第19話 喫茶店のお昼ごはん
クリニックの入り口に通じる道は薬局と喫茶店の間にあるのだが、その喫茶店に三人は訪れた。
ピアノで演奏されたクラシック音楽がBGMとして流れている。
そこのテーブル席に座り、祈はナポリタンをチョイスした。
喫茶店の料理は美味しい。トマトの風味と甘酸っぱさ、柔らかい玉ねぎやソーセージの具材、そして胡椒のぴりっとした味が食欲をそそる。以前、祈も自分で作ってみたことがあるのだが、茹でたパスタと具材をケチャップで炒めただけでは全くの別物になるということが判明した。
見ると、正季はケチャップオムライスを、そして幸人はエビフライカレーを頼んでいた。ここのエビフライは身がぎっしりと入っていて旨いのだと幸人は力説した。
幸人は仕事着の白衣から一転、Tシャツ姿だった。しかも『おなかすいた』という文字が真ん中に書かれており、これ以上なく着る人のセンスが問われるTシャツだ。
綾視家では普段着が和服と決まっているらしく、幸人も正季も小さい時から学校から帰ると和服に着替えていたらしい。そして幸人はその反動で、家を出てからは気楽に着られるTシャツばかり着るようになってしまったのだとか。
「あー、旨かった。ちゃんとした料理久々に食った」
正季は満足そうにスプーンを置いた。
「普段何食べてるんですか?」
祈は少し心配になって尋ねた。幸人と比べると、正季は細身の体形だ。
「今度飯おごってくれたら教えてやるよ」
にこーっと笑顔を浮かべながら正季は言った。自身の顔の造形の良さを存分に生かしている。兄の幸人も顔自体は整っているが、豊かな表情筋が良くも悪くもそれをかき消してしまっているのだ。
「おごらなくって大丈夫だからな。正季には粗食ぐらいが丁度いいんだ」
幸人の言葉に正季はちっと舌打ちする。
「バカ兄貴こそ、年々体形がおっさんになってるぞ。ポテチとか食べてんだろ」
「言うな言うな、全てのおっさんに謝れ! おっさんでもきちんと栄養管理している人はいる!」
「自分の現実から目を逸らすな。どー見ても体脂肪率上がってるだろ、こっちは一番修行してた時の姿知ってんだからな!」
「うわああああ、言うなーっ」
容赦なく指摘された幸人は、頭を抱えてそのまま机に突っ伏してしまった。
クリニックに来たばかりの頃、布施川にポテチの食べ過ぎを忠告されていたことを祈は思い出した。
「あー……、泣いちゃいましたね。えっと……綾視さんは今のままでも、綾視さんらしくて安心するので大丈夫ですよ」
祈はとんとんと背中を叩く。こういう時、つい患者にするように手が動いてしまうのだ。
「それフォローになってないんじゃないか」
正季は少し呆れた様子を滲ませたが、幸人は眉間にしわを寄せた状態でのろのろと浮上してきた。
「泣いてないぞ、俺は……ただショックを受けただけで」
「お、生き返ったな」
幸人の反応に、ふはは、と面白そうに正季は笑った。
こういった軽口が叩けるのも義理とはいえ兄弟の間柄だからだろう。
祈は何だか少し羨ましく思えた。
「で、正季。今回の依頼は何だ?」
落ち着いた幸人はぱちん、と指を鳴らした。
すると周囲の話し声が喫茶店のBGMが一気に遠くなったような感覚を祈は覚えた。後で知ったのだが、周囲の人間がこちらの話に意識がいかないように、逆に自分達も周囲の話に意識がいかないようにする術の一つらしい。心理学の一つ、カクテルパーティー効果を利用しているため、名前を呼ばれればすぐに解けるが、結界のように完全に遮断しているわけでもない便利な術なのだそうだ。
「ん」
正季は自分のタブレット端末を幸人に渡した。
そこには正季の仕事である陰陽師関連の依頼者と、その依頼内容が記載されていた。
「
依頼者の名前を見て、幸人は呟いた。
「あそこだよ、ほら、鶴守亭。何度かうちも世話になってる」
「ああ、あそこか」
幸人は得心を得たように頷いた。
鶴守亭は江戸の終わりから続く老舗の料亭だ。
一般庶民である祈には全く縁のない話なのだが、綾視家は昔から祝い事などでよく利用しているのだそうだ。
「そこの娘さんに怪異が起こっているということか?」
「簡単に言うと、そういうことだ。しかもその背景が厄介なんだ」
「あー、摂食障害で入院中なのか」
幸人はタブレットの画像を指でスライドさせながら呟いた。
摂食障害とは、食行動を中心に心身共に障害を引き起こす精神疾患だ。いわゆる拒食症や過食症がこの症状の一つにあたる。
「
「そして、体を拘束して栄養剤や点滴を強制的に入れようとしたら、その栄養剤や点滴バッグが破裂するという怪異が起こり出したってわけか」
摂食障害はダイエットなどから発症すると言われているが、実際は心理的なストレスや環境など様々な要因が絡まる。本人は痩せていても痩せていると認識できず、低体重は死に直結することも起こり得るのだ。
「何気ない言葉が相手をとても傷付けるし、命に関わることになるんだ」
「へえ、例えば?」
正季に聞かれて、幸人は吠えた。
「五分前! 五分前の俺とのやり取りを思い返せ!」
こういう無自覚な体格へのからかいが引き金になることも多いのだ。
眉根を寄せて先程のやり取りを思い出そうとしている正季に、祈は深刻な顔で尋ねた。
「それなら、栄養まったく取れていないっていう状況ですか? かなりまずいですよね」
「かろうじて水分は受け付けているみたいだ。その子の親から聞いた話だと、糖分とか少量の栄養が入った点滴を透明の入れ物に入れ替えて、少しずつ入れているんだとさ」
正季の答えに、幸人は難しい表情を浮かべる。
「水分だけだと人間数日しかもたないからな」
彼女から発する力なのか、それとも怪異がとり憑いているのか、いずれにしても彼女の心の恐怖──栄養をとることが怖いという気持ちを和らげなければいけない。
「俺じゃあ、この病院に入れない。残念ながら陰陽師は面会不可なんだとよ。意味わかんねえ。そこで、お前行って来てくれ」
「外部の人間なのに面会出来るんですか?」
祈の疑問に、幸人はこともなげに答えた。
「セカンドオピニオン、という形で入るんだ。当の本人がクリニックに来られないなら、往診というかたちで受けている。後はその患者の主治医の判断によるけど、基本的に患者がセカンドオピニオンを受けたいと言ったら、担当の医師は反対出来ないからな」
セカンドオピニオンとは、患者が担当医以外からも治療方針や診断について、多角的な意見を聞きたい時に他院に受診をしたり、別の医師から診断を受けたりすることだ。
幸人は、往診というかたちで訪問診療も受け付けているため、それを利用することにした。
「いつに行ける? 今日明日でもかまわない、と向こうは言ってくれているんだ」
「栄養が体に入ってないんだろう? じゃあ早い方がいいな」
幸人が言うと、祈は挙手した。
「綾視さん、私も行きたいです! 若い女の子と喋るのは任せて下さい!」
「一人は無理だからそのつもりだったけど……この間の瑠璃乃さんにもテンション上がってたし、女の子好きなの?」
「なんか語弊があるような言い方。失礼ですね。こう見えても優しい看護師さんなんです」
すると正季は目を丸くした。
「あ、看護師だったんだ。全然見えなかった」
その言葉に祈は軽くショックを受ける。確かに日除けのジャージを着ていたので、ナース服は見えにくかったかもしれないが。
「本当に失礼な人ですね!」
せめてもの抵抗として、祈はそう言い返した。
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