第4話 「煙を吸うような応募」

ケトルはまだシューシューと音を立てていた。


まるで時間が、息を吸ったまま止まってしまったかのように。




画面は暗くなったが、


部屋にはまだバラとセージの香りが漂っていた。


夕暮れの光と混ざり合い、空気の中に溶けていく。




エイリドは動かなかった。


手はまだマウスの上にあり、温かかった。


まるで決断そのものの鼓動を掴んでいるようだった。




モニターには文字が瞬いていた。


「応募が完了しました。ありがとうございます。」




彼は小さく笑った。


疲れたように、けれど悔いはなかった。


「……無駄かもしれない。でも、初めて無駄じゃないかもしれない。」




キッチンから最後のケトルのため息。


冷めたお湯をカップに注ぐと、まだゆるやかに湯気が立ちのぼった。


そのしぶとい温もりに、彼は少し救われた気がした。




新しいメールが届く。


件名は「CRYSTA採用 ― オンラインテスト」。




クリック。


冷たい光が顔を照らす。


窓の外、夕方の街が金色の息をしていた。




募集職種:ストラテジーアナリスト


必要条件:観察力、人間を読む力、ストレス耐性




「……人を読む、か。俺の生き方そのものだな。」




バラの巻き煙草を吸い、香りを肺に流し込む。


マウスを動かし、「テストを開始」をクリック。




画面が白く光った。


アンケートというより、鏡のような質問表が現れる。


――「呼吸するように書け」と言われているようだった。




質問1




指輪やピアスをつける人に、あなたは何を思いますか?




窓に映る自分の目は、疲れているのに鋭かった。


「……どの手につけているかを見る。


擦り切れていれば、働く手。


光っていれば、見られたい手。


左のピアスは癖、右は選択。


何も言わない。ただ、覚えておく。」




質問2




他人より多くのことに気づくと感じた瞬間は?




「クロークで働いていた時だ。


人の時間は、息で分かる。


香りはその人の足跡。


言葉より早く、気配で疲れを読む。


俺は“見る”んじゃなく、“観る”んだと気づいた。」




質問3




議論する人をどう思いますか?




「正しさのための議論は、弾のないリロードだ。


本質のための議論なら、まだ価値がある。


俺は争わない。


相手が自分に嘘をついたことに、


自分で気づくまで待つだけ。」




質問4




仲間がミスをしてチームが危機になったら?




「ミスは前から見える。


見えなかったなら、俺の視点が甘かった。


怒鳴っても直らない。


リプレイを見せて、


『どこで違うボタンを押す?』って聞く。」




質問5




チームに遅刻常習の女性がいる。だがプレイは完璧。




「遅刻は怠けじゃない。


その人のリズムだ。


理由が中にあるなら、触れない。


大事なのは、勝負の時に来ること。」




送信。


画面が暗くなり、外の街にネオンが灯る。


「……これはテストじゃない。


まだ、生きてるか確かめるだけだ。」




下に小さく表示された。


「応募ありがとうございます。近日中にご連絡いたします。」




「オート返信、か。」


彼は笑って、煙草の火を消した。




22:17 CRYSTA本社




白い光。冷めたコーヒー。


三つのモニターと、疲れた三人。




人事のリカ・サヨンジ、


アシスタントのサオリ・クニモト、


そしてマネージャーのイタツ・ミヤ。




リカは画面を眺めて言った。


「百四十件。毎月同じ。


“夢がある”“情熱があります”“無償でも働きたい”……


一週間後には“やっぱり違いました”。」




サオリが欠伸する。


「ロボットを雇えばいいのに。」




イタツが笑う。


「ロボットなら一週間で壊れるさ。俺たちもギリギリだ。」




リカは次々と応募をスクロールする。


「“子供の頃からFara-Dayが好きです”


“チームは家族です”


“徹夜も平気です”


……コーヒーが冷めたら帰るくせに。」




サオリが画面を指す。


「これ。“理由はわからないけど挑戦したい”。


正直だけど、バカ正直。」




リカが小さく笑う。


「正直さは贅沢。今ほしいのは、逃げない人。」




イタツが言った。


「じゃあ、夢もなければ機械でもない奴は?」


「……燃え尽きた人ね。そんなのオフィスに山ほどいる。」




スクロールの途中、灰色の名前が目に入る。


Eirid K. ― 未読。




「これは?」


「あとで。無口なタイプはみんな同じ。」


「でも、そういう人ほど残るんじゃ?」


「残るなら……招待なんていらないわ。


自分から戻ってくる。」




ノートPCを閉じる。


光が消え、リカの顔に街のネオンが揺れる。




イタツが微笑む。


「リカ、お前は夢見る人? それとも働く人?」


「その間の、疲れたフィルターよ。」




三人の笑い声が短く響き、


写真のシャッター音が部屋を切った。


――「ドリームチーム、ね。」




電気が消える。




外は雨。


窓辺の明かりの一つで、エイリドは煙を吐いた。


画面には同じメッセージ。


「応募ありがとうございます。」




「……誰も答える義務なんてないさ。


でも、送ったのは俺だ。」




煙が天井に伸びる。




携帯が震える。




WorkLink.Pro ― 新しいシフトが承認されました。


会場:Event Hall「CrossLight」


公演名:舞台『二度と繰り返せないシーン』


時間:18:00〜23:30




「……劇場、か。CRYSTAの協賛イベントだな。」


エイリドは笑って、


「夢と現実、同じ舞台ってわけか。」




制服を整え、蝶ネクタイの端を指で直す。


かすかに塗料の匂い――ステージの匂い。




机にはもう一つ通知が点滅していた。


「CRYSTAオンライン面接 14:00」




「……どっちが勝つかな。」




バッグを肩にかけ、鍵を手に取る。


「留守番、頼んだぞ。」


扉を閉めた。




アパートの外




湿ったコンクリートの匂い。


階段を降りる途中、配達員がすれ違う。


「仕事?」


「いつも通り。」




郵便受けの前で、小さな女の子が見上げていた。


「おじさん、目が疲れてるね。」


「……じゃあ、今日はきっといい日だ。」




外に出る。


空気は冷たく澄み、街は目を覚ます。


車の音、信号の光、焼きそばの匂い。


エイリドはコートの襟を立て、地下鉄へ歩く。




車内で少年たちがFara-Dayの話をしていた。


「アナリスト」「ポジション」「インフォ」――


昨日メールで見た単語たち。




スマホを見る。


『CRYSTA面接 14:00 左ウィング入口』




「……やっぱり、この街はCRYSTAでできてる。」




電車が止まる。


「次は渋谷〜。」




外に出ると、空に巨大なホログラム。


CRYSTA WORLD INVITATIONAL 2025


優勝者RINXがトロフィーを掲げる映像。


小さく「WorkLink.Pro提携」の文字。




「結局、全部つながってるな。」




CRYSTA本社




ガラス張りの建物。


扉の下に刻まれた小さな言葉。


“We build those who build.”




中は静かで、白。


受付の女性が笑顔を作る。


「面接の方ですか?」


「はい。」


「三階の“Sakura Room”へどうぞ。」




エレベーターには三人。


アナリスト、ゲーマーの女、緊張している男。




ドアが開くと、熱気とざわめき。


百人近い候補者。


パソコン、紙、コーヒー。


空気に混ざるストレスの匂い。




壁のスクリーンにはこう書かれていた。


CRYSTA Strategy Dept. – Recruitment #214




「お待ちください。名前を呼ばれるまで。」




エイリドは壁際に座った。


――声を聞く。息を読む。


手の震え、視線の泳ぎ、爪の形。


それだけで誰が自信を装っているか分かる。




14:25。15:10。15:45。


時がゆっくりと溶ける。




16:02。


彼は立ち上がる。


「……縁がなかったな。現実が呼んでる。」




誰も彼の退席に気づかなかった。




廊下の端。


リカとサオリがコーヒーを手にしていた。


「また“天才アナリスト”か。」


「ストレス耐性の質問で泣きそうだったね。」


「みんな“情熱”ばかり語るけど、


私たちが欲しいのは逃げない人。」




サオリが目を向ける。


「リカ、ほら、また一人帰る。」


「遅刻?」


「いや、待ちきれなかったみたい。」




リカはその背中を見つめた。


灰色のジャケット、静かな歩き方。


「……あの顔、覚えといて。」


「なんで?」


「こういう人は戻ってくる。


チャンスのためじゃなく、自分を証明するために。」




階段を下りながら、エイリドは小さく笑った。


ポケットには劇場のシフト票。


「面接より、俺の舞台だな。」




外の空気を吸い込み、


雨とコーヒーと、薔薇の煙の匂いが混ざった。




次回予告(ナロー風)


夢と現実。


どちらも同じ舞台に立っているだけ。


エイリドの選んだ一歩は、


静かに煙のように揺れ始める――。

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