第8話 初めて
「遅い」
真李がドアの前で腕を組んで待っていた。
「お父さんと話し込みすぎ。遅刻するじゃん」
先に学校へ向かったとばかり思っていたから心底驚いた。有紀さんの言うとおり、本当に真李は弱くないのだろう。せめて距離を取って歩こうと思い、僕は真李のことも待たずに歩き始めた。携帯電話をちらっと見た。八時二五分。早歩きでも十分に間に合う。
「ねえ待ってよ」
「待たない」
間髪入れずに答える。
「ねえってば!」
真李が勢いよく僕の右手を掴んだ。その反動で僕は体勢を崩してしまって、ついでに真李もふらついてしまった。転びかける真李の手を引っ張って何とか切り抜けたものの、真李と抱きしめ合うような姿勢になって少し取り乱す。
「危ないだろ」
彼女の手を振り払って僕は再び歩き始めた。
「篝が私を無視するからでしょ」
「無視はしてない。待たないって答えたし」
「そういうことじゃなくて!」
真李が走って僕を追い越す。通さないと言うばかりに真李が僕の目の前に立ちはだかる。避けて歩こうと思っても真李が鏡のように着いてくるから意味がない。
「退いてくれなきゃ学校に行けない」
僕は素っ気なく返した。
「篝がちゃんと話してくれるまで学校に行かない」
勝手で奔放な真李の性格が昨日僕の心をこじ開けたみたいに、今も僕の中へ入り込もうする。
「何を」
澄み渡った彼女の焦茶色の瞳から目を逸らす。
やめろ、僕を見るな。見透かすな。
「なんで避けんの? 今更篝のこと見て気持ち悪いなんて思わないよ」
「へえ、それは良かった」
適当に返事をしている隙に真李を通り越して歩みを続けた。
「そうやって誰かが入ってきたらすぐに追い出そうとしてさ。変わることが怖いんでしょ」
それはそうだ。でもそれが理由ではない。
「ねえ篝ってば! せっかく昨日初めて話せたのに……」
真李の声が小さくなる。学校の正門が見えてきたが、門を閉めようとする保健室の先生が見えて慌てて振り返った。
「おい遅刻するぞ」
真李の腕を掴んで走り始めた。僕のせいで遅刻なんて冗談じゃない。僕だってこんなくだらない理由で皆勤賞を逃すのはごめんだ。
「ちょ、ちょっと篝⁉︎」
「ここで遅れたら皆勤じゃなくなるんだよ、付き合えよ」
正門が閉められ始めた頃に僕らはぎりぎり通り抜けた。なぜ二年生の教室は三階なんだと恨みながら階段を駆け上る。二人で教室に滑り込んだときにちょうどチャイムが鳴った。
「何とか間に合ったな」
真李の手を離して席に着く。真李はまだぜえぜえ言いながら引き戸の前で心拍を落ち着かせていた。まだ一二月になったばかりなのに汗だくな真李と僕は完全に浮いていた。
「大丈夫?」
隣の席の男子が僕に声をかけてくれた。
「大丈夫、皆勤は守った」
「伊月皆勤なのかよ」
ふはっと吹き出す彼が何だか嬉しくて僕は少し口元を緩めた。
「ごめん、名前なんだっけ」
四月にクラス全員で自己紹介はしたけれど、全く記憶にない。
「おれは渡良瀬春臣! 春とか臣とか呼ばれてるから好きなように呼んで」
「じゃあ臣って呼ぼうかな。臣も僕のことは篝で良いよ」
ハルという音は父の名前の隼の音に似ていて少し抵抗があった。
「なんか篝って話しかけちゃだめなのかと思ってた」
「何でだよ」
いつの日か焦がれた他愛もない会話が楽しかった。今だけは自分のことが僅かに赦せる気がした。
「いつも暗そうだし、誰かが話しかけてもすぐに会話終わらせちまうだろ」
確かに今まではそうだったかもしれない。
「悪かったな、会話が下手クソで」
「違えよ、篝と話せて良かったって話じゃん。髪も短くなってさっぱりしたみてえだし」
ずっと見られていたから変に思われてるのかと思っていたが、臣は素直らしい。
「つーかずっと思ってたけど篝って外国の血入ってんの?」
純粋に疑問に思ったような面持ちで臣は僕の青緑とヘーゼル色の瞳をじっと見据えた。
「……入ってるよ」
ああ、昨日真李に甘やかされてしまったせいで、正直に答えてしまった。臣に何と言われるのだろう。また昔のように『可笑しい』と嗤われるのだろうか。
「何だよ、かっけえじゃん! 唯一無二ってすげえ羨ましい!」
屈託のない笑顔で僕にそう言った。僕を受け入れてくれるのは有紀さんや真李だけではないんだ。良かった。
「そうか? 変だろ」
僕はどこまでもしょうがない奴だ。臣の言葉が嬉しかったのに、目を逸らしてクソったれな対応しかできない。
「いやいや、その瞳と髪の色、最高じゃんか」
臣はぐっと親指を立てて目尻を優しそうに垂れさせた。人懐っこそうで誰にでも好かれそうな臣の笑顔がきらきらと輝いて見える。昨日から僕のことをまるっと受け入れてくれるような人ばかりでバツが悪くなってくる。
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