第一話 ― 光に触れる手 ―

 朝の鐘が修道院の塔から鳴り響く。

 小鳥たちの声とともに、古びたステンドグラスの光が石床に散っていた。


「おはようございます、シスター・ミリア。今日からお世話になります、セリア・リュミエールです。」

「ようこそ、セリア。ここは少し寒いけど、心は温かい場所よ。」

「はいっ、がんばります!」


 栗色の髪を揺らし、セリアは笑顔で頭を下げた。

 その笑顔の裏で、胸の奥に淡い不安が残る。

 ――触れるだけで相手の感情が流れ込む、自分の力。

 それがどんな意味を持つのか、まだ彼女には分からなかった。


「ねぇセリア、知ってる? ここ、王都に知られたら大変なことになるんだって。」

「えっ、どうしてですか?」

「この修道院、聖宮に逆らって平民まで癒してるんだよ? でも、内緒ね。」

「……そんな。癒すことが、いけないことなんですか?」

「そういう決まりなの。けど、私たちはそれを守らない。それが“アルセリア”の在り方なの。」


 仲間の修道女たちは明るく笑っていた。

 だがセリアの胸の奥で、ほんの少しだけ、

 “神の光”という言葉が遠く霞んでいく。


 昼下がり、修道院の門が開かれる。

 週に一度の「癒しの日」。

 近隣の村から、老若男女が列をなして訪れる。


「痛むのはどこですか?」

「腰でねぇ、もう十年も……」

「手を出してください。大丈夫、すぐに楽になります。」


 セリアがそっと手を伸ばす。

 その瞬間、老人の心が流れ込んできた。

 ――寂しさ。後悔。孫の笑顔への愛。

 胸の奥に痛みが走り、息が詰まる。


「セリア!? 大丈夫!?」

「……だ、だいじょうぶです。少しだけ、苦しくて……」


 額に汗が滲む。

 癒しの光が淡く消えかけたとき、背後から冷たい声がした。


「そこまでにしておけ。」


 修道院の奥から現れたのは、一人の修道女。

 金色の髪が陽の光を弾き、静かな瞳がセリアを見つめる。


「あなたが、新しく来た子ね。」

「は、はい……! セリア・リュミエールです!」

「リディア・アルトリウス。この修道院の指導係。」


 リディアはゆっくり老人に歩み寄ると、

 セリアの手をそっと外し、自分の掌を重ねた。


「――“痛みよ、来なさい”。」


 淡い光が溢れ、老人の表情が安らぐ。

 だが同時に、リディアの腕に赤い痕が浮かび上がった。


「リディア様、その腕……!」

「問題ない。終わったわ。」


 彼女は淡々と包帯を巻き直し、立ち去ろうとした。

 セリアは思わず、その背に声をかける。


「なぜ……自分が傷つくのに、そんなことを?」

「癒しとは、分け合うこと。誰かが痛みを引き受けなければ、誰も救われない。」

「それは……神の教えですか?」

「いいえ。」

 振り返った瞳は、あまりにも静かだった。

 「これは、私の罰よ。」


 夜。

 修道院の回廊に、灯りが一つだけ残っていた。

 セリアはシーツを抱きしめながら、外の星を見上げていた。


「……リディア様は、どうしてあんなに強いんだろう。」

「強くなんてないわ。」


 声に振り返ると、いつの間にかリディアが立っていた。

 手に燭台を持ち、白い寝衣の袖口から包帯が覗く。


「さっきのこと、気にしているのね。」

「……私、見てしまいました。あなたの傷。

 癒すたびに、あんな痛みを受けていたなんて。」


「痛みは、ただの形。心の方が、よほど厄介よ。」

「心の痛み……?」

「あなた、相手の感情を感じ取るんでしょう?」

「えっ……どうして、それを……?」

「さっきの光の揺らぎ。あれは共感が強すぎた証拠。」


 セリアは唇を震わせた。

 自分の秘密を、初対面の人に見抜かれた衝撃。


「あなたの力は、優しすぎる。

 だからこそ、きっと傷つくわ。何度も。」


「それでも……癒したいです。人の痛みを、悲しみを……放っておけません。」

「……昔の私に似ている。」


 その一言に、セリアの胸が鳴った。

 リディアは窓辺に立ち、夜空を見上げる。


「神はね、光を与える代わりに、影も作る。

 私たちはその影にいる。でも――影があるからこそ、光を見上げられる。」


「……わたしも、そうなりたいです。」

「なら、明日から私の手伝いをしなさい。」

「えっ!? でも、私はまだ見習いで――」

「見習いでも、心があるなら十分。」


 そう言って、リディアはわずかに笑った。

 初めて見る、柔らかな微笑みだった。


 その夜、セリアは眠れなかった。

 胸の奥で、何かが確かに変わった気がした。

 “触れれば苦しい”力。

 けれど――その苦しみの中に、温かな光がある。


「……リディア様の光は、少し痛いけど……優しい。」


 遠く、夜鐘が鳴る。

 その音が、彼女の新しい日々のはじまりを告げていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る