第13話
一日ぶりの視聴覚室は、違う部屋みたいに様変わりしていた。
窓際に大きくて真っ白なキャンバスがたてかけてある。その前でツナギを着た水野くんがあぐらをかいていた。そういえば、去年もこの時期になると水野くんは文化祭に向けて描き始めていた。木炭を持った水野くんの後ろにそっと立つ。
「昨日、お休みしちゃってごめん」
良くなったんやな、と水野くんは振り返らずに言った。滅多なことでメッセージをしてくるなと言われて連絡先を交換したから、水野くんには連絡してなかった。さっぱりした声が、やけに懐かしく感じた。
「それより、なんやあれ」
持っていた木炭で指す。
そこには、真剣な表情で紙束を持ち、ぶつぶつと呟く橘くんがいた。机の周りをぐるぐる歩いている。
「えっと…練習してもらってて…」
丁度、橘くんが突然座ってガタンと音がした。水野くんは「怖ぁ」と呟いて、キャンバスに向き直り、そのまま下書きを始めた。
集中すると少し猫背になる橘くんの背中を眺めると、まだ夢の中にいるような甘い気持ちになる。紙束の表紙には、『地球最後の日』と書いてある。僕が書いた脚本だ。
『僕の映画に出てください』
彼は、あの言葉を覚えていてくれた。
意識を失う直前、身体から押し出された僕の願いを、彼は受け止めてくれた。信じられないほどあっさりと。
どうして最近、こんなに恵まれているんだと思えるほど、幸せが積み重なっている。それらを恐る恐る抱きかかえているけれど、いつか大きなバチが当たっても仕方ないと思う。そのバツも、受け入れる。
「カントク、あのさ」
水野くんが振り向かず「かんとくぅ?」と呟く。いつもより絡んできて、ちょっと面白い。
なに?と聞くと脚本をめくって一文を指さした。「このモノローグが物語の核となるのか」と。
びっくりした。彼の感性は刃物のように鋭く、本質をついてた。頭の中で整理してひと呼吸置き、口を開く。
「そこは──」
彼の「カントク」は、まるで昔から用意されていたように、馴染んだ発音だった。その呼び名は、僕たちが監督と演者になる合図になった。
説明が終わると、ページのめくる音がする。今日渡したばかりなのに、その脚本は使い込んだように厚みを持っている。僕がずっと前から用意していた脚本を彼が熱心に読み込んでる姿は、輪郭が光って見えるほど特別だった。
本当に、これは現実なのか。
そっと手の甲をつねる。ちゃんと痛い。まだ不思議な心地の中にいるけど、これは現実だ。
視聴覚室が赤い夕日に染まる。木炭とキャンバスが擦れるシャッシャッという独特の音を聞きながら、彼を眺める。
今の僕たちは、それぞれの表現に立ち向かっている。
ただ生きるだけじゃない、表現を通して生きる。そうしないと、本当に生きられない人間がいる。僕と水野くんはそのタイプだった。だから性格が正反対でも、大の仲良しじゃなくても、通じるものがあった。
少し丸まった彼の背中を見つめる。モノローグひとつひとつに言葉を書き込む彼の姿は、長距離走者のようだ。演じることはきっと、表現の中でも複雑だ。けれど彼には空間を自分のものにする力が、すでに備わっている。それは、彼の武器になる。
ときめきとは違う、良い作品ができそうな期待で胸がはやる。ここから、本当に始まる。そう確信できる。
指で作ったフレームに、彼の後ろ姿を収める。彼の肘がフレームから出てしまう。こんなに近くで撮れたのは、今日が初めてだった。
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