第9話 ※
内側に入っている。
何かが、身体の奥にある。知らない、けれど生々しい感覚。自分の身体がどうなっているか、わからない。
目を開いた、つもりだった。目の前は一面乳白色で、どこにも自分の身体がない。なのに内側にある“何か”を感じる。
「ぁっ……」
“何か”が動く。思わず、声が漏れた。未知の感覚に戸惑う。その声は、自分のものじゃないように聞こえた。喉を通してない、空気の震えじゃない声だった。
「………っ!」
さらに奥の方へ、入ってくる。その“何か”は熱を持っている。僕の身体に熱が移る。溶けそうになる。もし今の僕に手足があったら、だらんと投げ出してる。余すとこなく、熱に支配される。
「はっ……んっ………」
その“何か”が、波のように引いては押す。速度が早まり、ぐずぐすになる。今度は、温かい手のようなもので胸のあたりを触られる。それが撫でるように動く。神経が、夜の森のようにざわめく。正体の分からない感覚ばかり高められる。どうすれば良いか、わからなかった。無性に、橘くんに会いたくなった。
彼の手は大きかった。骨ばった綺麗な手を、簡単に思い出せる。
「呼んだ?」
彼の声がした。
その瞬間、飛び起きた。
ドサッと音がした。それから右肩に硬いものが当たって、痛みが走る。
「いたっ………!」
恐る恐る目を開けると、床が見えた。僕はベッドから転がり落ちていた。右肩の痛みがジンジン広がる。ブランケットが足に絡まって、蓑虫みたいになっていた。天地が逆さになってる部屋を、ぼんやり見つめる。
ものすごい夢を見てしまった。
どんな、とも言えないけど、決して人には言えない夢。これは願望夢とか、そういう類いなのだろうか。だとしたら、いよいよ僕はダメになってる。まだ身体が熱い気がする。
「くしゅん!」
熱いのに、寒い。どうしたらいいんだ。仕方なく、のろのろとベッドに這い上がって、ブランケットを頭から被った。顔は熱を持っているのに、身体は底冷えする。震えが走る。
これは…と思い、ベッドボードに置いてあった体温計を脇に挟む。頭が重い。くたりと横になると、ピピッと音が鳴る。
「38.5度……」
声も掠れている。
母の「起きてるー?」という声がドアの向こうから聞こえた。階段を上がる音が聞こえてきてドアが開くと、母がひょいと顔を覗かせた。あら、と言われ、顔が引っ込んだ。小人みたいな仕草が母らしい。
トントンと階段を降りる足音を聞きながら、思い浮かんだのは彼の顔だった。
(橘くんは今日の部活、来るかな…)
僕がいない部室で、彼は何をするんだろう。
開いたままの扉をぼーっと眺める。一階で母の電話と、おじやを作る音がかすかに聞こえる。
(水野くんと二人きりだと、気まずいかな)
ぼんやりとそんな心配をする。
水野くんがツナギを着て油絵を描いてる横で橘くんが本を読んでる姿は、空間がずれたようにシュールだ。想像すると、ちょっと面白い。今思えば、僕たち三人は形の違う積み木たいな、不思議な組み合わせだった。
そもそも、橘くんはどうして部活に来るようになったんだろう。それも三年生になってから。
理由を、ずっと知りたかった。けれどそれを聞いたら、目に見えないバランスで成り立っている今が崩れてしまう気がした。彼が居ないのが当たり前だったのに、今は居ることが普通になってる。ブランケットを引き寄せた。
橘くんに、ずっと言いそびれている事がある。
何度も伝えようとして、できなかった。チャンスは、いくらでもあったのに。ずっと逃している。僕は、いつも上手くできない。身体を丸めると、ドアが開く音がした。
「お休みの連絡しといたわよー」
良い匂いがする。母がおじやと冷却シートをお盆の上にのせてやってきた。ちゃきちゃき動く母に、ありがとうと言うと、じっと顔を見られた。
「あんた最近、忙しそうだったもんね」
そう言いながらペリペリと冷却シートを剥がして、僕のおでこに貼る。ひんやりして気持ちいい。
「寝たら色んなこと、良くなってるわよ」
そうかな、そうなるといいな。うん、と頷くと母は膝を叩いてから立ち上がった。去り際に、なんかあったら呼んでと言って扉を閉めた。白くて黄色いおじやはつやつやしていて、美味しそうだった。それだけで、心強かった。
湯気の立つおじやを掬って、冷めるまで少しの間眺めていた。
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