、彼女の視線を反射している……?」
久保が呟く。
高槻は震える声で言った。
「違う。彼女が、装置を見ているんです。」
映像の中で、ユミの目がこちらを向いた。
そして、かすかに唇が動いた。
音声はない。
だが、読めた。
“見ている”――と。
久保の背筋が凍った。
「これは、記録ではない。観察の反射だ。」
「観察が現実を作っている証拠です。」
高槻の声は興奮に震えていた。
「ほら、方程式の通りだ! 視線が存在を確定させている!」
久保は目を逸らした。
「……なら、あなたはこの式の“誤差”を見ていますか?」
「誤差?」
久保はホワイトボードに新しい数式を書いた。
観察波A(観察者)× 観察波B(被観察者)= 反射像C(観測結果)
だが、彼はその式の下に小さくこう書き加えた。
> 「C ≠ A + B」
「観察結果は、観察者でも被観察者でもない。その“間”に生まれる。つまり、観察の瞬間に第三の意識が生まれるんです。」
高槻は眉をひそめた。
「それは……意識の分裂ということですか。」
「いいえ。誕生です。観察によって、新しい存在が“反射”として生まれる。」
二人の視線が交差した。
数秒の沈黙。
実験装置の水面が、誰の操作もなく波打った。
“ぴちゃん”――あの音が、再び響いた。
久保は息を呑んだ。
「……今、誰が装置を見ていましたか?」
高槻は首を横に振る。
「誰も見ていません。」
二人はゆっくりと装置に近づいた。
液面に映るのは、自分たちの顔。
だが――その奥に、もうひとつの影があった。
ぼやけた輪郭、笑っているような、人の形。
「……何だ、これは。」
久保が一歩退く。
高槻は記録を続けながら呟いた。
「観察者が二人いれば、観察の対象も二人になる。これは、反射意識です。」
「それは制御できるものではない。」
「できます。次の段階で固定化できるはずです。」
久保は激しく首を振った。
「あなたは、神を作ろうとしている!」
「違う。」
高槻は静かに言った。
「私は、“観察の神”を観察しようとしているだけです。」
その言葉に、久保は何も言い返せなかった。
装置のモニターに刻まれたログには、未知のデータコードが残されていた。
> OBSERVATION START : 00:00:00
> REFLECTION DELAY : 00:00:12
同じ“12秒”。
またしても、あの数字。
久保はゆっくりと椅子に座り込んだ。
「……観察が、私たちを見ている。」
高槻は顔を上げた。
「それこそ、あなたが言った“第三の意識”ですよ。」
「まさか、本当に……。」
彼らは言葉を失ったまま、光の揺らめく水面を見つめた。
その中で、誰かが笑った気がした。
◆
夜、久保は自宅に戻り、日誌を開いた。
ページの上には、高槻が書いた方程式がまだ残っている。
彼はその下に一行だけ書き足した。
> 「観察とは、光の式ではなく、心の式である。」
ペン先が止まり、彼は窓の外を見た。
闇の中で、誰かが見ている気配がする。
けれど、もう恐怖はなかった。
それは、世界が確かに“存在している証拠”のように思えた。
彼は微笑んで、録音機のスイッチを入れた。
そして、囁くように言った。
「観察は、まだ続いているか?」
“ぴちゃん”――。
答えるように、あの音が響いた。
> “方程式は終わらない。なぜなら、観察が答えを求め続けるからだ。”
> — 高槻貴之「観察構造試論(抜粋)」
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