第08話 イシューアナリシス
「じゃ、イシューアナリシスやろっか。ホワイトボード使って」
あおいさんが、ボクにペンを渡してくる。
「……ボクが書くんですか?」
「そうよ。トレーニングも兼ねてね。失敗は成長の糧だけど、今回は短期間だからクライアント前での失敗はあんまりしたくない。インターナルなら私から罵倒されるだけだから、なんてことはないでしょ?」
インターナル(社内会議)でも、罵倒されたらボクのココロはズタボロになっちゃうんですが……。
でも、やるしかない。言われるがままに立ち上がり、ホワイトボードの前へ向かった。キュキュっというペンの音が、狭い部屋に響く。
———
イシュー:帝國電機がアリジオ電子を買収する場合、いくらまで支払うのが妥当か?
そこから、枝分かれしていくサブイシュー。
1)アリジオ電子は単独で、どれだけの企業価値があるのか?(スタンドアローンバリュー)
2)買収によって、帝國電機・アリジオ電子それぞれが、どのようなシナジーを得られるのか?
3)どのようなリスクシナリオが考えられるか、その可能性と定量インパクトはどの程度か?
さらに、サブイシューをサブ・サブ・イシューへと分解していく。
1−1)確からしい成長モデルを踏まえ、NPV(Net Present Value:将来のビジネス成長を現在の価値に換算したもの)はいくらか?
1−2)昨年度の調整EBITDAに業界マルチプルを掛けた企業価格はいくらか?
1−3)最近の似たようなM&A案件や上場企業の株価から類推される企業価格はいくらか?
1−4)バランスシート上の価値(簿価)はどの程度か?
———
「うん、分解の仕方は悪くないわよ」
今回のプロジェクトで主に時間を使うのは、1−1)、と2)、そして3)だ。これらについては、5段階目までイシュー分解したうえで、企業価値算定に影響が少なそうなイシューは削っていく。
あおいさんと議論しながら、イシューの優先順位付けを行った。当面、力を入れて明らかにすべきイシューが合意できた。
「仮説も立ててねー」
あおいさんの声に促されながら、仮説を書き込んでいく。
・アリジオ電子の成長は一部の顧客に依存しており、持続性に課題あり
・技術力は高いが、営業面に脆弱性がある
・CFOが亡くなったことで、財務経理の運営に支障が出る可能性がある
……
そして、それぞれの仮説を証明するための分析やインタビューなどを設計し、情報ソースを特定し、スケジュールへ落とし込む。この一連の流れが、イシューアナリシスと呼ばれるものだ。
実は恥ずかしながら、ボクがこんなにちゃんとイシューアナリシスをしたのは、入社直後の研修以来だ。研修でやるのと違って、実践でやるのは臨場感や緊張感があり、学びが大きい。口調はときどき厳しいけど、あおいさんのプロジェクトに志願してよかった、と本当に思う。
時計を見ると、まだ朝の10時を少し回ったところだった。ホワイトボードにはすでに、文字の枝葉がぎっしりと広がっている。
たった二人しかいない、薄暗い小さな会議室。 でもそこには、思考を突き詰めたあとの静かで淡い熱が残っていた。 脳の奥にも、じんわりと熱がこもっている。不思議な心地良さがあった。
達成感に包まれながらホワイトボードの文字をボーッと眺めていたら、緑の液体を口から垂らした高森CFOの映像記憶が勝手に再生され始めた。そして考えるより先に、口から言葉が出ていた。
「……あれ?これ、事件解明にも使えそうですね」
あおいさんが、ハッとしながらこちらを見る。
「ん?今なんて言った?」
「あ、いやなんでもないです。ちょっと関係ないことを思いついただけで……」
「いや、言ってみて。思ったことを言わないほうが、くだらないことを言うより罪だよ」
あおいさんの目は真剣だ。
「わかりました……。高森CFOの死の真相、イシューアナリシスで整理できるかもって」
あおいさんは少し黙ったあと、立ち上がって予備のホワイトボードの前に立った。
「それ、いい発想かもしれない。イシューを定義すると?」
「高森忠雄は、自殺だったのか、他殺だったのか?他殺の場合は、誰がどうやって殺したのか?」
「いい問いね」
その下に、事件の情報が枝のように広がっていく。
・役員室で死体が発見される。第一発見者は、おそらくあおいと颯真
・口から緑色の液体を出して、ソファーに横になっていた。左手のシャツがまくりあげられていた
・前日の夜9時までは、Zoom会議に出席していた(死亡はその後)
・部屋は整然としていた。強盗である可能性は低い?
・警察からは、本件に関する公式な発表はない
「仮説は?」
「なにか悩みがあっての自殺。もしくは——」
「アリジオ社員に殺害された、ね」
あおいさんは短くそう言って、ホワイトボードのペンを静かに置いた。
しばらく沈黙が流れた。10時30分にセットされたアラームで、デューデリプロジェクトに頭が引き戻される。
「これからまた野中さんに会うのか……やだな」
思わずボクがこぼすと、あおいさんはにやりと笑った。
「そう言ってるうちは、まだまだ新人。誰と向き合うかじゃなくて、どう向き合うかを選択するのがプロのコンサルタントよ」
11時開始のミーティングのため、再び帝國電機へ向かう。あの赤茶色のマホガニーテーブルが待っていると思うと、胃の奥がきゅっと縮んだ。
ボクはまだ、コンサルタントとしては半人前だ。
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