第4話 ︰ 理屈と気持ちの交差点


 月曜の放課後、いつもの会議室。

 机の上には、ほのかの書いた「恋愛感情データシート」が山積みになっていた。

 グラフ、数値、コメント――完璧に整えられた資料。


 「白石、これ……本気でやってたんだな」

 プリントを覗き込みながら、黒川蒼真が感嘆の息を漏らした。

 「当たり前でしょ。研究なんだから」

 「でも、心拍とか笑顔の回数とか、ここまで細かく……」

 「“恋愛を科学する”ってそういうことよ」


 淡々と話すほのかに、蒼真は小さく笑った。

 「……なんか、白石らしいな」


 その言葉に、ほんの少し胸が温かくなる。

 けれど、それを顔に出すのはまだ早い――ほのかはそう思っていた。


 ---


 しかし、そんな空気が崩れたのは、そのすぐ後だった。


 「で、次のテーマなんだけどさ」

 蒼真がノートパソコンを閉じながら言った。

 「“好き”の瞬間を、映像で再現してみようぜ」

 「……映像?」

 「実験記録をまとめるだけじゃつまんないし。

 文化祭の演し物で“恋愛心理研究”として上映すれば、絶対ウケる」

 「文化祭に出すって……聞いてないわよ」

 「今、思いついた」


 その軽さに、ほのかの眉がぴくりと動く。

 「黒川くん、それ、研究を“見せもの”にするってこと?」

 「いや、真面目にやるけどさ。みんなが楽しめた方が良くない?」

 「研究は遊びじゃないの!」


 いつになく強い口調。

 部屋の空気が一瞬、凍りついた。


 「……そんなに怒んなくても」

 「怒ってるわけじゃない。ただ、私は――」

 ほのかは息を詰まらせた。

 何かを言いかけて、やめる。


 「“好き”って、そんな軽いテーマじゃないの」


 ---


 そのあと、空気は最悪だった。

 蒼真は不満げにノートを閉じ、

 ほのかは無言でデータを整理し続けた。


 机の間に沈黙が流れる。

 聞こえるのは、壁の時計の音だけ。


 「なぁ、白石」

 「……なに」

 「お前、怖いんだろ」

 その言葉に、指が止まった。

 「……なにが?」

 「“好き”になること。

 理屈で説明できないことに、踏み込むのが怖い」


 図星だった。

 けれど、認めたくなかった。


 「そんな単純な話じゃないわ」

 「単純だよ。俺はさ――」

 蒼真はゆっくり、彼女を見つめた。

 「俺はもう、実験じゃなくて“恋”してる」


 ――息が止まる。


 「な、何を言って……」

 「データとか、理屈とかどうでもいい。

 白石と一緒にいると楽しい。それが“好き”だろ?」


 頭では理解できるのに、心が追いつかない。

 ほのかの胸が痛む。


 「……そんなの、証明できない」

「証明なんか、いらない」

「いるの! だって、根拠がなきゃ不安になるじゃない!」


 声が震える。

 蒼真が一歩近づく。


 「白石、俺の顔見て言ってみろよ」

 「やめて……」

 「“証明できなきゃ好きじゃない”って、本気で思ってんのか?」


 ――そのとき。


 ぱしん、と乾いた音が響いた。

 ほのかの手が、彼の腕を叩いていた。

 強くはない。でも、確かに拒絶の動きだった。


 「……もう帰って」


 震える声でそう言い、ほのかは背を向けた。

 蒼真は何も言わず、静かにドアを閉めた。


 ---


 その夜。

 ベッドの上で、ほのかはノートを開いていた。


 ページの端には、彼と過ごした“実験データ”が並んでいる。

 心拍数、笑顔の回数、接触距離――。

 どれも数値でしかないのに、見ていると胸が痛い。


 > **観察記録④:**

 > 被験者Bが感情的発言。

 > 内容:“恋愛感情の自覚”。

 > 自身の反応:動揺、混乱、涙。

 > 結果:感情の数値化は困難。


 ペン先が震え、インクが滲む。

 ぽたり、と一滴。

 それが涙だと気づいたのは、次の瞬間だった。


 「……証明、なんてできるわけないじゃない」


 声に出してみると、少しだけ心が軽くなった。


 ---


 翌朝。

 教室の扉を開けると、いつも通りの喧騒。

 けれど蒼真の姿はなかった。


 昼休みになっても、放課後になっても現れない。

 気づけば、胸の奥がざわついていた。


 「どうして、いないのよ……」

 つぶやいた声が、空席に落ちた。


 ---


 その夜、スマホが震えた。

 メッセージの送り主は――黒川蒼真。


 > 「明日、屋上で話せる?」


 ほのかはしばらく画面を見つめたあと、

 ゆっくりと“OK”のスタンプを押した。


 明日、何を言えばいいのかわからない。

 でも、逃げちゃいけない気がした。


 “理屈”じゃなく、“気持ち”で答えたい。

 そう思っている自分に、少し驚いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る