第28話 明けない夜はない

「幸人、聴こえるか?」

 右手の人差し指と中指で印を組み、左手を綾見の体にかざしながら正季は問いかける。

 処置室に運ばれた幸人は苦悶の表情を浮かべたまま、時折引きつけを起こしたようにびくっと動く。


 祈は呼吸状態と血圧をモニターで随時測りながら、状態を確認していた。

 体内の呼吸状態をはかる酸素飽和度は正常範囲内だが、呼吸回数、血圧、脈ともに高値のままだ。心電図も観察できるが、体動のためノイズが多くなかなか正確に測定出来ずアラームが鳴り続ける。その音が祈の焦りを募らせた。


「何が起こっているんですか」

 今彼を苦しめているのは『黄泉霧』という黄泉のものだ。それが彼の精神と体内にどのように作用しているのか、陰陽術や怪異に関しては素人の祈には想像もつかなかった。


「……声が……」

 正季は険しい面持ちをして呟いた。処置台の上に置かれた、先程まで幸人の所持していた御符を睨みつける。祈の目にははっきりとは映っていないが、正季の目には御符に黒い霧が取り巻いているのが視えているそうだ。そしてその霧は御符を侵食していっているのか、和紙の所どころが破れ始めていた。


「くっそ、アラーム音がうるせえ。それ一旦切れるか?」

「は、はい!」

 祈は慌ててモニターのアラーム解除のボタンを押した。

 そして正季は再度術に集中する。


「幸人は心が黄泉の霧に囚われそうになっていて、必死に抗っている。黄泉霧ってのは……」

「恐怖心増幅装置だって聞きました」

 祈の言葉に、正季は白目を剥きかけた。


「……誰だよ、そんなダサい効果名を付けたの」

「綾視さんです……お兄さんの方の」

 祈は気まずそうに、ちらりと幸人の方を見る。

「だと思ったよ!」


 正季はそれまでの切羽詰まっていた様子から、少し力が抜けたように息をついた。

 そして改めて顔を引き締める。

「今、幸人は無意識下で恐怖心と戦っているんだよ。聴こえる……声が。でも俺じゃ……」

 正季は少しの間悩んだ素振りを見せていたが、やがて背に腹は代えられないといった様子で祈を見た。


「えっと……片葉さん」

「片葉って呼び捨てで大丈夫ですよ」

「じゃあ片葉。頼みがある。幸人の無意識の世界に行ってくれ」

「わ、私ですか⁉」

 祈は驚いたように目を見開いた。


「夢は無意識に繋がっている。そこからあいつに会えるはずだ。それなら俺は祓う方に集中出来る。それにきっと幸人は、俺に弱っているところを見せたくないはずだから……」

「で、出来るかな……」


 純粋な不安が口に出た。幸人を助けるためならどんな力にもなる覚悟はあるが、クリニックで働いていても術の行使は祈も門外漢なのである。


「出来る。つか、無理なら頼んでねえよ」

 正季の真剣な声音に、祈は深呼吸を一つした。

「……わかりました」

 そして祈は気合を入れるように自分の頬を叩いた。


「明けない夜はない!」

「何だそれ?」

 正季は驚いた目で祈を見る。


「おまじないです。どんな辛い夜勤も乗り越えられるよう、先輩に教わった言葉。行って綾視さんを連れ戻して来ます!」

 正季はふっと笑った。

「陰陽術よりも強そうなまじないだな。──頼んだぞ」


 そして正季と祈は休憩室として使用している和室に移動した。祈が正座をすると、その正面に立った正季が数珠を取り出す。すると幸人のように携帯や御符も使用していないのに、彼を取り囲む周囲から枝垂れ桜が一斉に咲きこぼれた。


「目を閉じろ。出来るだけ何も考えるな。幸人の気配を思い出せ」

 言われた通りに目を閉じると、正季が何か呪を唱える声が聞こえた。はっきり聞こえる前に、祈の意識は暗闇の中へと沈んでいった。


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