第6話 クロスライト劇場の片隅で

劇場のロビーはざわめきで満ちていた。

観客たちがホールへと流れていくその音は、まるで海の波のようだった。


リカはため息をつき、タバコを取り出す。

「休憩、ね。文化的ショックの前に」

「私はコーヒー。あんたはまた肺を殺すつもりでしょ」

サオリが苦笑しながら言う。


ふたりは横の出口から外に出た。

外は濡れた石と木の匂いがした。

リカは手のひらで火を隠してタバコに火をつけた。

一瞬、炎が彼女の顔を照らす——疲れているのに、美しい顔だった。


「気づいた?」と彼女は煙を吐きながら言った。

「どこもかしこもCRYSTAのスポンサーよ。この劇場まで」

「そのうち空気までブランド化されるかもね」

サオリが笑う。


リカは火を見つめながら小さく笑った。

「皮肉ね。才能を探してるくせに、自分たちは何も感じなくなってる」


タバコを壁に押し付けて消すと、ふたりは中に戻った。


ロビーの光と香り、ざわめき——すべてが少し濃く、温かく感じられた。

「コート預けて、行きましょ」

「うん。列ができる前に」


ふたりがクロークに向かうと、彼が顔を上げた。


「47番と48番ですね。」

柔らかな動きでコートを受け取り、タグを渡す。

ほんの一瞬、彼の視線が彼女たちの手に止まった。

コーヒーの香りと、焼けたネオンの残り香——

それは、夜中まで明かりが消えないオフィスの匂いだった。


リカがじっと見つめる。

「どこかで会ったかしら?」

「もしかしたら。世界は狭いですから」

「特に、CRYSTAがスポンサーしてる世界はね」

彼は口元だけで笑った。

「じゃあ僕は、あなたたちの“舞台装置”で働いてるわけだ。」


「丁寧ね」とサオリが苦笑した。

「癖です」

「長くここに?」

「長い一日、というだけですよ」


リカが小さく首を傾けた。

「まるで脚本家みたいな話し方ね」

「もしかしたら。観客は気づかないけど、舞台はいつもそこにあります」


目が合う。

沈黙が落ちた。

サオリが咳払いする。

「ふふ、クロークって心理学者の隠れ家なの?」

「人がコートを脱ぐ時、いちばん素直な顔になるからね」とリカ。


ベルが鳴り、観客がホールへと流れた。

「行こう、リカ」

「……うん」


だが、サオリは少しだけ立ち止まった。

「エイリッド、だっけ?」

「そうです」

「CRYSTAの面接、来てたよね?」

「列にはいました。でも“面接”は受けてません」

「今、補欠の募集があるの。入れてあげようか?」

「……どうして?」

「チャンスだから」

「チャンスって、“理由”の代わりになるんですか?」


その言葉に、彼女は口をつぐんだ。

「じゃあせめて番号を——」

「番号は、渡す側です」


リカが小さく笑った。

「頑固ね」

「行ったことのある場所に、もう一度呼ばれるのは苦手なんです」

「もし名前を消されなかったら?」

「それでも行かなかったでしょうね」


短い沈黙。

リカが言う。

「幸運を、他人の物語の監督さん」


彼女たちが去り、ドアが閉まる。

空気が少し冷たくなった。


——


彼は残りのコートを掛け、メモを見た。

「R:煙を残すタイプ。話すより考える時間が長い。」

「S:緊張すると笑う。目が“次のチャンス”を信じている。」


小さく笑って呟く。

「舞台だな、やっぱり。幕がなくても。」


夜が更け、観客たちが再びロビーにあふれる。

拍手と香水の香り、湿った空気。

最後の客が去ると、劇場は静かになった。


エイリッドは外に出る。

雨上がりの空気がまだ冷たい。

ローズ色の煙がふわりと立ち上る。

その時——足音。


「まだいたの?」

サオリが紙コップを持って立っていた。

「リカはタクシー捕まえに行った」

「君は?」

「たぶん、ロボットかどうか確かめに」


彼が笑う。

「ロボットは煙草を吸わない」

「でも迷いもない」

「じゃあ、生きてる証拠だ」


彼女は隣に立った。

「ねえ、さっきの話……もしまた受けてくれたら、リストに——」

「もう面接中ですよ」

「どこで?」

「ここで。コートを預ける人、ひとりひとりが面接官です」


沈黙。

それから彼女は微笑んだ。

「変わってるね」

「観察者なんです」

「もし“観察”と“変化”の両方ができる場所があったら?」

「その瞬間、視界は濁る」


彼の声は静かで、どこか痛みが混じっていた。

「……哲学者みたい」

「長くクロークにいると、少しは考える時間ができるんですよ」


ふたりの距離が縮まった。

煙が混ざり合い、雨の匂いと溶ける。


「じゃあ、もし気が変わったら——」

「やめてください」

「え?」

「“期待”を残すと、人は待つ。それが一番苦しい」


サオリは小さく頷いた。

「……名前だけでも」

「エイリッド」

「サオリ」

「知ってます」


彼女は笑い、

「やっぱり、全部見えてるのね」


彼は火を落とし、雨がそれを消した。

サオリはゆっくりと歩き出す。

「じゃあ……幸運を」

「幸運は、探さない人に微笑む」


扉が閉まり、劇場の灯りが消える。

彼は立ち尽くしたまま、

最後の煙を夜に溶かした。


——幕はまだ下りない。

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