第20話 聖域の『防衛』と、料理人の『炎』

「……この気配。間違いない。帝都で、俺たちが『浄化』したはずの、あの『魔瘴』の……残り香だ」


 リュウさんの、地を這うような低い声が、緊迫した食堂に響き渡った。ヴォルグさんの切迫した呼吸と、外から吹き込む、あの忌まわしい魔瘴の匂い。私たちが帝都で断ち切ったはずの「過去」が、今度は私たちの「日常」そのものを喰らい尽くそうと、すぐそこまで迫っている。


「……チッ。魔瘴だぁ?」


 静寂を破ったのは、地下から駆け上がってきたガノスさんの、荒々しい声だった。彼はその無骨な手で、愛用の巨大なハンマーを握り締め、ヴォルグさんの肩を乱暴に掴んだ。


「おい、ヴォルグの旦那! 怪我はどうした! まだ立てるか!」

「……っ、当たり前だ! ドワーフに担がれるほど、ヤワじゃねえ!」


 ヴォルグさんは、傷口を押さえながら、獣人特有の鋭い嗅覚で、森の闇を睨んだ。


「……臭いが濃くなってやがる。こっちに向かって、まっすぐに……! リュウの言う通りだ。魔物どもは、この『臭い』に操られてる。……まるで、餌に群がる虫ケラみてえに」

「餌、ですって……?」


 私が繰り返すと、リュウさんは、私を背後にかばうように立ちながら、冷たく言った。


「……魔瘴こいつは、純粋な『力』を好む。帝都では、氷帝の魔力と、お前の《浄化》の力を喰らおうとした」

「……!」

「この聖域は、お前の《浄化》の力で、清浄な魔力が満ちすぎている。……今のこの場所は、あの化け物にとって、最高のご馳走に見えるんだろう」


 私たちが癒しのために使っていた力が、逆に、最悪の敵を呼び寄せてしまった。私の顔から、血の気が引いていく。私が、ここにいるから。私の力のせいで、この大切な場所が……。私の動揺が伝わったのか、リュウさんが、私の名前を短く呼んだ。


「セレスティア」

「……は、はい」

「下を向くな」


 その声は、トラウマに怯えていた頃の彼とは、まったく違っていた。それは、故郷を襲われた「被害者」の竜ではなく、守るべき「城」の主として、敵を迎え撃つ「料理番」の、冷徹な怒りに満ちた声だった。


「……俺は、一度、こいつから逃げた」

「リュウさん……」

「だが、二度目はない。……こいつは、俺の『厨房』を荒らしに来た。それも、お前という、俺の『聖域』に手を出すためにだ」


 彼は、私を振り返ると、あの不敵な笑みを、一瞬だけ見せた。


「……歓迎してやろうじゃないか。聖女様。最高の食材が、わざわざ『出前』に来てくれたんだ。今度こそ、骨の髄まで『調理』して、跡形もなく『浄化』してやる」


 その言葉に、私はハッとした。そうだ。下を向いている場合じゃない。私たちが「ご馳走」なら、それを喰らおうとする相手に、とびっきりの「毒」を仕込んであげればいい。帝都でやったように。ううん、あの時よりも、もっと強く。


「……ヴォルグさん! 傷を見せてください!」


 私は、リュウさんの覚悟に応えるため、自分が今すべきことを実行に移した。ヴォルグさんの肩の傷は、ただの爪痕ではなかった。魔瘴の「残り香」に触れた魔物の爪によって、黒く、呪いのように変色し始めている。


「う……こいつ、しつけえ……」

聖女の浄化サンクチュアリ!」


 私は、傷口に両手をかざし、光を集中させる。帝都の魔瘴本体とは違い、この程度の「残滓」に、私の《浄化》はもう負けない。

 ジジジ、と黒い瘴気が焼け焦げる音を立て、ヴォルグさんの傷が、瞬く間に癒えていく。私の力が、この宿屋の中では、帝都にいた時よりも、さらに強力になっているのがわかった。


「……おお! すげえな、聖女様! 力が戻った!」

「ヴォルグさん、森の様子をもっと詳しく!」

「おう! 奴ら、ただの魔物じゃねえ。森の木々や、土そのものが、魔瘴に『喰われて』、黒い『泥』みてえになって、この宿に向かってきてやがる!」


 森が、死んでいる。あの魔瘴は、私たちの聖域いのちを喰らうために、周囲の生命いのちを喰らいながら、進軍してきているのだ。


「……泥、だと?」


 その言葉に、今まで黙って聞いていたガノスさんが、ハンマーを肩に担ぎ直した。


「ふん! 上等じゃねえか! 土木工事は、俺たちドワーフの専門分野だ!」


 ガノスさんは、宿屋の扉を蹴破らん勢いで開けると、外に向かって叫んだ。


「リュウの旦那! ヴォルグの旦那! 客じゃねえ! 『害獣駆除』だ! 俺が、この聖域しろの周りに、ドワーフ式の『防衛線デッドライン』を引いてやる!」

「防衛線?」

「おうよ! 俺がリノベで張り巡らせた、この『飲む温泉』の配管! あれに、聖女様の《浄化》の力を通せば、この宿屋全体が、化け物どもにとって『触れることもできねえ』聖なる結界になる!」


 ガノスさんは、ニヤリと笑う。


「だが、奴らは『泥』になって来るんだろ? なら、その『泥』ごと、俺の炎で焼き尽くす!」


 彼は、地下の工房から、ドワーフが使う「高炉」の燃料……『火炎石かえんせき』を詰めた麻袋を、いくつも運び出してきた。


「リュウの旦那! 悪いが、『火』を貸してもらうぞ!」

「……ああ。火加減は任せろ」


 リュウさんも、厨房から、最大の火力が出せる、ドワーフ製の調理用コンロを(軽々と!)抱えて外に出てきた。三人の男たちが、宿屋の玄関前で、それぞれの「武器」を持って集結する。

 ヴォルグさんは、癒えた体で、傭兵としての「剣」を。ガノスさんは、建築家としての「ハンマー」と「火炎石」を。そして、リュウさんは、料理人としての「コンロ」を。


「……私も!」


 私は、彼らの元へ駆け寄ろうとした。だが、ガノスさんが、それを手で制した。


「聖女様!」

「はい!」

「あんたは、この聖域の『心臓』だ!」


 ガノスさんは、宿屋の奥……あの黄金色の湯が湧き出る、大浴場を指差した。


「あんたは、あの『源泉』から、一歩も動くんじゃねえ!」

「え……?」

「俺が作った配管は、すべて、あの源泉に繋がってる! あんたが源泉に『浄化』の力を注ぎ込み続ける限り、この宿屋は、大陸最強の『要塞』になる!」


 ヴォルグさんが、剣を抜きながら、私を見て笑った。


「そうだぜ、聖女様。俺たちは『壁』だ。あんたは『心臓』。……あんたが光り続けてくれるなら、俺たちは、絶対に『壁』を突破させねえ!」

「……セレスティア」


 リュウさんが、私に向き直る。


「……ここは、俺たちの『厨房』だ。……絶対に、守る」

「……!」


 私は、三人の背中を見つめた。私は、もう「守られる」だけのか弱い聖女じゃない。私には、この聖域の「心臓」として、彼らを守る「役目」がある。


「……わかりました!」


 私は、全幅の信頼を込めて、三人に頷いた。


「私の《浄化》の光は、決して絶やしません! ……皆さんこそ、ご武運を!」


「「「おう!!」」」


 三人の男たちは、それぞれの持ち場へと散っていく。私は、一人、源泉へと走った。


 ◇


 黄金色の湯が、静かに湯気を立てている。私は、スカートの裾をまくり上げると、ためらうことなく、その湯の中心へと足を踏み入れた。温かい「生」の力が、私を包み込む。


(……私は、勇者パーティーを追放された)

(私は、運命から逃げ出した)

(私は、ずっと「役立たず」だった)


 もう、そんな私じゃない。ヴォルグさんが、ガノスさんが、リュウさんが、私を「心臓」だと言ってくれた。私を信じて、今、命を懸けて、外で戦おうとしている。応えなければ。


(運命に縛られた『聖女』じゃない)

(私は、この場所の――)


 私は、湯の中心で、両手を天に掲げた。


辺境の聖域フロンティア・サンクチュアリ!!」


 私の力のすべてが、黄金色の湯へと注ぎ込まれる。源泉が、眩い光を放ち始めた。その光は、ガノスさんが作った配管を伝い、宿屋の壁を、床を、屋根を、光の「血管」のように駆け巡っていく。宿屋全体が、一つの「生命体」のように、白金の《浄化》の光で輝き始めた。


 ▶◇◇◇


 その、まさに、同時。宿屋の外で、リュウさんが調理用コンロの火力を最大にし、ガノスさんの火炎石に点火した。


「喰らいやがれ、化け物ども!」

「《神の火加減ゴッド・グリル》・最大火力!!」


 宿屋の周囲を、ドワーフの炎と、竜の炎が、浄化の「壁」となって燃え盛る。森の闇の奥から、黒い「泥」の津波が、私たちを飲み込もうと迫っていた。私たちの「日常」を守るための、聖域やどの防衛戦が、今、始まった。



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