鬼屋敷の子供達

市野花音

第1話 身の上

 胡桃坂くるみざか鞠音まりねの身の上は少々特殊である。


 父は蒸発し、母は病を得て死んだ。両方の祖父母も既に亡く、母の残した家で一人暮らしている。高校のクラスメイトにそう言った事情を事細かに伝えた訳ではないが、なんとなく会話の節々から垣間見えるものがあるらしく、彼らからは気を遣われている。


 腫れ物扱いは少々居心地が悪いが、かと言って事情にずかずかと踏み込まれるのも嫌な為、鞠音はその善意を有り難く享受している。


「今日買い物行くんだったんだよね。後はやっておくから先帰りなよ」

「……ありがとう、ございます。この埋め合わせは必ず」


 今日もクラスメイトに掃除の仕上げを任せると、鞠音は学校を出た。電車に揺られて最寄りの近鉄奈良駅で降りる。「ようこそ奈良へ」と書かれた鹿のプレートを横目に市街地に出る。近鉄奈良駅は東大寺や春日大社といった有名な観光地に近いので人が多い。


 市街地を抜け、安いと評判のスーパーまで。チラシで安いと謳われていた冷凍食品とパンを購入すると、自宅に一直線。辿り着いたのは郊外にある古びた日本家屋である。


 母の実家である胡桃坂家は所謂旧家というやつで、昔はこの辺りの地主だったらしいが、時の流れとともに殆どの土地を手放し、今はこの無駄に広い屋敷を残すのみ。そして胡桃坂を名乗るのも十五歳の鞠音のみだ。


 がらがらと玄関の引き戸を開け、「ただいま」と声をかける。直ぐに「おかえり」という男性の声が聞こえてきた。ローファーを脱ぐと、突き当たり右の居間に入る。八畳ほどの居間には背の低い長机が置かれ、その上に敷かれた座布団にしゃれこうべが鎮座している。


「御伽様、ご飯買ってきました」


 鞠音はしゃれこうべに向かってエコバッグを掲げた。


「それはよかった。何を買ってきたんだ?」


 かたかたと御伽と呼ばれたしゃれこうべの口が動き、言葉を発した。先ほどの男の声と同じだった。


「ハンバーグとかグラタンとかです。あと、板チョコを買ってみました。朝御飯に食べます」

「いたちょこ、とは?」

「その名の通り、板の形をしたチョコです。今回はビターを買ってみました」

「そうか、美味しく食べなさい」

「勿論です」


 鞠音は居間に入って右の襖を開けると、台所が見えた。台所前のテーブルにエコバッグを置いて荷物の整理を始める。冷蔵庫の中は冷凍白米と少しの調味料のみ。冷凍庫は冷凍食品でいっぱいだった。


 食料をしまい終えると自室に向かって制服を着替える。古めかしい黒のセーラー服を壁に掛けると、着物に袖を通す。


 藍色の単衣に黄色の袋帯。初めは戸惑った着付けも今やすっかり慣れた。


 居間に戻ると御伽が「久留米くるめかすりか。良い色だな」と歯を鳴らした。虚ろな眼窩は物理法則を超え、この世の色彩を認識している。


 鞠音は「ありがとうございます」と淡く微笑み、座布団に座ると机の上に教材を並べる。


「今日は生物の課題が出ているんですよ」

「そうか、儂は役に立てないな」

「お気になさらず。生物学がまだ御伽様に追いついていないだけです」


 鞠音は淡く微笑むと、シャーペンを握って宿題をやり始めた。暫く、シャーペンをノートに走らせる音と、教科書を捲る音が居間に響く。


 ぴんぽーん、とインターホンが鳴った。


「宅配でしょうか」

「夜行だな」


 御伽は苦々しげに断じた。


 鞠音はシャーペンを置いて立ち上がると、御伽の首を大事そうに抱き、玄関まで行って引き戸を開けた。


「よ、寿司買ってきたぞ」


 玄関前できっちりとスーツを絞めた成人男性がエコバッグを掲げていた。硬そうな黒髪にがっちりとした体格。赤のネクタイは髑髏柄、かけたサングラスは黄色と、中々洒落たセンスをしている。


「いらっしゃいませ、夜行様」


 鞠音はきちんと頭を下げた。一度三つ指をついたらそこまでしなくていいと言われて以来、この形で出迎えている。


「そこはお帰りなさいませって言ってくれないかい?」

「気色の悪いことを言うな」


 御伽が本当に嫌そうな声を出す。


「いつもの冗談ですよ、御伽様。どうぞお入りください」

「鞠音は相変わらず釣れないなぁ」


 へらへらと笑いながら夜行と呼ばれた男は靴を脱いで家に上がった。


「宿題やってたのか?偉いな」


 居間の机に置かれた教材を見て夜行が言った。


「はい、課題はきちんと提出していますから心配なく」

「おお、そりゃよかった。……あれ、買い物行ってきたのか?」


 勝手に冷蔵庫を開けた夜行は買ってきたパック寿司をしまっていく。いつもの事なので鞠音は特に目くじらを立てたりしないが、御伽はじとっとし視線を夜行に向けていた。


「はい、食料を補給しました」

「なんか言い方無骨だな……。まぁ、ちゃんと食えよ」


 ぱたん、と冷蔵庫を締めると、夜行はこちらを見た。サングラスの奥の眸は真剣である。


「それで、何用だ?」


 まだ鞠音に抱えられたままの御伽が重々しい声を投げかけた。


「何って、雑魚退治ですよ、御伽サン」


 夜行は軽薄な笑みを浮かべたまま、サングラスをとった。右目を切り裂いた様な傷と、珍しい赤みを帯びた茶の眸が顕になる。


「また、発生したのですね。私は全く気がつきませんでした」

「気にすんな。鞠音は普通の人間なんだから」


 サングラスをジャケットのポケットに仕舞うと、夜行はにぱっとした笑みを浮かべる。そして玄関の方に向かい、こちらに呼びかけた。


「鞠音と御伽サンも来る?庇える程度には雑魚ですよ?」

「どうしますか、御伽様」

「鞠音の好きにするといい」


 御伽は夜行に対するのとは違う柔らかい声を鞠音に向けた。かたかたとした振動が優しく鞠音に伝わる。


「ついて行って、いいですか」

「勿論。かっこいいとこ見てってね?」

「見たいのは貴様ではなく家の現状だ」


 氷点下の声で御伽は返した。


 ともかく二人としゃれこうべは共に外に出た。


 普段御伽と鞠音が暮らしているのは、胡桃坂の屋敷の離れの部分である。鞠音達は前庭を横切り、離れの玄関の裏側に回る。離れよりも一回り大きい立派な日本家屋が怪しげな空気を放っている。


「さ、そこで見学しててね」


 夜行は鞠音と御伽を置いて母屋の縁側に立った。縁側の障子は全て閉められ、中の様子を伺うことはできない。夜行は土足のまま縁側に登ると、躊躇うことなく障子を開けた。


 瞬間、黒いものが視界いっぱいに広がり、金属を擦り合わせたような凶音が耳朶を打つ。耳を塞ぐ代わりに鞠音は御伽を抱く腕に力を込めた。


 黒いものは一気に広がり、鞠音と御伽の元へ向かおうとする。ぎゃき、という醜い金属音と共に、黒い霧が鞠音の目の前で霧散する。移動してきた夜行の回し蹴りが黒いものに当たったのだ。


「ありがとうございます」

「おう、もう少し下がっとけ。すぐ片付けるからな」


 鞠音がべきり、と金属が剥がれるような音がして、夜行の額から一本の角が生えた。削り出したばかりの鉱石のような赤い角は日に照らされて多角的に輝く。切れ長の眸が妖しく赤みを増す。


 その後は夜行の独壇場だった。夜行は舞のように軽やかに、重みのある攻撃を黒いものに浴びせ続けた。五分もしないうちに黒いものは初めからいなかったかのように全て消えた。


「よし、雑鬼退治終わりっと」


 スーツをはたきながらサングラスを掛け直した夜行には、もう異形の角は存在しなかった。


 今の黒いものは雑鬼と呼ばれるあやかしの一種である。この世界には、公には存在されないとされる妖怪や魔物、あやかしなどと呼ばれる人外のものがいる。


 普通の人には見えないあやかしは友好的なものもいるが、人に害を与えようと企むものもいる。前者が人に紛れて暮らしている鬼の夜行や人の鞠音と暮らしている鬼の御伽、後者が力を蓄え人を襲おうとする雑鬼である。


 今は誰も住んでいない胡桃坂の母屋は、雑鬼が溜まりやすい。それを定期的に払ってくれるのが、人に友好的なあやかしの夜行という訳だ。


「お疲れ様です、夜行様」


 鞠音は夜行に向かって頭を下げた。


「気にすんな。胡桃坂の雑鬼を退治するのは、俺の義務みたいなもんだから」

「そうだぞ鞠音、夜行に頭を下げる必要はない」

「おい御伽、お前鞠音の腕の中に収まってただけなのに態度がでかいぞ」

「好きでこの姿になったんじゃない」

「御伽様!夜行様は私達の敷地内の雑鬼を退治してくださったのですよ、謝意は示さないと。それとも、夜行様の手助けを跳ね除けて、私が雑鬼退治をしましょうか?」


 鞠音の垂れ目が吸うっと細まる。鞠音はあやかしが見えるだけの無力な人間だ。だが、人の中にも不思議な術を用いてあやかしを退治するものもいると聞く。もしかしたら鞠音が術を覚えれば夜行に頼らずとも雑鬼を払えるかもしれない。


 だが、御伽は過保護で、鞠音を危険に晒したくない。今日だって鞠音が望まなければ夜行について行こうとはしなかっただろう。


「……悪かった。これからも頼む、夜行」


 しゃれこうべは諦めて夜行に目らしき部分を向けた。夜行は口角を上げてにぱっと笑う。


「分かってますよ、御伽サマ」

「ーあの、家の中は変わりないですか?」


 鞠音は夜行の後ろから母屋を覗きこんだ。障子の隙間から垣間見える室内は昼間でも暗く、澱んでいる。


「あー、そうだな」


 夜行は鞠音達に背を向けると、再び土足で縁側に上がる。そしてそのまま障子を占めた。


「変わりねぇよ。さ、もう終わったんだしとっとと中入ろうぜ。まだ暑いしよー」


 手を扇ぎながら夜行はすたすたと歩いて行ってしまう。


「……そうですか」


 鞠音は夜行の背を追って庭を歩き始めるが、その前に一度母屋の方を見た。


 かつて名家と謳われた胡桃坂家は鬼を囲う一族だった。鬼はあやかしの中でも力が強い。物理的な身体能力の他に、霊術の類も扱えるらしい。そんな鬼を無理矢理閉じ込め、利用し尽くすことで胡桃坂家は利益を得ていた。そんな醜い一族の血が鞠音にも流れている。


 救いがあるとすれば、胡桃坂の血を引くものはもう鞠音しかいないことだろうか。この母屋の中で、名家の胡桃坂は潰えた。


「鞠音、行こう」


 胡桃坂が囲っていた鬼である御伽は、搾取の末に胴体も肉も失ってしゃれこうべになってしまった。それなのに、御伽は鞠音に優しい。


「分かってます」


 鞠音は逃げるように歩く速度を上げた。その時だった。


「ごめんください!」


 離れの玄関の方から声が聞こえたのは。

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