第4話 聖女の菜園と、エルフの客

 狼獣人のヴォルグさんが去った後、宿屋には再び静寂が戻った。

 カウンターに残された銀貨が、ここが「宿屋」であり、私たちが「主人」であることを示している。


「……『辺境の聖域』、か」


 厨房を片付け終えたリュウさんが、カウンターを拭きながら、ぽつりと呟いた。  昨日までとは違う、その声に含まれた微かな「張り」のようなものに、私は嬉しくなる。


「はい! なんだか、素敵です! 私、頑張ってお掃除し、」

「その前に、問題がある」


 リュウさんは私の言葉を遮ると、空っぽになった食料庫の扉を無雑作に開けてみせた。


「食材が、ない」

「えっ」

「ヴォルグに食わせたスープで、干し肉も乾燥野菜も使い切った。ここにあるのは、俺が趣味で集めたスパイスと、最低限の小麦粉だけだ」


 言われてみれば、当然のことだった。リュウさんはここで「死ぬ場所」を探していたのだ。宿屋を経営するほどの備蓄があるはずもなかった。


「む、村に買い出しに……!」

「この辺境の村だぞ。二人……いや、ヴォルグのような大男が満足するほどの食料が、毎日手に入るとは思えん」


 リュウさんは腕を組む。せっかくお湯が復活して、私にも「役目」ができたと思ったのに。

 その時、私は宿の裏手に、雑草だらけの荒れた土地が広がっていたことを思い出した。そこは、かつて宿屋の菜園だった場所のようだった。


「リュウさん! 私、あそこで野菜、作れるかもしれません!」

「……は?」

「私、王都でも薬草園を手伝うのが趣味で! それに、私の《浄化》なら……!」


 私はリュウさんの返事も待たずに、宿の裏口から飛び出した。

 そこは、石ころだらけの固い土地だった。長年の瘴気が染み付いているのか、雑草すらまばらにしか生えていない。でも、私にはわかる。この土地も、あの湯船の底と同じ。「疲れ果てて」いるだけだ。


「《聖女の浄化サンクチュアリ》!」


 私は両手を大地にかざす。宿全体を清めた時とも、湯船の穢れを祓った時とも違う。大地に「元気になって」と祈るように、優しく、温かい光を注ぎ込む。


 すると、奇跡が起こった。

 私の足元から、黒ずんでいた土が、ふかふかとした生命力に満ちた黒土へと変わっていく。石ころは砂となって崩れ、干からびていた雑草は、みるみるうちに青々とした若草に姿を変えた。「役立たず」だった私の力が、今度は「命」を生み出す土壌を作ったのだ。


「……お前の力は、本当に規格外だな」


 いつの間にか後ろに立っていたリュウさんが、呆れたような、それでいて感心したような声を漏らした。


「ここなら、何でも育ちそうだ」

「はい! 王都から持ってきたハーブの種があるんです! あとは、村で野菜の苗を……」

「……その必要はない」


 リュウさんはそう言うと、どこからか大きなすきを持ってきた。そして、私が作ったばかりの黒土に、軽々とそれを突き立てる。

 人間業とは思えない速度と正確さで、彼はあっという間に美しい「うね」を作っていく。


「リュウさん、すごい……! 力持ちなんですね!」

「……火の番よりは、マシだ」


 ぶっきらぼうに答えながらも、その横顔はどこか楽しそうに見えた。私は荷物から、大切に持っていたハーブの種を取り出し、その畝に蒔いていく。これなら、すぐにお料理に使えるハーブが育つはずだ。


 ◇


 二人で夢中になって畑仕事をしていると、宿の入り口の方から、遠慮がちな声が聞こえた。


「……ごめんください。どなたか、いらっしゃいますか?」


 慌てて私とリュウさんが泥だらけの手で入り口に向かうと、そこには、息を呑むほど美しい、一人の男性が立っていた。

 長く尖った耳、翡翠ひすいのような緑の瞳。それは、物語の中でしか見たことのない「エルフ」だった。彼は、ひどく疲労した顔で私たちを見ると、ほっと安堵の息を漏らした。


「ああ……やはり。二日ほど前、この地から天を突く《浄化の光柱》が立つのを感じました。そして今朝、この地で『命の湯』が蘇った気配が……」


 どうやら彼も、ヴォルグさんと同じく、私の「大掃除」と「湯船の浄化」を感じ取って来たらしい。


「あの、『辺境の聖域』は、もう一度開かれたのでしょうか?」

「は、はい! どうぞ! お湯、湧いてます!」


 私は満面の笑みで彼を招き入れた。


 エルフの男性は、黄金色に輝く湯に浸かると、まるで溶けてしまいそうなほど陶然とした表情になった。


「……素晴らしい。大陸中を旅してきましたが、これほど清浄な湯は初めてです。長旅で凝り固まった魔力が、解きほぐされていく……」


 彼が湯から上がると、リュウさんが厨房から、シンプルなパンと、私の持参品だったハーブティーを差し出した。エルフの男性はパンを一口食べ、目を閉じる。


「……この宿は、湯だけではないのですね。このパンも、素朴ながら、噛みしめるほどに『火』の優しさを感じます」

「……」


 リュウさんは、相変わらず無言で厨房を磨いている。エルフの男性は、満足そうに頷くと、自分の荷物から小さな革袋を取り出した。


「私はしがない行商人でして、あいにく、人間の通貨はあまり持ち合わせておりません。代わりに、これで宿代となりませんか?」


 彼が袋から取り出したのは、真珠のように白く輝く、小さな木の実だった。


「これは『月露の実げつろのみ』と申します。極上の甘露ですが、一つ欠点がありまして……普通の火で加熱すると、その瞬間に灰になってしまうのです」


 なるほど。だから商品として流通しにくいのか。そう思った、次の瞬間。厨房を磨いていたはずのリュウさんの手が、ピタリと止まった。

 彼はエルフの男性の手にある「月露の実」を、紅蓮の瞳でじっと見つめている。


「……それを、よこせ」

「え?」

「……宿代として、それを受け取ろう」


 リュウさんはエルフの男性から「月露の実」を受け取ると、小さなフライパンに取り、コンロの火にかけた。

 私は慌てて「リュウさん! 灰になっちゃうって!」と叫んだが、彼は聞こえていないようだった。

 彼は、フライパンに手をかざすようにして、火力を調整している。いや、違う。彼は、コンロの火とは別に、自分の手のひらから、ごくごく微弱な、それでいて純度の高い「炎」を操っていた。それは、竜のブレスの万分の一にも満たない、神の火加減ゴッド・グリルの片鱗。


 白かった実は、数秒で美しい黄金色に変わり、芳醇で甘い香りを放ち始めた。  リュウさんはそれを、先ほどの残りのパンに、ジャムのように添えて差し出す。


 エルフの男性は、恐る恐るそれを口に運び……そして、翡翠の瞳を、これ以上ないほど見開いた。


「……馬鹿な。この実の『神髄』を、灰にせず引き出す炎が、この世に存在したとは……!」


 エルフの男性は、震える手でリュウさんを見た。


「あなた様は……一体、何者ですかな?」

「……ただの料理人だ」


 リュウさんはそう言うと、また厨房の片付けに戻ってしまった。


「は、はは……! 参りました。聖女様の清浄な湯と、謎多き料理人様の絶品料理。ここは、間違いなく『聖域』だ」


 エルフの男性は心底満足したように笑うと、「この恩は、必ずや良質な『交易』でお返しいたしましょう」と約束し、宿を去っていった。


 私は、リュウさんの背中を見つめた。

 やっぱり、彼には《赤い糸》は見えない。でも、私にはわかる。私の「役立たずの浄化」と、彼の「規格外の料理」があれば……二人一緒なら、ここで、運命なんかよりもずっと温かい、何かを始められる。私は、新しくできた菜園に水をやりながら、そんな希望に胸を膨らませていた。

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