第四話 闇に沈む祈り

 灰色の雲が垂れ込めた朝、アルセリア修道院にひとりの少女が連れてこられた。

 年の頃は十三ほど。名はノワ。

 どこか夢を見ているような虚ろな瞳で、修道院の床を踏む音さえも遠くに感じているようだった。


「……この子を、お願いできませんか」

 村の女性が、怯えたように手を合わせた。

「最近、夜になると自分を傷つけようとして……。でも、止めると叫んで、誰も信じようとしないのです」


 セリアは小さくうなずき、少女にそっと手を伸ばした。

「大丈夫……。あなたの心、少しだけ見せてくださいね」


 その瞬間――セリアの身体が震えた。

 冷たい何かが指先から流れ込み、彼女の視界が暗闇に覆われる。


 ――だれも、信じない。

 信じたら、壊されるから。


 少女の中に沈む声が、セリアの心に響いた。

「っ……!」

 セリアは息をのみ、膝をついた。

 リディアが慌てて抱きとめる。

「セリア! やめなさい、それ以上は危険よ!」


「でも……この子、苦しんでる……助けてあげたいの……」

「あなたまで壊れる!」

「それでも……放っておけない!」


 リディアの胸に怒りと恐怖が同時に湧いた。

 彼女はセリアを強く抱きしめ、そのまま治癒の光を彼女の手に注ぎ込む。

 だが、闇はびくともしない。


 ――それが始まりだった。


 セリアはその夜からうなされ始めた。

 夢の中で、少女ノワの泣き声と闇が絡みつく。

「信じないで……誰も信じちゃいけない……」

 寝汗で濡れた額。蒼白な頬。

 セリアの魔力は乱れ、どんな祈りも届かなくなっていた。


 リディアは一晩中、彼女の傍らにいた。

 光を灯す祈りの呪句を唱え、手を握り、冷たい額を拭く。

 それでも、セリアの唇は冷たいままだった。


「……どうして、あなたばかり苦しまなくちゃいけないの」

 リディアの声が、かすかに震えた。


 数日が過ぎても、セリアは目を覚まさなかった。

 その頬に手を当てると、淡い光が指先を包み、リディアの胸に痛みが伝わる。

「……こんなにも、あなたは人の痛みを受けて……」


 リディアは静かに祈りの言葉を唱えた。

 ――どうか、この子の闇を私に。


 光が柔らかく広がる。

 リディアはそっとセリアを抱き寄せ、額を合わせた。

 互いの呼吸が重なる。


「セリア……あなたは一人じゃない」

 光の粒が二人を包み、闇が少しずつ薄れていく。

 セリアの唇がわずかに動いた。

「……リディア、さん……」


 涙が、リディアの頬を伝う。

 彼女は震える声で答えた。

「ここにいるわ。ずっと、あなたの傍に」


 祈りにも似たその言葉が、やがて静かな夜気に溶けていった。

 ろうそくの炎が揺れ、窓から射す月光がふたりの頬を照らす。

 その光は、まるで“神が見守る奇跡”のように優しかった。


 ――闇は完全に消えたわけではない。

 けれど、その夜、確かにひとつの魂が救われた。

 そして、もうひとつの魂が、初めて“誰かを愛する痛み”を知った。


 リディアは眠るセリアの手をそっと握りしめ、祈るように囁いた。


「この痛みも、愛も……全部、あなたと共にあるように。」


 静寂の修道院に、鐘の音が遠く響いた。

 夜は、静かに明けていく。

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