第8話 近すぎる距離の違和感
水瀬 悠斗は、広報室での出来事以来、写真に対する集中力を欠いていた。桐谷 隼人の冷たい視線と、「会長を不安に陥れる存在」という言葉が、頭の中で残像のようにちらつく。彼は、自分が怜奈会長の完璧な世界を乱す可能性がある、という事実に、ゾクゾクするような興奮と、それに勝る罪悪感を覚えていた。
「どうすれば、あの会長の三脚を外し、本心を引き出せる写真が撮れる?」
悠斗は自宅の部屋で、昨日撮った怜奈会長の遠景写真をパソコンで拡大して見ていた。写っているのは、生徒会室の窓越しに書類をチェックする、完璧に整った横顔。美しく、隙がなく、まるで高性能なマネキンのようだ。
「水瀬君の写真は、まだどこか安全な距離から見ている気がするわ」――一ノ瀬 桜の言葉が蘇る。
安全な距離。それは、悠斗自身が最も得意とし、最も安心できる場所だった。だが、隼人の挑戦に打ち勝つためには、この三脚を外し、被写体の内側に飛び込む覚悟が必要だった。
翌日、悠斗は葵と共に、学園最大のイベントである星城祭のポスターデザインの打ち合わせに参加するため、生徒会室へと向かった。
生徒会室には、怜奈会長と、桐谷隼人が既に書類の山に囲まれて作業していた。悠斗は、一歩生徒会室のドアをくぐるなり、隼人からの鋭い視線を感じ取った。それは、静かな牽制だった。
「水瀬君、星野さん、待っていたわ。ポスターデザインについて、私たちの案を聞いてもらえるかしら」
怜奈会長は、優雅に資料を差し出した。彼女の振る舞いは、いつも通り完璧で、悠斗とのあの秘密の会話など、なかったかのようだ。
打ち合わせ中、悠斗は写真家として、怜奈会長を徹底的に観察することにした。彼女の動作、書類を持つ指先、指示を出す時の声のトーン、そして、隼人に向ける信頼の視線。その全てが、彼女が背負う生徒会長という役割から一寸も外れていない。
しかし、悠斗は気づいた。怜奈会長は、時折、ペンを握る右手の親指を、わずかに震わせている。書類の山、そして隼人の完璧なサポート。その全てが、彼女を完璧な三脚に固定している。その三脚は、彼女の不安を隠すためのものだった。
「会長。ポスターの背景は、もっと手作りの熱気を表現できるような、教室の風景を入れてみてはどうでしょうか」悠斗は提案した。
隼人がすぐに反論する。「水瀬君。会長の理念は、学園の品格を保つことだ。雑然とした教室の風景はふさわしくない」
「いいのよ、桐谷君」怜奈会長は隼人を制し、悠斗に目を向けた。「水瀬君の言う通り、今年のテーマは『未来への扉』。品格だけでなく、そこへ向かう生徒たちの熱も必要だわ。あなたの提案、検討しましょう」
怜奈会長は、悠斗の提案を真っ向から否定しなかった。それは、彼女が悠斗の感性に、まだ期待を寄せている証拠だ。隼人の冷たい視線が、悠斗の背中に突き刺さったが、悠斗はむしろ、この緊張感を楽しむかのように、さらに一歩踏み込もうとした。
打ち合わせが終わり、帰り道。
「すごいね、悠斗!副会長の反対を押し切って、会長に認められるなんて!」葵は、興奮して悠斗の腕を軽く叩いた。
「俺はただ、より良い広報写真の提案をしただけだ」
「でも、会長、悠斗の言うこと、ちゃんと聞いてくれるよね。なんか、二人の間には、他の人には入れない空気があるみたい」
葵の言葉に、悠斗は違和感を感じた。葵はいつも通りの屈託のない笑顔だが、その言葉には、どこか探るような響きがあった。葵は、悠斗と怜奈会長の間の緊張感を、特別な関係として認識し始めているのかもしれない。
悠斗にとって、葵との距離は、空気のように近すぎる、安全な距離だった。しかし、怜奈会長という遠くの光を見つめ始めたことで、葵の近さが、急に重く、そして息苦しく感じ始めた。
「葵。お前は、俺の写真の相棒だ。これからも、最高の写真のために力を貸してくれ」悠斗は、あえて仕事のパートナーとしての言葉を選んだ。
葵は、一瞬だけ瞳の光を失いかけたが、すぐにいつもの明るさを取り戻した。
「もちろん!私は悠斗の最高の相棒だよ!一緒に最高の星城祭を撮ろう!」
彼女の言葉は明るかったが、悠斗の心には、葵の瞳に宿った一瞬の影が、三脚を外した時の会長の寂しさのように、深く刻み込まれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます