第3話 水曜日の告白
(差出人:新谷夏帆/宛先:藤原志乃さま)
はじめまして。突然の手紙をお許しください。わたしは新谷夏帆と申します。志乃さまのご子息、蓮くんの同級生です。何度も書いては破り、破ってはまた書き直しました。便箋の角が柔らかくなって、インクが少しにじんでしまいました。なぜわたしがいま手紙を書いているのか、その理由の一部だけでも、どうしても志乃さまに伝えたくなったのです。
先に申し上げます。わたしは蓮くんと、お付き合いをしていました。といっても、きちんとした形で誰かに紹介したことはありません。二人だけの約束で始めて、二人だけの約束のまま続けていました。あの子は、わたしに「約束は言葉で守るんじゃなくて、行動で守るものだよ」と言って、よく笑いました。あの笑い方を思い出すと、胸の奥が少し温かくなって、それから重たく沈みます。
この一週間、学校は静かです。静かだということが、かえって騒がしいのだと初めて知りました。誰もが普通の顔をして、普段どおりに授業を受け、チャイムに合わせて立ち上がります。休み時間には笑い声が少しだけ小さくなって、黒板の前でチョークが鳴る音がよく響きます。誰も言いませんが、みんな知っています。——“言ってはいけない名前”というものがあることを。
志乃さま。わたしは火曜日の夕方、屋上の近くにいました。ここまで書いて、手が止まりました。ほんとうは書くべきではないのかもしれません。あの夜のことは、報告書やニュースの言葉に置き換えられて、すでに“終わったこと”にされてしまったから。けれど、わたしの中には、終わらないままの言葉がひとつだけ残っています。
——「電話をしていた」と、嘘をつきました。
本当は、少し違います。わたしは、あの場所にいました。屋上の扉の陰に立って、風の音と足音の数を数えていました。自分の心臓の鼓動と、同じ速さになったとき、怖くなって、扉に背中をつけました。指の先が冷たくて、携帯電話を取り出そうとしても、上手く掴めませんでした。だから、「電話をしていた」のではありません。「電話を持っていた」だけです。あの夜、わたしは、誰にも繋がっていませんでした。
蓮くんは、わたしの前では弱い言葉をあまり使いませんでした。ため息も、言い訳も、最後まで飲み込んでしまう人でした。だからでしょうか。わたしは、あの夜に聞こえた言葉の主が誰だったのか、今もはっきりとは言えません。「やめてくれ」と、たしかに聞こえました。けれど、その声が誰のものだったのか、風が運んでしまいました。風は、言葉の輪郭を平らにします。誰が言っても、同じ線に見えてしまうのです。
志乃さま。もうひとつ、謝らなければならないことがあります。わたしは蓮くんの上着を返せませんでした。赤い糸で小さく刺繍をした、あの上着です。わたしが縫ったものではありません。家庭科の授業の課題を手伝ったとき、糸の色を選んだのはわたしですが、針を持っていたのは、べつの友人でした。細い糸を二本合わせて、目立たない場所に小さな印をつけました。「迷子にならないように」と笑いながら。
その上着が、事故の夜にどこにあったのか。わたしには、分かりません。ただ、放課後、昇降口で顔を合わせたとき、右手にテープを巻いた人が、ポケットの中を探るしぐさをしているのを見ました。誰かの視線がこちらを向いたので、わたしは目を逸らしてしまいました。いま思えば、あのとき声をかけるべきでした。「返して」と。もし、わたしがそう言えていたら、何かが違っていたでしょうか。
この手紙を書きながら、胸の奥で小さな音が鳴ります。チョークが黒板を擦るときの、乾いた音に似ています。何かを正しく書こうとすると、いつも最後の一画が震えてしまう。わたしは、正しく書けているでしょうか。志乃さまの悲しみを、わたしの言葉がもう一度傷つけるのではないかと、それが一番怖いのです。
先生に、「見ていなかったことにしてほしい」と言われました。優しい言い方でした。わたしのことを気遣っての言葉だと、頭では分かっています。けれど、その言葉の中に、わたしは自分の臆病さを見つけてしまいました。見ていなかったことにできるのなら、そうしたかった。あの夜に戻って扉の影から出ずに、風の音だけを数えていたかった。そうすれば、誰の名前も、誰の声も、わたしの中に残らなかったのに。
志乃さま。わたしは、あの夜、蓮くんの手が——右手でフェンスを掴んでいたように見えました。ほんの一瞬で、たしかとは言えません。風で髪が舞って、目が痛くて、涙が勝手に出てきて、視界がにじんでいました。けれど、フェンスに白く血の気のない指が並んでいた気がするのです。誰の指だったのか、もう確かめることはできません。ただ、そのときのわたしは、そう思ったのです。
この手紙を、どこで終えればよいのか、分かりません。わたしは事件のことを語りたいのではありません。蓮くんのことを語りたいのです。彼は、よく空を見上げました。休み時間の窓際で、黒板の端で、渡り廊下の屋根の上の鳩を見ながら、空の色の話をするのです。「きょうの空は少し固い」と。わたしには空に固さがあるなんて思いもしませんでした。けれど、彼がそう言うと、空はたしかに少しだけ重たく見えました。
火曜日の朝、学校に向かう道で、同じ色の空を見ました。少し固い、よく晴れた空です。風は冷たく、息は白くはならないのに、吐く息がさみしい色をしていました。門のところに花束があって、誰も触れないように少し離れて立っていました。わたしは、そこで初めて泣きました。泣いたら、少しだけ楽になると思っていました。けれど、楽にはなりませんでした。涙は、ものごとを軽くしてはくれないのですね。
志乃さま。わたしは、わたしの見たものを、そのまま書いたつもりです。でも、人は、自分の見たいものしか見ないのだと、最近やっと知りました。わたしがこの手紙に書いたことも、どこか少しずれているのかもしれません。ずれていることを、わたしは恐れています。けれど、書かないままでは、もっと恐ろしい。言葉にしない沈黙が、わたしを内側から押し潰してしまいそうなのです。
最後に一つだけ。蓮くんは、誰かを傷つけるために手を伸ばすような人ではありません。これは、わたしが愛した人への偏見かもしれません。それでも、そう信じています。——もし、この信じるという行為そのものが、誰かを傷つけるのだとしても。
長い手紙になってしまって、すみません。ここまで読んでくださって、ありがとうございます。続きは、もしも許されるなら、また書かせてください。
水曜日の夜に。
新谷夏帆
(差出人:新谷夏帆/宛先:藤原志乃さま)
追伸——あの手紙を出してから、どうしても伝え残したことがあります。夜が明けて読み返すと、わたしの言葉はまだ途中でした。書きながら涙で滲んだ文字の向こうに、あの日の風が立ち上がるのを感じます。だから、もう一度だけ、あなたに書かせてください。
あの夜。屋上の扉の影から、わたしは二人の背中を見ていました。夕暮れの光は薄く、風は冷たく、足音は短く、会話は、ほとんど風の中へ消えていきました。「やめてくれ」という言葉を、わたしは確かに聞きました。ただ、それが誰の口から出た音だったのか、いまも断言できません。わたしは、怖くて、出口の方ばかりを見ていました。逃げ道を探す癖が、あのときのわたしには染みついていたのです。
右手に白いテープを巻いた人が、ポケットの中を探る仕草をしました。ひどく不自然に見えました。何かを返そうとしているのか、隠そうとしているのか、それともただ、落ち着きがなくて手を動かしているのか。わたしは前者であってほしいと願いました。願いは叶わないことを知っているのに。
赤い糸は、ほんの小さなものでした。制服の袖口の内側に縫い込まれていて、普通は誰にも見えません。わたしは、それが一瞬、風にめくられて外へ覗いたのを見ました。夕陽の色がそこに触れて、わたしの目には炎のように見えました。どうしてあのとき、わたしは声を上げなかったのでしょう。「返して」——その一言を、どうして言えなかったのでしょう。
影が落ちるとき、世界は音を失います。知識として知っていたことが、目の前で現実になりました。ひとつの影が消えて、残った影がしゃがみ込み、そして立ち尽くす。わたしは扉の影の中で、携帯電話を握りしめていました。番号を押せばいいのに、押せませんでした。画面の明かりが、指先の汗で滲んで、数字が歪んで見えたのです。わたしは、見ていることしかできませんでした。
あとで先生に、「見ていなかったことにしてほしい」と言われました。優しい声でした。わたしは、その優しさに救われるふりをしました。ふり、です。本当は、救われたかった。見ていなかったことにできるなら、そうしたかった。見ていない者には罪がない、という言い訳の中に、わたしは身を隠したかったのです。
葬儀の日、わたしは志乃さまの近くに行けませんでした。代わりに、受付の脇に小さな封筒を置きました。表には何も書かず、中に短い紙片を入れました。「ごめんなさい」とだけ。たぶん、それは届かなかったでしょう。無記名の言葉は、どこへでも行けるけれど、誰にも届かない。
翌朝、校門の花束のそばに、同じような白い封筒がありました。裏面の糊が甘く、少し開いていました。中を覗くと、青い罫線の紙が折り畳まれて入っていました。インクの色は黒。筆圧は強く、右下がりに走る線。「押してない」と繰り返す文。わたしは、その字を知っている気がしました。どこで、とは言えません。ただ、指の節の形や、紙の角の折り方に、書いた人の呼吸のようなものが写っている。人の字は、その人の歩き方と同じで、簡単には変わらないのだと、そのとき思いました。
わたしは、誰かの味方になりたいのではありません。誰かを責めたいのでもありません。志乃さま。わたしは、蓮くんの味方になりたい。けれど、味方であることは、誰かの敵であることと同じ意味を持つときがあります。あの夜、わたしは味方にも敵にもならなかった。扉の影で、ただの傍観者になりました。わたしの沈黙は、あの場所の風と同じで、何かを押し、何かを引き、何も持たないままで通り過ぎていったのです。
右手でフェンスを掴む白い指の列を見たと書きました。いま、この文を書きながら、わたしは自分の記憶を疑っています。ほんとうに右手でしたか。わたしは、あの子が左手でノートに絵を描くのを見たことがあります。何度も。彼が消しゴムを使うときだけ右手に持ち替えるのが、小さな癖でした。では、わたしが見た指は、誰の指だったのでしょう。わたしは、何を見て、何を見落としたのでしょう。
先生から、「これ以上は書かない方がいい」と言われました。紙は証拠になるから、と。証拠という言葉は、わたしたちの日常から遠い場所にあると思っていました。けれど、ちがいました。わたしたちの言葉ひとつひとつが、どこかで誰かの証拠になる。だから、わたしは慎重であろうとしています。けれど、慎重であることと、臆病であることの境界は、驚くほど細いものですね。わたしは何度も跨いでしまい、そのたびに自分の足跡を見失います。
志乃さま。わたしはこの手紙を、もう一度封筒に入れて、今度は宛名を書きます。あなたの名前を、漢字を間違えないように、ゆっくりと。切手を貼り、ポストの口に差し入れるとき、もう一度だけ、躊躇します。投函という行為は、手紙を世界に解放する儀式です。戻ってこないものを、戻らないままにする儀式。もし、あなたの手に届かなかったなら、わたしはもう一度書きます。届いたなら、どうか一度だけ読んで、燃やしてください。紙は、燃えると軽くなります。わたしの言葉も、少しは軽くなるでしょうか。
最後に、わたしの願いを書きます。蓮くんがどこかで息をしているのなら——これは身勝手な願いだと分かっています——どうか、誰かのために手を伸ばしてください。あなたのためではなく、誰かのために。もしその手が、もう届かない場所にあるのなら、どうか、わたしたちの沈黙が、その手の届かなかった理由になりませんように。
わたしは、いまも時々、屋上の扉の影に立ちます。鍵はかかっていて、ドアは開きません。風は通ります。金属のきしむ音は、昔のままです。目を閉じると、誰かの足音が二つ、階段を上がっていくのが聞こえます。わたしは、もう数えません。数えてしまうと、また一人を見落としてしまいそうだから。
長くなりました。ここまで読んでくださって、ありがとうございます。返事はいりません。返事をいただく資格が、わたしにはありません。ただ、あなたがこの手紙を一度だけ抱いてくれるなら、それで十分です。
水曜日の夜が、終わろうとしています。カーテンの隙間に、きょうの空の色が最後の一滴のように残っています。固い空は、夜になると柔らかく見えるのですね。蓮くんなら、どう言うでしょう。「きょうの空は、少しやわらかい」。——そう思うことが、許されますように。
新谷夏帆
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