第36話 綾視家本邸
市内の東に位置する山の麓の、閑静な住宅地の一角に綾視家本家は存在していた。
周辺もそこそこの豪邸といって差し支えない住宅が並ぶ中、綾視家はひと際大きな敷地を有していた。和風建築の平屋に加え、離れや倉もあるそうだ。
そして庭の中心には名所ともひけをとらない巨大な枝垂れ桜が植わっていた。今は季節柄、青々とした葉が茂っている。
久々に屋敷に訪れた幸人は、車から降りると夏の日差しを避けるように手をかざした。
「うわあ~、久しぶりだ」
「ここが綾視さんのご実家……」
祈は思わず呟いた。
山に近いからか、クリニック周辺よりもセミの鳴き声が響いているように感じた。
本日の幸人は色無地で袷の上品な和服姿だ。その言動はともかく、出で立ちはどこからどう見ても良家の子息だ。
心配で付いて来てしまったが、やっぱり場違いだったかもしれない、と祈は思った。
正季は運転していた車を駐車スペースに止めると、軽く促した。
「こっちだ」
「お、お邪魔します……」
祈はそう言って、二人の後に続いて屋敷に入った。
招集は十時。その時間には大広間に人が集まるそうだ。
綾視家は閑静な立地のわりに、市街地からもバスや車で程近いため、比較的人が集まりやすい土地であった。しかも敷地は広く、部屋の数も余っており、出入りする者も多いらしい。
家賃がかからないため、親族でもないのに半分住み着いている者もいるそうだ。
「まーその全ての負担は、当主である正季にかかっているんだけどな」
幸人はからりと笑った。その笑顔は今から本家で話し合いするとは思えないほど堂々としている。
やはり自分は必要なくて、余計な付き添い人になってしまったのだろうかと祈はこっそり思った。
けれど今回の同行は、意外なことに正季も反対しなかったのだ。
大広間に行く前に、幸人と祈は別室にて待機させられた。
「じゃ、俺着替えて来るから」
「あれに着替えんのか? 別にそのままでもいいのに」
すると正季は不服そうに振り返った。
「あの服の方が術の力がしっかり出せるし、当主の威厳が出るんだよ! お前にはわからねえかもしれねーけどな!」
「いや、気持ちはわかるぞ」
「何か特別な服ですか?」
正季が行ってしまってから、祈は尋ねた。
「そうだな……。俺たちの白衣と同じように、陰陽師にも正式な衣装があるんだ」
祈はフィクションで何となく見たことのある陰陽師の服を思い出した。
「あ、もしかして平安時代の男の人が着ているあれですか?」
「多分合っていると思う。狩衣とか、浄衣って呼ばれている神社の神主さんみたいなのだよ。もっと生地が軽くて、烏帽子はつけないけどな」
「そうなんですね……!」
「陰陽師の家系である正孝の仕事は神社や仏閣の祈祷の下請けも多いし。これは秘密なんだけど、財界や政界、下手すれば皇室が関わっているんじゃないかっていう案件もあるんだぞ」
「ひえ……」
綾視家が予想よりもすごい仕事をしていることに、祈は慄いた。
「あの……綾視さん。やっぱり私、ここまで来て言うのもなんですけど、付いて来たのは余計なお世話だったかもしれません……。部外者だし……」
すると幸人は一度瞬くと、いつものような安心感のある笑みを浮かべた。
「そんなことないぞ。今、付いて来てくれて良かった~って心から思っている」
「ほ、本当ですか⁉」
祈は驚いて顔を上げた。
「本当、本当。一人だったらこの待ち時間絶対に嫌だっただろうし、多分逃げたくなっていたと思う」
幸人は温かな眼差しを祈に注いだ。
「祈がいてくれたから、これから起こる出来事から目を背けずに、向き合えているんだよ」
「それは良かったです……」
ふと祈は今、幸人が片葉ではなく『祈』と自分の名前を呼んでくれたことに気が付いた。
聞き間違いだっただろうか、と祈が尋ねようとしたところ。
「幸人くん」
ひょこっと襖から十二歳頃の少女が顔を出した。
「あ、瑠璃乃さん!」
「え、あれ⁉ どうしてここに?」
祈は驚いた。クリニック常連の可愛らしい少女、瑠璃乃がここで現れるとは思わなかったのだ。
「えっと、瑠璃乃さんはうちの関係者なんだ。さっきここに来るまでに大きな枝垂れ桜があっただろう? 彼女はその木の守護者。
瑠璃乃はいつもの子どもらしい洋服ではなく、落ち着いた色合いの着物に、糸桜の紋様が入った羽織をまとっていた。
そして祈は、ここで初めて彼女の詳しい事情を知った。
元々瑠璃乃は幸人より一つか二つ年上で、生まれつき霊力が高かった。そのため、桜護の継承者として幼い頃に任命されたという。本来ならば成人してから継ぐはずだったのだが、先代が予定よりも早くに亡くなったため、継承者として育てられていた瑠璃乃が今の見た目年齢の時に跡を継いだ。
枝垂れ桜は綾視家の力の源でもあり、真実の記憶を司る。時間と想いを重ねると、その存在が御神体となるのだ。そして桜護は重ねる体の時を止めて、その存在を守ると言われている。
「そうだったんですか……」
祈は予想以上の重要な存在に、呆気にとられたように呟いた。
「急に術が暴走したと聞いて、本当に心配していたの」
「大丈夫、ありがとうございます」
「私が力になれることは少ないかもしれないけれど……どうか穏便に済むように祈っているわ。祈さんも、来てくれてありがとう」
「いえ、その……」
「私はね、桜護という立場上、中立でいないといけないの。だからあの場で、確実に味方でいてくれる人が、彼にとってすごく大事なことなの」
瑠璃乃に言われて、片葉ははっとした。
傍にいるだけでいい。それは祈自身も、励まされたことだ。
「わかりました。私は絶対に、綾視さんの味方でいます」
祈は強く頷いた。
すると微かに廊下から足音がしたかと思うと、白い狩衣をまとった正季が現れた。
「時間だ。行くぞ」
祈は幸人と顔を見合わせ、共に立ち上がった。
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