第29話 森が“返事”をした日
朝のサクラリーヴは、少しだけいつもと違っていた。
違いに気づいたのは、訓練場の土を踏んでいた者たちだ。
桜精院の裏手に広がる訓練場。まだ日は高くない。土は夜露を吸って柔らかいが、表面だけは踏み固められている。桜盾の列が、木の盾と槍を揃えて歩く。足音は抑えられている。怒鳴り声はない。アストの声はいつも通り低く、短い。
「歩幅、半分。土を押すな、撫でろ」
若い隊士が顎を引いて頷く。肩甲骨が上がっていた者の背が、少しだけ落ち着いていく。その様子を見ていたガルドが、腕組みしたままほんの僅かに目を細めた。
――その時だった。
「……ん?」
列の最後尾の者が眉をひそめた。足の裏の感触が、ほんの一瞬だけ変わったのだ。
ぐっと押し返されるでもなく、沈み込むでもない。土の“下”から、コ、コ、と何かが叩いたような、ごく浅い響き。
アストもすぐに気づいた。
足を止め、耳ではなく足の裏で訓練場を聴く。
二拍目、三拍目――
コツ、コツ。
表面ではなく、地の奥で細い棒をぶつけたような音が伝わってくる。地震とは違う。揺れではなく、点の響きだ。
「全員、停止」
短く命じると、列はぴたりと止まった。
若い者たちは理由がわからずに互いに目を見交わしたが、アストは返事を待たない。土を掻いて、表面を指で払ってみる。湿りも硬さも、いつも通り。だが、その下から来るごく小さな“叩き”は続いていた。
ガルドが訓練場の端に膝をつき、地面へ耳をつける。
しばらく息を止め、顔を上げた。
「……地鳴りじゃねぇな」
「森か?」
アストの問いに、ガルドは短く頷きかけ――そこで首を振る。
「森“から”じゃない。森“の下”を、何かが這ってやがる感じだ」
ざわり、と列に不安が走る。
アストは手を挙げた。
「訓練中断。装備はそのまま。――ユーマに報告する。ガルド、来い」
隊士たちは口を引き結び、槍の穂先を地に落とさないよう慎重に武具を片付け始めた。大きな不安を見せるのは後でいい。最初に動揺を見せた者から崩れる。だから今は、動きを変えない。
アストとガルドは訓練場を抜け、桜精院へ向かった。
◆
同じ頃、桜精院の一つ上の階では、ユーマが数字と睨み合っていた。
朝一番、まだ誰も訪ねてこない静けさの中で、彼は板に貼った簡易台帳をじっと眺めている。兵の増員、桜盾の装備更新、市警の巡回、民兵への手当。並んだ数字は、昨日引いた線の続きだ。
「……今月の終わりで、予備費がここまで落ちる、っと」
チョークで印をつける。守るための支出は増えたが、教育や本、紙に回す分は絶対に削れない。削れば、十年後に街が痩せる。未来の痩せ方を今決めるわけにはいかない。
窓の外から、かすかな規則正しい足音が聞こえてくる。
アストの訓練だ。あの一定のリズムは、ユーマにとって一種の“安心材料”になっていた。今年から、彼は数字の横に隊の練度のグラフを描くようになった。線は少しずつ、だが確実に上がっている。
(森さえ……大人しくしてくれれば)
そう心の中で言いかけて、自分で苦笑する。
森が“大人しい”などという言葉が似合わないことくらい、子どもの頃から知っている。森は生き物だ。時にはうるさく、時には荒っぽく、時には人の都合など構わず何かを押し付けてくる。
それでも、ここ数日は不気味なほど静かだった。
その時、階段を駆け上がってくる足音。
重さの違う二人分。これは――
「ユーマ!」
扉が叩かれるより先に、声のほうが届いた。
ユーマは即座に立ち上がり、扉を開ける。
案の定、そこにいたのはアストとガルドだった。二人とも鎧までは着けていないが、額にうっすら汗が光っている。
「訓練場で、変な響きがあった」
アストは挨拶もそこそこに言った。
「地震じゃない。土の下から“叩く”みたいな音だ。ガルドが耳をつけて確認した」
ガルドが短く付け足す。
「森のほうから来てた。だが森“本体”じゃない。根の下か、そのまた下か……地面の中で、何かが移動してやがる気配だ」
ユーマは眉を寄せた。
地震なら、もっと全体が揺れる。地滑りなら、音も震えも大きい。こんな形で訓練場だけが「コツ、コツ」と叩かれるような現象は、彼の知る限りなかった。
「……森の沈黙に、タイミングが近すぎるな」
つぶやき、机の端に置いてあった簡略地図を引き寄せる。桜精院、訓練場、水路、森。それぞれに線を引いたその図は、ここ数日で何度も書き直されている。
「他の場所は?」
「まだ確認していない」
「じゃあ、確認しよう。桜精院の周りと、北門、水路沿い。――ミレイにも声をかけてくれ。騎士だけじゃなく、市警の耳も使いたい」
アストは頷き、すぐ踵を返した。
ユーマはガルドを引き止める。
「ガルド、一つだけ。今のところ、危険度はどう見てる」
「すぐに人が死ぬ類じゃあなさそうだ。だが……嫌な感じだな」
「嫌な感じ、ね」
「森で獣と行き合う前にな、急に鳥も虫も黙る瞬間があるだろ」
ガルドは窓の外の森をちらりと見てから言葉を続けた。
「あれに近い。ただ、獣の気配がねぇ」
嫌な予感が、ユーマの背骨をゆっくり登っていく。
「……わかった。ならこちらも、黙ってはいないでおこう」
◆
午前の半ばには、桜精院の中庭に人が集まり始めていた。
アストの指示で、桜盾の一部と市警、それに近くにいた冒険者たちが呼ばれている。エルフのセレス、ドライアド系素質を持つミラ、情報役のロウも顔を揃えた。
「訓練場だけじゃないの?」
ミレイが報告をまとめながら言う。
「北門の外、緩衝帯の端。……それから、水路の分かれ道のところでも、同じ“叩き”があったわ」
市警隊長のネスが答える。
「全部、森の側に近い場所だ。街の中心には来ていない」
ユーマは板に大雑把な地図を描き、その“叩き”のあった地点を丸で囲んでいく。
訓練場、北門、水路の曲がり角。丸を線で繋ぐと、ちょうど森の沈静帯の手前をなぞる形になった。
「……森の外側と、こっちの街をつなぐ“筋”を叩かれているみたいだな」
誰の言葉でもなく、ユーマの口からぽろりと出た言葉だった。
ミラがその図を覗き込み、顔を青くする。
「“筋”……。ねえユーマ、その丸と線、少し森側に伸ばしてみて」
言われるまま、ユーマは線の端を森側へ二本ほど延長する。
そこは、先日の調査で“耳鳴りの始まった辺り”と一致していた。
ミラは耳を押さえた。
「……やっぱり。森の“根っこ”から、何かがこちらへ手を伸ばしてる」
セレスも、森へ向けて目を細める。
「風が、おかしいわ」
彼女が指さした先では、本来なら森のほうから吹き下ろしてくるはずの風が――止まっていた。
桜精院の塔のてっぺんに揚げられた小さな旗は、かすかに屋根の上の空気に揺れている。だが、森の方向からは何一つ吹き込んでこない。風がないわけではない。森からの風“だけ”が、どこかで止められている。
「……こりゃ、やっぱり自然じゃねぇな」
ロウが低く呟く。
「森が黙ってる時は、まだいい。黙った上で、こっちへ手ェ伸ばしてくるときは、ろくなことがねえ」
◆
その日の昼。
緩衝帯に植えられた桜の苗木の一本に、“異変”が見つかった。
最初に気づいたのは、子どもだった。
パン職人ベレッタの娘が、森側に伸びる小道を走りながら、ぴたりと足を止めた。
「あれ?」
彼女が指さした桜の苗。背はまだ大人の腰にも届かない。だが、その幹の真ん中に、一本、真っ黒な線が走っていた。
焼け焦げのように見える。だが、火が当たった様子はない。周りの草も焦げていない。線は幹の表面だけでなく、内側にも沈んでいるように見えた。
「お父さーん!」
叫び声に応え、ベレッタが粉だらけの手で布を払いつつ走ってくる。その後ろから、パンを配達していた少年、近くで水路の掃除をしていた男たちも集まった。
「なんだ、こりゃあ」
誰かが言う。
すぐに桜盾へ連絡が行き、ユーマとアスト、ミラ、それにロウが駆けつけた。
ユーマは幹の黒い線に手を伸ばしかけ、寸前で止めた。
「焼け焦げ……ではないな。触ってもいいか、ミラ?」
「うん。……私が先に触る」
ミラは細い指を伸ばす。幹に指先をそっと当て――小さく身震いした。
「冷たい。……氷みたいな冷たさじゃなくて、もっと……」
探るように目を閉じ、言葉を探す。
「“流れが止まった”冷たさ。木の中を通ってる水も、ここだけ動いてない」
セレスも横から注意深く観察する。
「樹皮の色が変わっているわけじゃない。これは“痕”。――何かが、ここを通ったあとに残った線よ」
「何か?」
アストが眉をひそめる。
「魔物か」
「足じゃない。爪でも牙でもない」
ミラは首を振った。
「もっと細い、“糸”みたいな……森の中の力が、束になって走った跡」
ロウが地面にしゃがみ込み、桜の根元を指で掘る。
土はしっとりとしているが、石も根も焦げていない。だが、根の一本に指を当てると、そこにも同じ黒い線がかすかに走っていた。
「あー……こりゃあ、嫌なもん見たな」
ロウが顔をしかめる。
「森の内側を流れてた“何か”が、この根っこを経由して外へ手を伸ばしたってわけだ」
ユーマは空を見上げた。
雲は薄い。日差しはそこまで強くない。なのに、額に浮かぶ汗は冷たい。
「……森のほうから来る風が、さっきから一度も肌を撫でていないな」
言われてみれば、確かにそうだ。
水路の方からはかすかな風が吹いてくるのに、森の方角はまるで空気の壁があるみたいに静まり返っている。
「森が、息を止めてる」
ベレッタの娘がぽつりと言った。
大人たちは顔を見合わせた。
◆
午後、桜精院の大講堂には、いつもより少し重い空気が満ちていた。
呼ばれたのは、桜盾の幹部、市警の要人、冒険者ギルドの代表、それにエルフ・ドライアドの協力者たちだ。猟師や薬草採りは、今回は“聞き手”として後ろの席に座っている。
黒板には、さきほどの簡易地図が大きく描かれていた。
サクラリーヴ、畑、緩衝帯、森。そこに、訓練場や北門、水路の角で感じられた“叩き”の地点が丸印で示されている。
「現状の整理をします」
ユーマはいつものように、簡潔な声で始めた。
「一つ。訓練場、北門外、水路の曲がり角で、地中からの“叩き”のような響きが確認された。
二つ。緩衝帯の桜の一本に、“焼けてはいないのに冷たい黒い線”が確認された。
三つ。森側からの風が、朝から一度もこちらへ吹き込んでいない。
四つ。森の沈静帯――耳鳴りが始まる帯の外側に、獣の骨が新たに増えている」
ざわめきが広がりかけたところで、ユーマは手を挙げた。
アストも同時に座席から立ち上がり、会場を見渡す。
「まず言っておく。今すぐ街の中に魔物が雪崩れ込んでくるような兆候はない。城壁が揺れているわけでも、見張りが襲われているわけでもない」
アストの声は低いがよく通った。
「だが、森が“こっちを向いた”のは確かだ」
ミラが続ける。
「森は、呼吸を止めて、内側で何かを動かしてる。……本来なら、私たちドライアドが止めるべき動き。けれど、これは私一人ではどうにもならない。森全体にかかっているから」
セレスが肩をすくめ、苦笑にも似た表情を浮かべた。
「エルフの耳でも、森の奥の“声”は拾えない。ただ、今まで聞こえていた小さな音――枝のこすれる音、鳥の翼の風――そういうものが、全部どこかへ吸い込まれている感じがする」
「吸い込まれてる?」
市警隊長ネスが眉を上げる。
「どこにだ」
「森の“中”です」
ミラが胸に手を当てた。
「木の中を通る水みたいに、森の気配がどこか一点に集まっている。……それが何なのかは、まだわからない」
ユーマは黒板に新たな線を引いた。
丸で囲んだ“叩き”の地点を森側へ延長すると、ちょうど沈静帯の内側に入った辺りへ集まる。
「つまり、森は今、『自分の中身を一箇所へ運んでいる』と」
ロウが顎を掻きながら言った。
「胃袋か心臓か知らねえが、何か大事なもんを育ててる時の動きだな、これは」
会場の空気が重くなる。
「育てている」という言葉ほど、不気味なものはない。森の中で、何かが「生まれようとしている」のかもしれない。そう考えた瞬間、何人もの背中に冷たい汗が伝った。
「……何もしないわけにはいかないな」
アストがぽつりと言った。
「森が何を産むつもりか知らないが、こっちの準備ができていない状態で“生まれました”と言われたら、それこそ街ごと飲まれる」
「だからこそ、こちらから“見る”必要がある」
今度はレンが前に出た。軽そうに見える体つきだが、目は鋭い。
「森の中へ入るにしても、全員で突っ込む必要はない。選び抜いた少数の隊で、“見て、戻る”。それが冒険者の仕事だ」
ユーマは頷いた。
すでに、頭の中では部隊の形が組み上がり始めている。
「……では、提案します。森の内側――沈静帯の境界まで、合同調査隊を派遣する」
視線が一斉にユーマへ集まる。
彼は顔を上げ、ひとりずつ目を見るようにしながら話を続けた。
「構成はこうです」
黒板に、冒険者パーティの名前が一つずつ書き出される。
「Aランク《蒼樹の刃》。前衛レオン、狙撃セレス、回復ミラ。
Bランク《赤糸団》。槍のドラン、斬撃のレイナ、守りのオルド、軽足のカム。
Bランク《白灯組》。支援のノア、ヒーラーのリュス、補助のタリス。
Bランク《風切り》。レンを隊長に、ミナ、ゼル。
Bランク《ロウの詩人隊》。情報のロウ、斥候イナ、小盾のダグ。
Cランク《淡き月の輪》。魔力感知のサーシャ、槍のトマ、補助のノエル」
名前が挙がるたび、当人たちは短くうなずき、立ち上がって軽く頭を下げていく。
それぞれが、すでに一度は森の沈静帯の手前まで足を踏み入れた経験を持っているパーティだ。
「桜盾からは、アストとガルド、それに選抜十名。
民兵や市警は今回は森の中には入れない。街側の防衛と連絡に専念してもらう」
ネスが頷いた。
「戦える奴が全員森の中へ入っちまったら、街ん中ががら空きだからな。……こっちはこっちで目を光らせておく」
ユーマは最後に、黒板の端に大きく書いた。
《目的:森の沈静帯の内側の状況把握。敵対行動は最小限。何より“生きて戻る”こと》
「戦いに行くんじゃない。見るために行く」
ユーマは強調した。
「森が何をしようとしているのか。その“兆し”だけでも掴めれば、それだけで街の備え方が変わる。……だから、戻ってきてほしい」
ガルドが短く笑った。
「戻るさ。森で死ぬにしても、“見届けてから”がいい」
「死ぬ前提で話すのはやめて」
ミレイが即座に刺す。
「戻ってきなさい。森の話を、酒の肴にするくらいには。いいわね?」
笑いが広がった。
完全な冗談にはならない種類の笑いだが、その揺れこそが、今のサクラリーヴに必要な“余白”だった。
◆
会議が一段落すると、ユーマは広場のほうへ出た。
配備や準備の指示はアストたちに任せ、彼はあえて少し離れた場所に立つ。
桜精院の前の広場では、子どもたちが何人か集まっていた。
彼らは掲示板に貼られている新しい紙――「合同調査隊派遣のお知らせ」を見上げている。
「森に、行くの?」
誰かがつぶやいた。
「森、最近静かだよね。前はもっと、ざわざわしてた」
ベレッタの娘が、さっきの桜の苗を見上げて言う。
「ねえ、森の声が聞こえない」
ユーマは足を止めた。
子どもたちの会話に割り込むつもりはなかった。だが、その一言は彼の胸に深く刺さった。
(――子どもが、一番先に気づく)
彼はゆっくりと息を吐いた。
街の計画も、税の配分も、森との線引きも、全部“大人の仕事”のつもりでやってきた。だが、森の機嫌や呼吸の変化に、一番敏感なのは――日々外で遊び、土や水に触れている子どもたちなのだ。
「……聞こえないと、怖いか?」
気づけば、口が勝手に動いていた。
子どもたちは驚いたように振り向いたが、ユーマの顔を見ると少し安心した表情になった。
ベレッタの娘が、うん、と頷く。
「うん。だって、前は“ざわざわ”してたもん。木の葉とか、小さい虫とか。今はね、“しん”ってしてる。怒ってるときの、お父さんみたい」
「おい」
後ろからベレッタの声が飛んできた。
「誰が怒ってるだって?」
子どもたちは笑い、ユーマも笑った。
その笑いは、短いが確かなものだ。
「……大丈夫だ」
ユーマは子どもたちに向き直った。
「森が何を考えてるか、ちゃんと見てくる人たちがいる。危なかったら、ちゃんと逃げて帰ってくるように約束させる。だから、もし森の声が戻ってきたら教えてくれ」
「うん!」
子どもたちは元気よく返事をした。
その声に、ユーマの胸の中の重石が少し軽くなる。
◆
夕方になると、街全体が微妙な“緊張”で満たされていった。
鍛冶場フォージベルでは、ブランカが槍の穂先と盾の縁を最後まで確認している。蒼樹の刃のレオンは柄の感触を確かめ、ミラは薬草と包帯の袋を二重に括る。ロウは地図に細かい印をつけ、イナとダグにルートを説明する。
桜盾の詰所では、アストが選抜隊士たちの顔をひとりひとり見ていた。
若すぎず、かといって固くなりすぎてもいない者たち。森の恐ろしさを知りつつ、それでも足がすくまない者たちだ。
「明日の出立は夜明け前だ」
アストは言った。
「寝られなくてもいい。目を閉じて横になるだけで体は休まる。……怖くなったら、今のうちに言え」
誰も手を挙げなかった。
代わりに、誰かの喉がごくりと鳴る音だけが、小さく響いた。
◆
夜。
サクラリーヴの灯は、いつもより少し多くとも少なくともなく――ただ“集中して”ともっていた。
見張り台の灯、橋の上の灯、水路の舟の小さな灯。どれもが、街の輪郭を縫うように配置されている。ユーマが昼間まで悩んで引いた線が、そのまま灯の位置になっていた。
アストは見張り台の一つに立ち、森のほうを見ている。
風は相変わらず、森側からは吹いてこない。だが、わずかに“空気の厚み”が変わっていた。
ガルドが隣に立つ。
「静かだな」
「ああ」
「静かすぎるな」
「ああ」
二人はそこからしばらく、何も言わなかった。
沈黙は重い。しかし、森の沈黙に比べれば、まだ人の沈黙は軽い。互いの呼吸が聞こえるだけで、孤独は薄れる。
「……明日、行って見るさ」
ガルドがぽつりと言った。
「森が何を抱えてやがるのか。見ないで怯えてるより、見て怯えたほうがマシだ」
「いやなら断ってもいいぞ」
アストは一応そう言ったが、返事は予想通りだった。
「嫌だが行く」
それで話は終わった。
◆
夜も更けきった頃――
街が寝静まり、灯だけが細く残っている時間帯。
訓練場、水路の角、北門外。その三つの場所で、同時に“あの音”が鳴った。
コツ、コツ。
土の下から、小さな棒で叩いたような音。
見張りに立っていた桜盾の隊士たちは、すぐに互いの顔を見合わせた。決して大きな音ではない。だが一度意識してしまえば、耳から離れない。
水路の舟を操っていた男が、櫂を止め、足の裏で船底を軽く叩く。
沈黙が返ってくる。川は、何も答えない。
代わりに、森のほうから――
ゴ……ォ……。
低い、低い音が響いてきた。
風でもない。雷でもない。
喉を痛めた巨人が遠くで唸っているような、地の奥で何かが響いているような音。
音は一度だけだった。
だが、それだけで十分だった。
翌朝、桜精院の鐘がいつもより少し早く鳴らされる。
ユーマは鐘の音を聞きながら、窓から森を見た。
森の輪郭は変わっていない。
だが、色が――ほんの少し、違って見えた。
夜明け前の光を吸わず、どこか白っぽく浮いているように見える。目の錯覚かもしれない。だが、セレスは、ミラは、ガルドは、それを同じように感じていた。
森が、“返事”をした。
サクラリーヴは、ついにその声を聞いたのだ。
「……行くしかないな」
ユーマは静かに呟き、机の上の地図と、前夜書き上げた命令書を手に取った。
街は、止まらない。
森が何を産む気でいようと、その前に、できるかぎりの準備と“観察”をしておく。
それが、この街の選んだやり方だった。
外では、桜盾と冒険者たちが集まり始めている。
足音のリズムは、いつもより少し速い。それでも、乱れてはいなかった。
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