第38話 桜精院市政議会、始動す
桜精院の二階、いちばん奥の大講義室は、いつもとまるで違う顔をしていた。
長机は一直線ではなく、馬蹄形に組まれている。中央には一段だけ高い席。窓際には、水差しと紙束と、使い慣れた帳簿板。壁にはサクラリーヴ全体図と、森緩衝帯と新開拓地を描いた最新の地図。
黒板のいちばん上には、大きな文字でこう書かれていた。
《サクラリーヴ市政議会 第一回》
「……本当に、やるんだな」
アストが、まだ誰も座っていない椅子の列を見渡して呟いた。
ユーマは、黒板の前でチョークを指先で転がしながら、苦笑する。
「ここまでやって“やっぱやめました”は、さすがに怒られるよ」
「怒る奴がいるってこと自体、昔じゃ考えられなかったことだがな」
アストの言葉に、ユーマも笑った。
村だった頃には、怒る余裕さえなかった。
今日を生き延びるか、今夜の壁が抜かれないか。それだけが全てだった世界が、いつの間にか「税が高い」「仕事が忙しい」と愚痴をこぼせる世界に変わっている。
(……そうさせたのは、結局、俺のやったことなんだけど)
胸の奥で苦く笑いつつ、ユーマは黒板の下へ、新しく一行を書き足した。
《議長:井上優馬(議決権なし)》
扉の外が少し騒がしくなった。
人の声、布の擦れる音、紙束のぶつかる小さな音。
「そろそろ、だな」
アストが扉のほうを見やる。
「今日の議題は三つだ。森開拓一期計画、水産業立ち上げ、平均労働賃金の正式決定」
「……全部重いな」
「軽い話だけなら、議会なんていらないでしょ」
ユーマは笑って、チョークを置いた。
◆
最初に入ってきたのは、六大局の面々だった。
ガルド・ストライヴ――治安防衛局長。いつもの革鎧ではなく、深い灰色の上衣に簡素な肩章をつけている。それでも、背に負った斧の柄が“彼らしさ”を崩さない。
ミレイ・カンデラ――都市開発局長。測量紐と折り畳みの定規を手から離そうとしないあたり、今日も通常運転だ。
エシル・ルミナ――経済産業局長。巫女服の上から、淡い色の上着。首元には桜精院の印と商会の印が並ぶ小さな飾り紐。
リナ・ハーベル――福祉医療局長。白衣に紺のエプロン。手にはカルテではなく、街の健康統計をまとめたメモ板。
ノエル・カーン――財務総務局長。抱えた帳簿が二冊から三冊に増えていた。すでに目の下にうっすらと隈がある。
「局長席はこちらです」
アストが淡々と案内する。
馬蹄形の列の、中央に近い側。
六人が順に腰掛けると、それだけで空気の重さが変わった。
次に入ってきたのは、職人や地区の代表者たちだ。
フォージベル区の鍛冶長、ブランカ・ドゥルン。分厚い腕を組んで席に収まる。ミルクグラス区のパン職人代表、ベレッタ。粉のついた前掛けのままだが、髪だけはきちんと結い上げている。
牧草地と畑を兼ねる農家代表、マーク。水路沿いの舟持ち代表、カイン。市場の露店組合の世話役、マリル・オルド。小さな商会を束ねる顔ぶれが、次々と着席する。
東西南北、四つの地区代表も入ってきた。かつては別の村だった場所の“まとめ役”が、今はこの街の一部としてここに座る。
桜精院からは、ユーマとは別に、学識枠として老教授シグムントが招かれていた。読み書き計算と歴史を教える老人だ。
最後に、民兵代表として、若い男――オルテが席に着く。森の際で育った斥候上がり。目は若いが、森編を通して何度も死地を見てきた顔だった。
全員が揃うと、部屋のざわめきが自然と細くなっていく。
「これで、十五名揃ったな」
アストが確認する。
ユーマは頷き、一歩前へ出た。
◆
「それでは――」
チョークを指先で転がしながら、ユーマは黒板の「第一回」の文字を見上げる。
「サクラリーヴ市政議会、第一回を開会します」
椅子が僅かに鳴る。誰かの喉が鳴る音も聞こえた。
「議長は私、井上優馬。ただし、私は議決権を持ちません。
ここで決められたことを、最終的に承認するか差し戻すか、
非常時に一時停止するかどうか、その責任だけを負います」
ざわめきが広がりかけたところで、ユーマは続けた。
「理由は簡単です。――皆さんに、“自分たちで決めた”という実感を持ってほしいからです」
職人代表の一人が、苦笑混じりに手を挙げた。
「決めてくれる人がいた方が楽じゃねえかい?」
「楽です。でも、それだと私が倒れたとき、全部止まります」
数日前の、自分の倒れ方を思い出し、ユーマは内心苦くなる。
福祉医療局長リナが、ちらりとこちらを睨んだ。体を使い潰されるのは、医者として我慢ならないのだろう。
「この街は、もう私ひとりの街ではありません。
だから、皆さんに“手”を増やしてもらう。
今日はその最初の日です」
短く息を整え、黒板に三つの丸を描いた。
「本日の議題は、三つ。
一つ、『森開拓一期計画』の承認と、都市開発局への委任範囲。
二つ、『水産業立ち上げ』に伴う港湾区画と市場整備。
三つ、『平均労働賃金+安全手当』の正式決定と財源。
――順に、局長から案を出してもらい、市政議会として議決します」
静けさが、今度は良い重さを帯びて広がった。
◆
「では第一議題、『森開拓一期計画』について」
ユーマがそう告げると、ミレイが立ち上がった。
机の上には、折り畳み式の地図が何枚も広げられる。
「都市開発局長、ミレイ・カンデラです」
彼女は軽く礼をし、指先で地図を叩く。
「森の主と交わした約束に基づき、保護林六割、人の開拓地四割。
そのうち第一期で手をつけるのは、“森緩衝帯の外側に近い二割”のみ」
地図の桜色の帯の外に、薄い線がいくつも描かれている。
「ここを、三つに分けます。
一つ目、『新住宅区』。森側風下の緩やかな斜面に小さな家を並べる。水路に近く、避難路も確保。
二つ目、『工房・伐採区』。鍛冶用の炭焼き窯と、製材所。保護林に踏み込みすぎない範囲で伐採。
三つ目、『共同牧草・果樹帯』。森側からの風を和らげる帯としても機能するエリア。
全部まとめて“森前(もりさき)地区”と呼びます」
ブランカが腕を組んだまま、唸る。
「炭焼き窯を森側に持って行くのか。火事の危険は?」
「窯ごとに水路から引いた小さな溝を作るわ。火床の周りを“濡れた輪”で囲んでおけば、万が一の時も広がりづらい」
ミレイは淡々と答える。
「それに、ここに住む家は石積みを基本にする。
木の家はもう少し内側。火が出ても“燃え広がりにくい配置”にするつもり」
農家代表のマークが手を挙げた。
「森前の果樹帯、土は痩せちゃいないか?」
「ユーマ」
問われて、ミレイはユーマを見る。
ユーマは地図に書き込まれた土質メモを確認しながら答えた。
「森の主が引いてくれた力の線と、元々の土壌を見る限り、
最初の数年は収量が安定しないと思う。でも、循環耕作を組み合わせれば、五年以内に“街側の畑”より丈夫になる」
「五年、か」
マークは帽子をいじりながら唸ったが、やがて頷いた。
「……まぁ、子や孫の代で食える土になるなら、悪くねえ」
別の地区代表が手を挙げる。
「保護林六割って話だが、その線を誰が見張る?」
「治安防衛局と都市開発局で共同管理します」
今度はガルドが立った。
「境界線上に見張り小屋を三つ。斥候と森側に住むエルフ・ドライアドからなる“森境界班”を常駐させる。伐採も、境界班に申請してから行う」
「森側の意見は?」
「代表エルフのセレスからは、『線は見えるようにしてほしい』と条件が来ている」
ミレイが補足した。
「だから、境界線には“桜と灯”を一定間隔で置くわ。
森から見ても街から見ても、『ここから先は別の領域』ってわかるように」
議場が静かになった。
森と街のあいだに引かれた線を、何度も地図で見てきたはずなのに、こうして改めて“開発計画”として聞くと、重さが違って聞こえる。
ユーマはまとめる。
「――第一期開拓は、森前地区の二割のみ。
保護林六割の線は尊重し、境界管理は治安防衛局と都市開発局の共同。
異論のある方は?」
しばし、沈黙。
やがて、ベレッタが手を挙げた。
「異論ってわけじゃないけど……私ら、森で遊んでた子どもだからさ。
森が減るの、ちょっと寂しいな」
その言葉に、何人かが笑った。
ユーマも微笑む。
「だからこそ、六割守るんだよ。
全部畑や工房にしてしまったら、たぶん十年後に“森のありがたみ”を忘れて、同じ過ちをする」
エシルが静かに続ける。
「森の主とも、“森は森として残す。そこから出た恵みだけを人が使う”と約束しました。
六割の森は、街の目と税と祈りで“守られる側”でもあるんです」
「……贅沢な話だな」
誰かがぽつりと呟く。
魔物と飢えに怯えながら森と向き合っていた昔を思えば、信じられないほど。
「それでは、第一議題に賛成の方」
ユーマの声。
机の上に置かれた小さな木札が、次々と裏返されていく。
表が赤、裏が白。赤が賛成、白が反対だ。
白は、一枚もなかった。
◆
「第二議題、『水産業立ち上げ』について。経済産業局長、エシル」
「はい」
エシルは立ち上がり、別の地図を広げた。
水路と河口、その先の大河。新しい港を作る予定地に、いくつも印がついている。
「森の静まりと入れ替わるように、水が豊かになりました。
森緩衝帯から流れてくる水と、大河とが交わる場所に、小さな“内湾”ができます」
そこには、簡単な桟橋と、いくつもの小舟の絵が描かれていた。
「ここを“魚港(ぎょこう)”と呼びましょう。
当面は小舟と網漁のみ。大規模な船の建造はまだ先です。
魚港の脇に、『水産市場』を置きます。
朝獲れの魚を並べ、昼には干物にし、夜には酒場で出す。
そこから税を取り、漁師と市場と酒場に分ける仕組みです」
舟持ち代表のカインが、身を乗り出す。
「潮と川の流れ、ちゃんと見てんだろうな?」
「もちろんです。水路の専門家でもあるカインさんには、後で個別に相談させてください」
エシルは微笑み、続けた。
「水産業立ち上げにともなう問題は、大きく三つ。
一つ目、“漁協(ぎょきょう)”の設立。
漁師同士の争いを避けるため、日ごとの出舟数、網の位置、獲れた魚の分配を決める組合が必要です。
二つ目、冷却設備。
氷室の建設と、森側からの氷の運搬路。夏場の腐敗を防ぐための魔法冷却石の導入も検討します。
三つ目、水路の汚染。
魚港から上流の工房区には、“汚水処理用の小さな池”をいくつか作る。
薬草加工や染物の廃液を、直接川に流さないようにする必要があります」
ブランカが眉をひそめた。
「汚水処理、ってのは、つまり……今まで通りに流すと魚が死ぬってことか」
「はい。今までは規模が小さかったから、川が飲み込んでくれていましたが、これからはそうもいきません。
“汚す側”と“獲る側”が争わないよう、最初から仕組みを作っておきたい」
農家代表が手を挙げる。
「漁港と市場を作るってことは、肉より魚の方が安くなるか?」
「当面は、同じくらいになるでしょう」
エシルは即答した。
「ただし、保存がうまくいくようになれば、冬場の栄養源として“魚のほうが頼りになる”季節も出てきます。
森の獣が減っても、魚がある。森に頼り過ぎないための、一つの柱です」
ユーマは、静かに頷いていた。
(森が静まり、獣が減る。代わりに水が増える。
だったら、水のほうを“太らせる”しかない)
前世の帳簿で何度も見た数字が、頭をよぎる。
栄養不足、病気、冬の死亡率。森編を越えてここまで来た意味を、数字で見落とさないために。
「水産市場で働く者には、“安全手当”をつけます。
水辺での事故、冷えによる病気、舟の転覆――森とは違う危険がありますから。
その分の税を、どこから――という話は、次の議題で」
エシルが言い終えると、舟持ちたちの列から、小さな歓声が上がった。
彼らにとって、水が“ただの通り道”ではなく“主のひとつ”になるのだ。
「第二議題、『水産業立ち上げ』案に賛成の方」
今度も、木札が次々とひっくり返される。
赤が並び、白は――一枚だけ、ゆっくりと返された。
白を出したのは、東の地区代表だった。
年配の男。かつて川の氾濫で家を流されたことのある男だ。
「反対ってほどじゃねえが……怖えんだよ」
男は頭を掻いた。
「川は、昔、人を攫っていった。
今だって、雨の季節には水が増える。
そこに“港”なんて作って、大丈夫なのかってさ」
ユーマは頷いた。
「怖いと思ってくれるのは、大事なことです。
だからこそ、港と水路を“都市開発局と治安防衛局の管理下”に置く。
勝手に桟橋を伸ばしたり、勝手に舟を増やしたりできないようにします」
ミレイが続ける。
「堤と水門も一緒に造るわ。
魚が獲れるようになっても、人が流されるようになったら意味がないもの」
ガルドも、短く言葉を添えた。
「水辺の見回りに、民兵ではなく桜盾を優先的に置く。
最初のうちは、俺も毎日見る」
東地区代表は、しばらく唸っていたが、やがて木札をくるりと指で回し、赤を上にした。
「……わかった。怖えってのは、見てるってことだ。
見張ってくれるってんなら、任せる」
ユーマは、胸の奥に小さく息を吸い込んだ。
不満や恐れを押し潰すのではなく、“見ていること”として残す。
それが、議会のある街のやり方だ。
◆
「第三議題、『平均労働賃金+安全手当』について。
財務総務局長、ノエル」
「は、はい!」
ノエルは勢いよく立ち上がり、帳簿をばさりと開いた。
そこには細かい数字がびっしりと並んでいる。
「ええと……まず、“平均労働賃金”のおさらいから。
サクラリーヴでは、すべての仕事について、
“危険度・労働時間・労働環境”の三つを基準に、賃金を決めます。
基準となる“平均労働賃金”は、一日八時間、通常環境、危険度低の仕事で――」
ノエルは黒板に数字を書いた。
「『一日・桜銀貨一枚』とします」
ざわめきが走る。
今までは職種ごとのバラつきが大きく、日払いの額も「だいたいこのくらい」で決まっていた。
それが“平均”という形で固定されることに、皆少し驚いている。
「危険度中の仕事――例えば、水路工事、森前の伐採、港の建設現場、夜間見回りなどには、“安全手当”として二割加算。
危険度高――森境界線の斥候、魔物討伐、重度の感染症患者の看護などには、五割加算。
逆に、危険度が低く、短時間の仕事は“平均賃金の七〜八割”に設定します」
ブランカが手を挙げた。
「鍛冶場は?」
「高温環境ですが、治安防衛局の規定に従って防具や休憩が確保されている場合、“中”扱い。
長時間の連続作業は禁止。福祉医療局の指示も合わせて、交代制を義務づけます」
リナが頷き、メモを取る。
「子どもの仕事は?」
ベレッタが訊ねた。
「子どもは“仕事”ではなく、“学び”と“手伝い”です」
ユーマが口を挟んだ。
「正式な労働として扱うのは、十五歳から。
それまでは、“仕事のふりをした搾取”と疑われたら、福祉医療局と市警が介入します」
「ひえぇ……」
誰かの小さな声に、笑いが起きた。
ノエルは続ける。
「平均賃金を決めることで、税収も安定します。
“働きすぎる人”を見つけることも簡単になりますし、
安全手当の支出も予算に組み込みやすくなります」
「財源は?」
老教授シグムントが、静かに問うた。
「森開拓と水産業を含めた“新しい収益源”から、二割を“安全基金”に回します。
それとは別に、既存の市場環境税と治安維持税の内訳を見直し、
“見栄えのための飾り”を一部削ります」
ノエルは苦笑しながら続ける。
「派手な看板や、必要以上に大きな建物を“税で支える”のはやめましょう。
その分を、現場の安全と賃金に回したほうが、長い目で見て得です」
職人代表のひとりが、眉を上げた。
「派手な看板がなくなるのは寂しいが……まぁ、飢えずに済むなら我慢するか」
「完全になくすわけではありません。
祭りのときや、特別な日の飾りは、教育文化局の“祭り予算”からも出せます」
ユーマが補足する。
祭りは贅沢ではなく、街の空気を保つための“必要な浪費”だ。
民兵代表オルテが、躊躇いがちに手を挙げた。
「平均賃金が決まるってことは……俺たち民兵が“兵士一本で食っていける”日は、まだ先ってことか?」
ユーマは真っ直ぐに彼を見る。
「“兵士一本”で食べさせるには、この街はまだ小さすぎる。
今は、皆に“二つの足”を持ってほしい。
ひとつは、自分の仕事――鍛冶でも、農業でも、舟でも、店でも。
もうひとつは、民兵としての足。
有事にだけ大きく踏み出す足だ。
平均賃金制度は、その二つを両立させるためのものでもある。
片方だけに頼り切るのは、今の規模では危険だからね」
オルテは少し肩を落としたが、やがて頷いた。
「……わかった。二つの足、か」
ユーマは、心の中で言葉を足す。
(いずれ、“兵士一本”で食べていける者を増やす時期が来る。
その時には、この街はきっと今よりずっと大きくなっているはずだ)
ノエルがとどめを刺すように言った。
「平均賃金と安全手当は、“街の約束”です。
誰かが一方的に買い叩かれたり、危険な仕事だけを押しつけられたりしないようにするためのもの。
ごまかしや嘘は、全部“数字”に出ます。
私は、それを見る仕事です」
議場の空気に、小さな笑いと安心が混ざった。
「第三議題、『平均労働賃金+安全手当』案に賛成の方」
木札がまた、ひっくり返る。
今度も、赤がほとんど。
白は――一枚だけ、ぐるぐると回った末、赤側で止まった。
「……まぁ、やってみなきゃわかんねえ」
そう呟いたのは、露店組合のマリルだった。
沸き上がった笑いに紛れ、ユーマはほっと息を吐く。
◆
三つの議題が終わったとき、窓の外の空はすでに傾き始めていた。
部屋の空気は疲れていたが、沈んではいなかった。
「以上で、本日の議題は終了です」
ユーマが宣言する。
「本日決まったことは、今週中に“市政だより”としてまとめ、桜精院の掲示板と各区の井戸端に掲示します。
異論や提案があれば、六大局または市政議会宛に書状を」
職人代表のひとりが、苦笑して言った。
「字が書けねえ奴は?」
「口で言ってくれれば、桜精院で書きます。無料で」
ユーマが答えると、笑いの輪がもう一度広がった。
「では――」
彼は黒板の「第一回」の文字を見上げる。
そして、はっきりと告げた。
「サクラリーヴ市政議会、第一回を閉会します」
椅子が一斉に鳴った。
皆が立ち上がり、紙と地図を抱え、互いに何かを話しながら部屋を出ていく。
ガルドはすでに、治安防衛局の部下と細かい巡回路の修正について話し始めている。
ミレイは大工たちを捕まえて、港と新住宅区の地ならしについて打ち合わせをしている。
エシルの周りには、商人と漁師と工房主が群がり、リナは福祉窓口の場所について母親たちと相談している。
ノエルは、ひとりで帳簿を抱えて青ざめていたが、その目は燃えていた。
(ああ――)
ユーマは、そんな光景を眺めながら、胸の奥でようやく確信した。
(やっと、“街の政治”が回り始めた)
これまでは、ユーマが線を引き、皆がそれを「ありがたい」と受け取るだけだった。
今日初めて、“線を引くところに多くの手が伸びた”。
森は生きている。
街も、生きている。
森の主は、遠くのどこかで“この街の動き”を見ているかもしれない。
でも、それはもう恐怖だけの視線ではない。
「ユーマ」
アストが近づいてきた。
「どうだ、議長」
「疲れたよ。座ってるだけだったのに」
「座ってるだけだから、余計に疲れるんだろう」
アストは窓の外を見た。
広場には、六大局の簡単な組織図と、市政議会の説明が描かれた板が立てられようとしている。
その周りには、もう子どもたちが群がっていた。
「全部決めていた頃のほうが、楽だったか?」
「……正直、そうかもしれない」
ユーマは肩をすくめる。
「でもそれを続けてたら、俺が倒れたときに全部終わる。
それだけは、絶対に嫌だ」
アストは、静かに頷いた。
「じゃあ、今日からが本番だな」
「……うん」
窓から、森のほうを見やる。
森の影は、変わらず暗い。
けれど、その手前には、新しい水路の光と、植えられたばかりの桜の苗木の列が見える。
森の中のことは、まだ全部はわからない。
でも、森の“こちら側”でやれることは、確かに増えた。
(六大局。市政議会。平均賃金。森緩衝帯。水産市場……)
積み上げた言葉と制度のひとつひとつが、街の骨格になっていくのを感じる。
ユーマは、黒板の「第一回」の文字を、袖でそっと拭き取った。
そして、その下に、次の一行を書き込む。
《第二回議題案:外部交易と“独立都市”の可能性》
「……早いな」
アストが呆れたように笑う。
「性分だからね」
ユーマは肩を竦める。
「ゆっくり生きるために、今は急ぐんだ」
桜精院の鐘が、夕刻を告げる。
その音は、水路と広場と森の縁へと広がり、街のあちこちで小さな返事を受け取っていた。
スローライフは、何もしないことじゃない。
壊れないように、何度でも組み直すことだ。
そのための、“政治の一日目”が、ようやく終わった。
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