第22話 灯の重さ

 まだ夜の名残が地面に残っている。土は冷たく、踏むと硬い感触が返ってくる。訓練場の灯は腰の高さで等間隔。顔ではなく足元を照らすように据えてある。息を吐くたびに白い。


 列が二本。前列は木盾と短槍、後列は長槍。遊撃の三人は短剣と投げ縄。私は列の最後尾からゆっくり歩く。肩、踵、指、盾の縁。目より先に手が動く。


「肩で受けるな。腕じゃない」

 若い隊士の背に手を置く。肩甲骨が上がっていた。手のひらでそっと押して下げる。

「踵が早い。足の裏を全部使え」

 踵を軽くトンと蹴る。隊士が「はい」と短く返す。声は震えていない。いい。


「構え」

 合図を出すと木と革の乾いた音が揃って鳴る。前列は盾を一歩分、体から離し、肘は伸ばしきらない。

後列は前列の肩越しに槍を下から構える。遊撃は左右の端でしゃがみ、縄の端を手の中でほどく。

「押して、戻す。押して、戻す」

 前列が盾でじりじり押す。刺すのは後列の仕事だ。順番を崩すと死ぬ。


 私は列の間を通る。

「息を吐け。吐いた分だけ前が見える」

 隊士の胸が一斉に落ち、肩の力が抜ける。抜けたぶんだけ、足が前へ出る。

 木棒を手にして前列の盾をコツ、コツ、と叩く。叩く位置を毎回ずらす。左上、右下、正面。叩かれた位置に反応して盾の角度が変わる。遅い者には何も言わない。

木棒の向きを変えて、もう一度同じ位置を叩く。二度で間に合えば足は生きる。三度目でも間に合わなければ、列で死ぬ。


「副団長」

「はい」

 ミレイが短い笛を鳴らす。四つで一組、間を詰めない。笛は号令だが、怒鳴り声より疲れない。

「二列目、刺す角度は前列の肩越し。肩を傷つけるな。刺したら引け。引けない槍は足を殺すぞ」


 訓練の途中、列にいるひとりの少年が私の目に残った。声がよく出るタイプだが、槍の引きが遅い。私は背に並び、耳元で言う。

「刺せ。――引け」

 彼の腕が遅い。

「遅い」

 今度は鋭く言う。怒鳴らない。だが、言葉に刃を入れる。彼の指の力が強くなり、槍が素直に戻る。

「いい。次もその速さだ」


 列の端で、遊撃の女隊士が縄を立木に回している。

「結びはそこじゃない。腰の高さ」

「……はい」

「首にかける縄は犯罪者に向けるものだ。敵の足を止める縄は、膝を狙え。間違えるな」

 女隊士が頷き、結びを直す。私は短く言い足す。

「覚えたなら、次は人に教えろ」


 列の動きが揃ってきた。木と革の音がテンポを持ちはじめる。

「今日はここまで。隊列を崩すな。最後の一人が位置に戻るまでが訓練だ」


 解散の笛が鳴る。皆が散っていく。私は最後まで残る。土の上に残った足跡の深さを見て、踏み加減の癖を拾う。深すぎるところを歩き直して均す。誰がここを踏んだか、目をつぶっても当てられるくらいには、全員の歩き方を覚えている。


 息を整えたら、胸が痛むのがわかった。古い火傷だ。冬の前になると痛む。

 テオの名を呼びそうになって、口を閉じる。


 忘れない。だが、止まらない。

 守るというのは、立ち続けることだ。立ち続けていられない者を引き上げるのが、隊の仕事だ。



 桜精院の大講堂は、今日も人が多い。長机が輪になり、職人、冒険者、商人、年寄り、母親。子どもの姿も何人かある。ユーマが黒板に太い字で三つ書く。


「視界/隊列/間。昨夜の反省はこの三つに尽きる」

 彼は数字で話す。夜間巡回の回数、灯の数、舟の本数。

「人は人に殺される。獣にも殺される。だが、数字で“死ににくく”はできる」

 静かな声で言う。私は頷く。


「訓練の順を入れ替える。まず足だ。足ができれば、盾が生きる。盾が生きれば、槍が刺さる。刺さったらすぐ引け。引けないのは死だ」

 私は短く区切って言う。

「野盗は声を出す。猿は声を出さない。どちらも喉を狙う。喉を守るには、腕ではなく肩と足を使う」

 会場の空気が少し引き締まる。ミルクグラス区の職人が手を上げた。

「武器は足りるか?」

「足りる。フォージベルで今日中に短槍を五本追加する。盾の縁も補強する。数は足りるが、持ち方が足りない。そこを埋める」

 ブランカが頷く。「縁金は薄い鉄で三枚重ねにした。軽い。持ち方を間違えなければ三度は受けられる」


 ミレイが巡回図を広げる。

「水路巡回は二艘増やす。橋の下で舟を止めるな。水音が切れると、影が寄る。合図は舟底をひとつ叩く。返事は対岸の笛。音をつなぐ」

 老医師が手を挙げる。「負傷者の運びは?」

「市場の端に担架を置く場所を決める。誰が担ぐか決める。今日は農具屋の裏の小路だ。変える時は毎朝、掲示に出す」

 ユーマが会計の欄を指す。「備蓄基金税から包帯と油、教育文化税から巡回表の板、治安維持税から灯の金具。透明に記す」

 私は全員を見渡して、一言だけ付け足した。

「死は運ではない。準備の不足だ。不足は、次で埋める。俺たちはそうする」


 拍手はない。誰かの喉が鳴る音だけがした。十分だ。拍手はいらない。



 午後。二度目の訓練。今度は実地だ。橋の上と水路の舟、並行して動かす。

 前列が盾で押し、後列が肩越しに刺す。刺したら引く。遊撃は縄を投げるが、首ではなく膝へ。

「肩入れろ」「半歩戻れ」「押し返せ」「刺して引け」

 私は必要な時だけ声を出す。長く叱らない。怒鳴らない。だが、遅い時だけは短く怒る。

「遅い。もう一度」

 その一言で空気が変わる。列が締まる。


「副団長、舟の速度はこれでいい」

「もっと落として。水音が切れる」

 舟の舵を取っている若い隊士が頷き、棹の押しを弱める。水が静かに橋脚を撫でる音が戻る。

 橋の下から子どもが二人、覗いていた。ミレイが手で合図して下がらせる。叱りはしない。ここは公開の街だ。見せて覚えることもある。

「見て覚えろ。大人になったら、もっとやらされるぞ」

 子どもが笑い、逃げた。



 日が傾きはじめた頃、外縁から合図が入った。斥候が紐を二回、引いた。

「外縁二。人の声あり。……猿の痕」

 ミレイが短く指を鳴らす。「巡回、東の水門。隊列そのまま」

「了解」

 私は先頭へ出る。列は走らない。速足。息を余らせる速度。橋を渡り、畑と森の境へ。

 藪の向こうで、人の笑い声がした。金属が擦れる音も混じる。野盗だ。

 笛を鳴らすか迷ったがやめた。距離が近い。笛は合図にもなるが、挑発にもなる。今は要らない。


 藪が揺れ、男が三人出てきた。革の上着、片方は短槍、もう片方は刃の短いナイフ。最後尾の男は何も持っていない。目がよく動く。

 森の上で影が走る。猿が二。低い枝から枝へ。跳ぶ線が短い。近い。


「前列、押せ」

 木が擦れる音が一斉に鳴る。前列が盾を突き出す。男の一人が短槍を構える。

「構えるのが遅いな」

 思わず口に出た。男が歯を剥いた。

「何だと」

「遅いと言った」

 私は短く怒る時の声で言い、すぐに命じた。

「後列、刺す角度は低め。前列、半歩下がって受けろ。遊撃、右の藪の手前で縄を準備」


 猿が跳んだ。影が音を持たずに降りる。前列の隊士が盾を上げ、肩に力を入れて受ける。木と肉の鈍い音。腕ではなく肩で受けると、体が倒れない。跳躍の勢いが盾に溜まり、地面へ逃げる。

「今!」

 私は叫んだ。後列の槍が前列の肩越しに突き下ろされる。一本は空を切り、一本は猿の肩に刺さる。血は少ない。猿が叫ぶ。人みたいな声だが、人ではない。

 もう一体が端から跳ぶ。遊撃が縄を投げる。狙いは膝。縄が絡み、猿がもつれる。前列が盾で押し、地面に押し付ける。後列が突き刺し、すぐに引く。

「引け!」

 遅れた隊士が一本。私は怒鳴った。

「引けと言った!」

 隊士が我に返って槍を引く。間に合った。猿の爪が空を切る。

 野盗が短槍を突いてきた。盾に当たる。木が鳴り、鉄が軋む。前列の隊士が押し返す。押す時は腕ではなく、背で押す。足の裏を滑らせない。

 私は前へ出ない。列を崩すな。

「二列目、右に一歩ずれる。肩越しに横刺し。――刺して、引け」

 槍が入り、男が叫ぶ。致命ではない。脇腹をかすめた。男の顔から色が抜ける。

「追うな。下がれ」

 野盗の三人は藪へ散った。背中は見せない。訓練はしているらしい。追えば森の中で隊列が割れる。追わない。

「遊撃、縄を回収。前列、盾は胸から離すな。後列、槍先の血を拭け。まだ終わりじゃない」


 枝の上の影が動かない。森の空気が重くなった。跳ばない。観ているだけだ。

「戻る。足は速足。怒鳴るな。――橋までが戦場だ」

 列が静かに動き出す。誰も喋らない。舟の水音が近づく。切れない。

 橋の手前まで戻った時、私ははっきり言った。

「負けなかった。」


 軽傷者は三。腕の擦り傷と肩の打撲。手当てはその場でできる。老医師が布で巻き、油を塗る。

「次までに、盾の縁をもう半分広くしておく。受けた時の逃げ道が少し足りない」

 ブランカがメモを取りながら言う。「夜までにやる」

「頼む」

 私は短く答え、列を見渡す。表情に余計なものがない。恐怖は残っているが、指先が震えていない。良い。震えは足から始まり、手に上がり、目で止まる。目が止まっている間は前を見られる。



 日が落ちる前に、私は水門を回った。ヒンジの金具は油が足りている。埃が溜まっていない。手で触れて確かめる。触って、匂いを嗅げ。道具は目だけで見るな。

 祠の前に小さな盾が置かれている。「テオ:麦と朝の声」。指先で文字をなぞる。

「今日の分は、返した」

 祠に短く告げて、四つ数える。吐いて、吸って、吐いて、吸う。私は祈りの形に自分の言葉を混ぜるようなことはしない。やることをやるために呼吸を整える。それだけだ。



 夜。詰所の前に全員を集める。灯は低いまま。顔を照らさない。影は顔に出ると口が軽くなる。

「さっきの遭遇。死者はなし。軽傷三」

 声が届く範囲で話す。

「野盗は短槍持ちが一。猿は二。跳躍は低め。受けはできていた。刺しもできていた。――ただ、一本、引くのが遅かった」

 遅れた隊士が一歩前に出る。私は止める。

「出るな。列の中の話だ」

 私は列に視線を走らせる。

「遅い時は言う。言わないと死ぬ。言われたやつは、次で返せ。それだけだ」

 それから、短く怒る声で言い足す。

「槍を引けと言われて引けないなら、槍はいらない。隊で剣は振らない。守るために振る。忘れるな」


 静かになったところで、ミレイが口を開く。

「巡回のルートを明日から少し変える。橋の下では止まらない。舟底を叩く合図は一回だけ。返事は笛で一回。二回なら“異常”」

 ガルドが次に話す。

「盾の構えは腕でやるな。背でやれ。背でやれる姿勢を、寝る前に一度確認しろ」

 ブランカが言う。

「縁金を広げる。明朝には間に合う」

 老医師が手を上げる。

「消毒液は足りている。寝る前にもう一度腕を洗え。汚れは病気の入口だ」

 エシルが最後に一言だけ。

「息を吐き切るのを忘れないこと」

 祈りは短く、実際的だ。それがこの街に合っている。


「解散」

 皆が散る。私は最後尾で灯の高さを指で確かめる。高すぎない。低すぎない。顔を照らさず、足元だけ。ちょうどいい。



 詰所の屋根に上がる。水路の水面は細かく揺れて、灯を流す。流れる灯は、ときどき継ぎ目でぶつかり、またひとつになる。

 私は今日使った木棒の先で、板の上に短い線を引く。橋、畑の端、森の縁。さっきの遭遇の位置。槍が刺さった場所。縄がかかった場所。遅れた一本。

 線は道具だ。線を引けば、次の動きが決まる。剣を振るより先に、道筋を決める。

「……まだ足りないな」

 思わず口から出た。ミレイが詰所から顔を出す。

「足りないから、明日もやる」

「そうだな」

 彼女が上がってこようとしたので、手で制す。

「降りろ。お前は寝ろ。明日は笛をたくさん吹く」

「分かった」

 扉が閉まり、足音が遠ざかる。


 私は旗の前に立つ。白い布に桜の枝。真ん中に小さな灯が描かれている。手を触れる。布は冷たい。竿は古い木で、少しだけ香る。

「守るための命令なら、俺の声で十分だ」

 声は風に溶け、屋根板の隙間を抜けていく。

 水路のほうから舟の水音が聞こえる。切れない。切れないというだけで、街は落ち着く。落ち着くと、子どもが眠る。子どもが眠れば、明日が来る。


「今日も、帰る道はある」

 私は剣帯を締め直し、屋根から降りた。足はまだ軽い。怒るべき時に怒ったからだ。怒鳴り続ける必要はない。必要な一言で十分だ。

 灯をひとつだけ消し、ひとつだけ残した。残した灯の高さは、腰のあたり。足元しか照らさない。顔は各自で上げればいい。


 夜は続く。だが、それは悪いことではない。夜があるから巡回があり、巡回があるから朝が来る。朝が来れば、また訓練だ。

 私は詰所の扉を閉めた。

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