第3話 心療医師の陰陽師
祈が息を呑んで首をもう一度巡らせると、靄の中、男性は右手で人差し指と中指を立て、左手には携帯の液晶画面をかざしている姿が見えた。画面には、同じ桜の紋が描かれているのが映し出されている。
男性の髪が風もないのにふわりと揺れた。彼の着ている白衣もなびいている。そして彼を中心にどこからか生み出されたのか、薄桃色の花びらが巻き上がった。
光が男性の顔を美しく照らす。先程とは異なる妖艶な雰囲気に、祈は目が逸らせなかった。男性は携帯を白衣のポケットに滑り込ませると、柏手を叩いた。
「かけまくも祓いたまえ、清めたまえ」
それを合図に風が沸き起こり、周囲の靄が頭上の桜の紋の中へ吸い込まれていく。
うわ、と驚いて祈は一瞬腕の力が緩みそうになった。それに気付いた男性は祈に声をかける。
「頼む、今だけは絶対手を放さないでくれ!」
祈はぶんぶんと首を縦に振った。
屋上に立ち込めていた靄は今や、ほとんど桜の紋に閉じ込められている。
男性は再び印を組んだ手を、少年の頭上の紋に向ける。
「封」
何が起こったのか、がくりと少年の体の力が抜けた。
「わわ」
祈は体幹ごと抱えるようにして、しっかりと抱き止めた。
脱力した人間は重さが倍増する。二人揃って一緒に落ちないように、祈は歯を食いしばって腕に力を込めた。
男性は印を縦一文字に切ると、鋭く言い放った。
「
その声と共に強い光が放たれたかと思うと、桜の紋が消滅する。
ふっと周囲の空気が清冽なものに変わった気がした。
周囲の黒い靄は跡形もなく消えていた。
「今の……何?」
祈は思わず呟く。そんな祈の耳に、先程よりも幾ばくか緊迫感の抜けた、男性の声が聞こえた。
「今物理でも助けるからなーっ」
どちらかといえば今の方が両腕に力がかかって大変な祈は、助けを求めて声をあげた。
「お願いします!」
男性はどっしりした見た目に反して、軽やかに数歩で近寄った。そして少年の脇の下に腕を入れて姿勢を安定させると、勢いよく持ち上げてフェンスの内側へと上半身を入れた。祈は下半身を支え、そのまま倒れるように座り込んだ。
「あー良かった、間に合った……」
男性は安堵したように息をつくと、少年の頭を撫でた。
「よしよし、しんどかったな。耐えてくれて良かった」
「今のは何ですか?」
祈は尋ねた。すると、さらりと男性は答える。
「陰陽術だよ。ああ、勾玉を渡していたから視えてたんだな」
「おんみょうじゅつ……」
ぱっと脳内で漢字が出て来ず、祈は眉を寄せる。
「知ってる? 安倍晴明とかさ」
ああ、それならと祈は頷きかけて、瞬いた。
先程の辺りを立ち込めていた黒い靄、発せられた光と陰陽術、男の羽織る白衣。それぞれが結びつかなくて、祈は思いきって尋ねた。
「……あなたは一体何者なんですか?」
男性は立ち上がると、得意げに口角を上げて笑う。そして誇らしげに告げた。
「俺は医者であり陰陽師だ」
背後に浮かぶ月が妙に明るくて、男性の堂々とした姿を照らす。
その無邪気な瞳は、夜空の星を散りばめたような光を宿していた。
「医者で陰陽師……」
「ちなみに心療科の医師で
自己紹介されて、祈も慌てて自分の名を告げた。
「片葉祈です。看護師です」
すると幸人は目を輝かせた。
「やっぱりー。だってこの子への話し方、それっぽかったもんな」
「この春まで総合病院の精神科看護師でした。……今はお仕事探し中なので、元、ですけど」
看護師と名乗るには引け目があるので、祈の語尾がどんどん弱くなっていく。
だが、幸人は気にする素振りもなく堂々と返す。
「いてくれて良かった。本当に助かったよ。この子の命が。今の靄みたいなのは希死念慮……えーっと、死にたいっていう気持ちが具現化したものなんだよ」
幸人によると、少年は縊首用のロープを持っていたのを育ての親である叔母に発見され、すぐさま幸人の経営しているクリニックに連れて来られたのだという。
だが、彼はなかなか自殺の企図をした理由を話さず、叔母に一度席を外してもらい、ようやく学校での出来事を語り始めた。
しかしその最中に希死念慮が増大して少年は診察中にクリニックから逃亡。咄嗟に幸人は式という陰陽術の一種を放って、追いかけてきたということだった。
「希死念慮って、具現化するんですか」
「するよ。人の強い思いはね。稀に具現化して、強い力でその人自身を死へと追いやってしまうんだ。皆に視えるわけじゃないけどな」
「精神科で働いていたけれど、初めて聞きました」
「まあ普通は、視えないからな。でも患者さんによっては影が自分にまとわりつく、って表現する人もいるぞ」
「確かに、そう説明されることはありますね。そっか、あれか……」
それまで半信半疑だったが、祈はなんとなく納得したように頷いた。
すると幸人は良いことを思いついたと、手を打った。
「就活中なら俺の所のクリニックに来ないか? 今、人手不足なんだ」
「いいんですか⁉」
祈は言いかけて、ふと今日行った面接の出来事を思い出す。
「あ……でも私、本当に看護技術がポンコツで。採血とか鬼のように下手なんです……」
すると幸人は大きく手を横に振った。
「全然平気。採血は俺の方でも出来るから。それよりも、そこにいてくれるだけでいいんだよ。それで助かる人がいるからさ」
祈はふっと息を呑む。
ついさっきまで面接で自分の存在を否定されていた心が、じわじわと温まっていくのを感じた。
「メンタル介入に慣れてて、患者さんを本気で助けられる人、正直めちゃくちゃ来てほしい。こんなところで出逢えたのも、何かの縁じゃないかって思ったんだよ。まあ選ぶ権利はあるからな。一つの就職先として検討してくれたら、俺は嬉しいぞ」
幸人は少年を抱え起こすと、そのまま自分の背におぶった。体格も良いので、少年を背負うにも軽々といった表現が良く似合う。
歩き出そうとする幸人を、祈は呼び止めた。
「あ、あの」
胸の前に組んだ手をぎゅっと握って、勇気を出せと自分に言い聞かせる。
不可思議な出来事よりも、そこにいてくれるだけでいい、という彼の一言が祈を突き動かした。
「あなたの所で働きたいです! よろしくお願いします!」
すると幸人は嬉しそうに声を弾ませた。
「まじか! じゃあよろしく!」
月が空に大きくかかる夜、こうして片葉祈は陰陽師兼、心療科医師の綾視幸人と出会ったのであった。
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