第46話 封印の解除

 季節外れの桜の花びらが、結界内で音も無く舞っている。


「待ってくれ、嫌だ。こっち来んな」

 正季が後退る。幸人の手には、針のついた注射器があった。蓋はまだ付いているが、いつでも刺せる状態のものだ。


「俺だってこの方法に抵抗はあるけど、でも今のところ一番手っ取り早いのはこれしかないんだよ!」

 幸人がじりじりと近付く。追い詰めている犯人と助けを請う被害者の図ようで、幸人は複雑な気分になった。


「互いに皮膚を傷付けて、それを合わせて俺の封印解除の力を注ぐ。それしかねえのか⁉」

 正季は引きつった表情を浮かべていた。

 幸人も口をへの字に歪めて、俺が聞きたいぞ、と返した。


 呪いの解除方法として一ヶ月から数ヶ月かけて解く方法もあるが、今はそんな悠長な時間はない。古いやり方の一つに、封印を血で穢す方法もある。今回実践するのはそれの応用である。おとぎ話でキスをすれば呪いは解ける、とよく言われているが、それには理由があり、粘膜の接触は力の吸収率が高くて、効果的なのだ。


「嫌だ! 俺注射したらぶっ倒れる体質なの!」

「傷付けるっつったって、ちょっとだぞちょっと! しかも俺、正季が嫌がるのを見越してこんな良いモノ持って来たんだからな。じゃん、血糖測定器の針!」


 ペン状の血糖測定用の注射器は、針を仕込んで指先に置いてボタンを押すと、小さな針が突出し極少量の血液が出る仕掛けになっている。

 このあたりの道具を準備するために、屋敷に訪れる前に幸人は一度クリニックへと戻っていたのだ。


「注射でぶっ倒れるのは、迷走神経反射っていって、血圧が低下するからだ。この針はそれよりも細くて小さいし、部位も指先だからすぐ終わる!」

「それでも、針なんだろ……!」

 正季が声をあげて抵抗をしていると。


「力を貸しましょうか?」


 澄んだ少女の声に、幸人と正季は驚いた。結界内に、いつのまにか瑠璃乃の姿があったのだ。彼女は元々本家に身を置いているから、敷地内にいることは不思議ではないが、そもそも誰にも勘付かれないようにする為に正季は結界を張っていたのだ。


「瑠璃乃さん⁉」

「何で、結界張ってたのに」


「この木が私を呼んだから」

 瑠璃乃は枝垂れ桜の木を見上げた。木には綾視家に関わった先祖代々の魂や意識の一部が宿ると言われている。意識の表層と無意識の階層を繋ぐ存在だと幸人は考えていた。


「でもいいんですか。桜護は中立でいなければ」

「ええ。今は封印指定を受けた者と当主が、自らの意志で封印解除を選んでいるから。それに私が関わるのは封印を解除することじゃないわ」

「というと?」

 正季は尋ねた。


「片葉祈さんを助けに行く間ぐらいなら、幸人くんの力が暴走したとしても抑えてあげるわ。正季くんだって、少しでも安心材料がある方がいいでしょう?」

 瑠璃乃は枝垂れ桜の枝の一房に優しく触れた。


「封印を解かなくてもいい方法があるよ、とかじゃなかったか……」

 正季はがっくりと肩の力を落とした。

「ごめんね、それは正季くんにしか出来ないことだから」

 瑠璃乃は申し訳なさそうに謝った。


「あーもうわかったよ!」

 正季は顔を歪めると、指を差し出した。

「早く終わらせろ……!」


 ちなみに大人でも注射が心底苦手な人はかなり多い。

 だからここまで感情をさらけ出すかは置いておいて、正季の嫌がりようも実はそう珍しいことでもない。それを何とかして安心して、処置を受けてもらうのが医療スタッフの力量だ。たとえ今後どれだけ医学が発達しても、安心感を与えるという意味では採血の機械化は難しいだろう。


「こうして針を刺す……と」

 幸人は針をセットして、ペン先を正季の指先に置いた。先に正季の指先を消毒することも忘れない。そしてペン型注射器のボタンを押した。

 カチン、という音がして「いたっ」と声が響いた。


「痛かった?」

「痛くねえ……痛いって言った方が、痛くないんだよ……」

「そうか……じゃあ俺もと」


 幸人は針を交換して、躊躇いなく自分で針のボタンを押した。

 ぷつっと刺した指先から、一瞬の痛みと共に赤い血が浮き出る。

 正季の刺した箇所に、自分の指先を触れさせた。

「っ」


 触れた指先の出血部位から温かくなるような感触が走った。

 枝垂れ桜の木の、それまで蕾だった部分が息吹くように一斉に開花し、文字通り満開の桜になった。


 正季は当主の力の一端として、桜の神木の力を利用して呪を唱えなくとも力を振るうことが出来るのだ。幸人が普段使用しているような携帯画面や詠唱、符が不要となる。

 全身の血液が流れるように、幸人は自分の力がみなぎっていくのがわかった。


「おー。これだけの力、よく封じたなあ」

「何と言ったって俺は、綾視家当主だからな」


 正季が、自分が当主だと言い張るたびに、幸人は複雑な気持ちになる。自分が医者の道を選ばなければ、彼にはもっと自由な未来があったかもしれないのだ。

 本当の親や兄とは離されて、将来すらも決められた正季。嫌われて当然だと思っていた。だから、幸人も彼とは本当の意味でわだかまりを無くすことは出来ないと思っている。


 幸人は己の両掌を見た。

「術はもう普通にして大丈夫だろうな」

 瑠璃乃は微笑みながら頷いた。


「ええ。黄泉霧を浄化した後も、しばらくは大丈夫だったのでしょう? 基本的なコントロールはきっと出来ているのよ。想定外の事態に術を強く使用してしまっただけで」


「さっさと行って、終わらすぞ」

 正季は歩みを進める。その歩き方は躊躇いのない、与えられた責務を果たそうとする時の歩調だ。

 自分も続こうとして、そういえば、と幸人は立ち止まった。御神木である枝垂れ桜を見上げる。


「俺が黄泉霧に呑み込まれて助けられた時に、桜の木の下に、片葉だけじゃなくて別の存在が重なった気がしたんだ」

 瑠璃乃は神妙な表情で考える。


「そうね、この木には歴代の当主とか桜護とか、多くの意識が宿るから。きっとそれだったんじゃないかしら?」

 幸人を黄泉霧から救い出したのは、たくさんの人の想いも含まれているのだと瑠璃乃は示唆した。

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