長い1日、終わり始まり 5
二
お風呂から上がると、ちょうど料理の支度が終わったところだった。
お肉の焼けた匂い。
香ばしい匂いがただようダイニング。
テーブルにつく朋花と母さん。二人の前には料理が並べられている。
四つ席のテーブルだけど、並べられた食器は三人分。四人席の一つが不自然に空いているところを見るに、ここにいない父さんの分は用意されていないようす。父親を迫害する女家族の図。違います。
さきに席についていた朋花が、くるっとコチラに顔を向ける。
「ごはん冷めちゃうよー。早く食べよ?」
朋花の後に続いて、母さんも口をひらく。
「お父さん、今日は遅くなるらしいから。私たちだけで先に食べちゃいましょ」
「ん、わかった……」
二人の声に短く答える。
フラフラと覚束ない足取りで、二人が待つ食卓へと向かうオレ。イスを引いて腰をおろすと、どっと疲れが押し寄せてきた。
つ、疲れたぁ……。
お風呂に入っただけなのに。
シャワーで汚れを洗い落として、身体をキレイにしただけなのに。
ってか、お風呂って疲れを洗い流すところだと思いますのに。一日の疲れをシャワーの水とともに排水溝に洗い流してサヨナラばいばいオレはコイツと旅に出るところだと思いますのに。どうして追加で疲れなきゃなのです?
や、旅に出ません。
ふっつーに入浴するだけですから。
そんな初期のポケモンのオープニングみたいなことしませんから。
旅に出たあとに「ぴかっちゅう!」なんて声が聞こえてきたら末期。それはもう、完全に末期です。
ゆったり優雅にお風呂とか入ってる場合じゃなくて、脳神経外科がある最寄りのクリニックにかかることをオススメします。
できるだけ早めにfMRIないしPETで認知機能が正常かどうか検査してもらってください。おそらく著しい脳の機能不全が確認されると思われ。お薬、出しておきますねー。
「お姉ちゃん、だいじょぶ?」
心配そうな声に誘われるように、オレは隣に座る妹のほうに顔を向ける。目が合う。視線が交差する。
さらに言葉を続ける朋花。
「顔、ちょっと赤くない?」
「う、うん。大丈夫……」と返すオレ。「ちょっと、のぼせちゃった、かなー……」
「そんなに長風呂だったっけ?」
いぶかしげな表情を浮かべる朋花に構わず、テーブルのうえに置かれた箸を手に取るオレ。
「いただきまぁーす……」
覇気のないオレの食前の挨拶に、落ち着きのある声で返す母さん。
「はい、めしあがれ」
母さんの膨らみのある声。
どことなく母性を感じさせる落ち着いた声が、お箸が陶器に当たる音に混じって辺りに溶ける。
まずは御菜から。中央の大皿に乗せられた惣菜に箸を伸ばして、左手に持ったお茶碗のうえで一つバウンドさせる。お惣菜からしたたる出し汁が、真っ白なお米にジワリとにじむ。
おかずを口に運び、もぐもぐとよく噛む。うん、おいしい。
今朝とは違って、しっかり味が感じられる。母さんの作るゴハン、あいかわらず美味しい。
今朝は食品サンプル食べてるみたいだったもんね。わざわざ作ってくれた母さんには申し訳ないけど、無味無臭の食べ物を栄養摂取のためにモグモグしてた。
お母さま、ごめんなさい。本当にゴメンナサイ。
今朝のワテクシの舌、うまく機能してなかったんです。今は美味しく頂いてますので、どうかご容赦くださいませね。
自分の家のゴハンって、なんか安心しちゃうよね。『母の味』って言うとオジサン臭いけど、実家の味みたいなものってあると思うなぁ。なんだかんだ、食べ慣れてるものがイチバン美味しいのかもね。
ごはんが美味しくて幸せ。
お母さん、料理上手。さすが主婦だね。
「おいしい……」
思わず、呟きのような声がもれる。
「あら、よかった」と母さんが言った。「今朝のあなた、なんだか元気ないみたいだったから。葵の好きなハンバーグにしたのよ」
「あ、そうなんだ……」
大皿に乗せられたハンバーグに目を向けるオレ。ほかほかと湯気が立ちのぼっていて、ほのかに香ばしい匂いも漂ってくる。
おいしいよ、お母さん。
その心遣いも嬉しい。心がポカポカしてくる。
ってか、めざといね。今朝の麻衣もだけど、母さんも思ってたんだね。さらっと『元気がない』って見抜くのスゴいなぁ。
やっぱり、女性って目ざとい人が多い気がする。普段から他人のことをよく見てるのかもね。女の子が髪を切ったことにすら気付かない鈍感男子とは違うね。なんて、余計なひとこと。
二人と雑談を交えながら、オレは食事の手を進める。
ボウルに入ったサラダをつついたあと、ハンバーグをカットしてお茶碗に乗せる。
ひとくちサイズの肉塊を白米と一緒に口に運び、よく味わうようにアゴを動かして繰り返し噛む。もぎゅもぎゅとリズムよく噛むたびに、じゅわっと肉汁が口のなかにあふれ出す。もぎゅもぎゅ、じゅわっ。
「もいひい」
口にモノを含みながら、料理の感想をもらすオレ。マナー違反。
「飲み込んでから喋りなさい?」
案の定、母さんに注意される。はい、すみません。
「おかーさんの料理、ほんと美味しいよねぇ」
オレの隣に座る朋花もまた、おなじように感想を口にする。視界の端に幸せそうな笑みを浮かべる妹の姿が映り込む。
口のなかのものを飲み込んでから、妹の後に続くように言葉を返すオレ。もぐもぐ、ごくり。
「うん。ほんとに美味しい」
「あらあら」
うれしそうな笑みを見せる母さん。目尻に幸せのシワが寄る。笑い皺。
リアル母の微笑み。
わが子を慈しむ "ような" 微笑みじゃなくて、たぶん本当に愛おしんでるときの穏やかな笑顔。食事の手を進めるオレに向かって、母さんが優しげな笑みを見せてくれる。ちょっと照れる。
「今日のあなた、ずいぶんと素直ね」と母さんが言った。「いつもそう言ってくれると嬉しいんだけど」
「え、普段から思ってるよ?」
おもわず、オレは首をひねる。
お母さんが作ってくれるご飯、いつも「おいしい」って思いながら食べてるけどなぁ。
「思うだけじゃなくて、口に出してくれると嬉しいって話よ」
「あぁ、そういう……」
「褒め言葉は心の栄養だから」と母さんが言った。「思ってくれるだけでも嬉しいけど、言葉にしてもらえるともっと嬉しくなるわ。もちろん、感謝の言葉もね」
母さんが口にした言葉を、心のなかで繰り返すオレ。
褒め言葉は、心の栄養。
「……」
ごはんをモグモグと咀嚼しながら、過去の記憶を糸のように手繰り寄せた。
そういえば、前に本で読んだことある。
とある研究データによると、肯定的な声かけや称賛の言葉をかけられた被験者のほうが、ものごとに意欲的に取り組もうとする傾向が高まったのだとか。
ポジティブな言葉は、モチベーションを高める。
後ろ向きでネガティブな言葉よりも、明るい気持ちになれる言葉のほうが良い。心の内から湧いてくる『内発的なモチベーション』を高めるには、相手にポジティブな言葉をかけてあげるのも一つの方法なのだそう。
じっさいに、積極的に前向きな声かけをする職場のほうが、労働者の業務パフォーマンスが高まりやすい傾向にあった。否定的な言葉よりもポジティブな言葉を多用することは、離職率の改善や良好な人間関係を維持することにも役立つ。
それから、感謝の頻度と幸福度の関連を調べた研究によれば、日頃から意識的に感謝の言葉を口にできる人のほうが、そうでない人よりも幸福度が高くなりやすい傾向にあった。十万人以上を対象におこなわれた大規模なデータにおいても、やはり『感謝 × 幸福度』の関係は統計的に有意だったのだそう。
褒め言葉は、心の栄養。
感謝の言葉もまた、人の心を養ってくれる。日差しを受けて緑が育つように、すくすくと人の心を育ててくれる。
たしかに、母さんの言うとおりかも。
褒め言葉も、感謝の言葉も。ちゃんと相手に思いを伝えたいなら、言葉にして言うことも必要だもんね。自分の言葉で伝えるのって、すごく大切なことだもんね。
そっか。
お母さんも嬉しいんだ。
ちゃんと言ってほしいんだね。言葉にして伝えてほしいんだね。
オレが『かわいい』って言われると嬉しくなるみたいに、母さんも「おいしい」って言ってもらえると嬉しいんだね。
言葉も、感情も。
考えてることも、感じてることも。
心の中で思ってることは、本人にしか覗けないから。相手に気持ちを伝えたいなら、ちゃんと言葉にしなきゃだよね。
わたしの思いも、わたしの気持ちも。
もう、いいんだもんね。言葉にしていいんだもんね。
そうだよね、お母さん。
しぜんと笑顔が溢れた。
「すごく美味しいよ」
お母さんの目を見ながら、さらに言葉を続けるわたし。
「いつもありがとう。お母さんの料理、わたし大好きだよ」
「あらあら」
優しげな笑みを浮かべるお母さん。
ゆるゆると緩んだ口元に、ひかえめに垂れ下がる目尻。お母さんが見せる笑顔が、まだ眠たげな街を淡く照らす朝の日差しのように優しい。
「たくさん食べて大きくなるのよ」
食事の手を進めながら、小さい子どもに向けるようなことを口にするお母さん。
「それ、ちっちゃい子に言うヤツじゃない?」
案の定、朋花がツッコむ。ナイス突っ込み。
からからと軽やかに笑う妹と、にこにこ優しげに微笑むお母さん。ハンバーグの香ばしい匂いに混じって、二つぶんの笑い声が辺りに溶けていく。
あ、いいな。
こういうの、すごく幸せ。はっぴー。
話に花を咲かせながら、食事を楽しむわたしたち。
会話が弾むと、ごはんも進む。ひとりで黙々と食べるときよりも、家族と食卓を囲むほうが何倍も楽しい。
楽しいうえにご飯も美味しく感じられるから、油断してるとプクプクに太っちゃいそうだよね。幸せ太り的なね。幸福の功罪。なんて、余計なひとこと。
しばらくして食事を終えると、わたしは率先して片付けをした。使い終えた食器を運びやすいように重ねていく。
室内に響く甲高い音。カチャカチャと陶器どうしが触れ合う音に混じって、金属製のカラトリーが食器を叩く鋭い音が響きわたる。
食器をキッチンへと運びながら、先を歩くお母さんに声をかけるわたし。
「今日、わたし洗い物するよ」
「あら、そう?」
こくり、と一つ頷くわたし。
「うん、お母さんは休んでて。いつもありがとう」
付け足すように感謝の言葉を口にすると、お母さんは優しげに目を細めて微笑んだ。
「あらあら。それじゃあ、お願いするわね?」
「うん、任せて」
お母さんと入れ替わりで、シンクの前に立つわたし。
スポンジを手に取って、蛇口から出る水にさらす。よく水に浸した台所スポンジのうえに洗剤を出して、もぎゅもぎゅと手で揉みこんでシッカリと泡立てる。だんだんと、スポンジを持つ手が白い泡に包まれていく。あわあわ。
わたしが洗い物を進めていると、居間にいる朋花が声をかけてきた。
「お姉ちゃん、働きものだねぇ〜」
安穏とした声に誘われるように、リビングのほうに顔を向けるわたし。
ソファーで寛ぐ朋花。お腹を休めようと食休みと洒落込むネコさながらに、ごろんとソファーに寝転がる妹の姿が視界に入り込む。洗い物にいそしむ姉を高みの見物。
「お姉ちゃんのこと、手伝ってあげたら?」
手伝いを促すようなお母さんの声に、ごろりと一つ寝転んでから答える朋花。
「あたし、食べるの専門なんで〜」
食後の幸せな満腹感に浸っているのか、目をつむって満足げに口元を緩める朋花。定位置を見つけたネコのように、テコでも動かないつもりのようす。そのまま寝ちゃいそうな勢い。
「もう……」
あきれたような声とともに、そっと溜め息をつくお母さん。ぐうたらな娘の言動に肩を落としているようす。
助け舟を出すように、二人の会話に割り込むわたし。
「大丈夫だよ、お母さん。朋花も休んでて?」
わたしの言葉が意外だったのか、パッと目を開けて身体を起こす朋花。
おどろきに目を丸くする妹の姿が、どことなく小動物のように見える。つぶらな瞳の小動物。リスとかハムスターとか。
「お姉ちゃん、今日どうしたの?」と朋花が言った。「めっちゃ甘やかすじゃん。なんか良いことあった?」
あ、自覚はあるんだね。
うちの妹ちゃん、甘やかされてる自覚はあるみたい。
んー、と小さく唸るわたし。
「約束やぶった罪滅ぼし……かな?」
わたしの言葉を受けて、朋花が「あぁ〜」と納得したような声をもらす。
「なら、遠慮なく甘えちゃおっかなー?」
にんまりと笑みを浮かべた朋花が、再びソファーにゴロンと寝転がる。マンガとかアニメだったら、頭のうえに音符が浮かんでそう。サブカル的な表現。
テーブルのうえにあるリモコンを手に取り、テレビのチャンネルをザッピングする朋花。やがてお目当ての番組を見つけたのか、テレビのリモコンを元の位置に戻した。ものぐさムーブをかます妹の姿に、わたしは思わず笑いそうになってしまう。
ごろ寝する朋花を一瞥した後で、お母さんがコチラに顔を向ける。
「葵は朋花に甘いのね」
ひとつ、嘆息する。
ため息をこぼすお母さん。あきれたように笑う姿に釣られて、わたしも一つ笑みを返す。
リビングに目を向ければ、ご機嫌そうにソファーに寝転がる妹の姿。ダイニングのイスに座るお母さんは、眉尻を下げて困ったように笑っている。対照的な親娘の姿に、思わず笑みがこぼれる。
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