第15話 灯りは学び、契りは根になる
朝、スプリングライト区の泉は、昨日より少しだけ深い色をしていた。
風は弱く、葉のざわめきが低い。今日は“街が受け入れる”日だと、土の匂いが先に教えてくれる。
広場から泉までの道に、子どもと大人がまばらに並ぶ。並ぶといっても行列ではなく、息をそろえるための距離だ。僕は胸の奥で一度だけ呼吸を整え、泉の縁に右手を置いた。
「はじめよう。主従ではなく、共に居るための契りを」
声を置いた瞬間、風がそっと止まった。
泉の表面に、小さな輪がひとつ、ふたつ。
リーフガーデンから運ばれてきたハーブの葉が、音もなく傾き、街が頷いたみたいに元へ戻る。
妖精のリトが先に歩み出る。空気を切らないように、羽根を畳んで地面に降りた。
「リト、灯りを頼む」
「もちろん。わたしたちは夜をこわくしないためにいる。十歩おきの妖精灯、ぜんぶ息を合わせて点けるよ。ね、みんな」
リーフガーデンの奥で、淡い灯りが星座みたいに結ばれていく。光は大きくならない。けれど途切れない。
泉の輪が、もうひとつ広がる。
次に、ドライアドのセラが根を撫でながら前に立つ。
「水は、急がせません。上流を生かし、下流を疲れさせない。井戸の縁を高く、子の腕が届かないように。濁りは街の心の濁り。わたしたちはそれを薄くする」
「ありがとう、セラ。衛生水環税の袋から、井戸枠の木工費と浄化草の苗を追加で出す。**《会計台帳(アカウンティングレッジャー)》**にも今、注記した」
セラが目を閉じる。泉の面に細い光の糸が走り、土の下で何かがほどける音がした。空は変わらないのに、胸の中の湿り気が“いい湿り気”に替わる。
フォージベルのグレンは言葉が短い。だからこそ、重い。
「路盤は俺がやる。地の骨を先に。粗砂利と細砂利は二層、雨の逃げ道は最初に決める。車輪が沈む道は仕事を殺す」
「道整備税の袋から、砂利の粒径を二段で発注。ファイアフォージ通りの曲がり角は、荷車が昼寝できる程度に広げる」
グレンはうなずいて、わずかに口角を上げた。泉の輪は、今度は石の根元から広がった。
ミルクグラスのマリナは、パンを抱えてきた。契約の場にパン――誰かが笑ったが、彼女はまっすぐ言う。
「暮らしの真ん中は、パンと水と、あたたかい声です。学校の給食は“難しくないおいしいもの”から始めましょう。塩と油を惜しまないで」
「教育文化税で給食費の半額補助。調理器具は道具税の枠で。……ありがとう、マリナ」
泉の輪が小麦の色を帯びる。街が腹を鳴らしたみたいに、周りの子どもが一斉に笑った。
それから、リシア。
最初に出会ったときより、声の速さが落ちている。街に合ってきた証拠だ。
「市場環境税の掲示は、固く書かない。“きれいな通りは、おいしいごはんに直結します”。これでいきたい。露店の間隔は人の肩がぶつからない幅、夜警は見回りとあいさつを兼ねる。――生きて帰れる街にしたいの」
「支部の話は、夕方に。……ありがとう」
泉の輪が、広場の方角へ、細く長く伸びた。
ここまでが、ずっと一緒にいた仲間の契り。
そして今日は、もう一人――旅人として訪れ、街に惚れて残ると決めた人の契りがある。
白壁の影から、エルフの女性が一歩出た。
長い耳は布に隠されていて、目だけが静かに光る。背には、薄い木箱。
「エルノア。森の記録司。言葉と記憶を渡すために旅してきました」
僕は頭を下げた。「ようこそ。エルノア。あなたの居場所を、ここに用意したい」
「居場所は、自分で作ります」
彼女は微笑まずに言った。
「でも、作って良い場所が必要です。――この街は、それを許してくれる」
彼女は木箱を開けた。中から現れたのは、薄い木の板。
板には、子どもの字で書いたみたいな拙い物語が刻まれている。
「旅の途中で出会った町の子が、私に預けた物語です。**“うちの町のこと、どこかに残しておいて”**と頼まれた。……でも、その子の町は、もうない」
泉の面が、わずかに震えた。風はない。街が悲しみを受け取ったのだと思った。
「私は書き残します。失われたものも、これから失わないための仕組みも。――この街に、図書院を」
「お願いします。本は少なくても、宝にします。読み書きの教室に、夜の講義に、記録に。エルノア、ここに居て」
エルノアが、やっと小さく笑った。
そのとき、薬草の葉が一枚だけ裏返って、元に戻った。
泉の輪が、彼女の足元から広がった。
街が “うん” と言った。
◇
契約は派手にならない。終わったあとも、泉は泉のままだ。
それでいて、景色の密度が一段増える。
人の声の音程が、ほんの少し下がる。落ち着きの方へ寄っていく。
午前のうちに、半庭園の校舎が開く。
旧倉庫の白壁に木の格子。教室と庭は地続きで、廊(ろう)というより風が通路になっている。
黒板の代わりに、木の板。椅子は軽く、地面に置いても傷まない。
「読み書きは妖精が教えるよ。小さな字に向いてるから」
リトが板の上でチョークを転がすと、粉のすじが光の尾みたいに残る。子どもたちは手でぱたぱた扇ぎ、粉を空に飛ばして遊び、授業が始まる前から笑っている。
「数は僕が。大人の夜の部も開く。**《会計台帳》**で見える数字を、見えるままに“わかる”にする」
マリナは台所で鍋と笑っている。「食の学びはみんなでやるのがいちばん。塩はドワーフ基準、火加減は精霊基準、味見は子ども基準!」
セラは庭で、土の見方を教える。「柔らかい土は、足の裏でわかります。硬い土は、音が高い。水が嫌がる音がする」
グレンは道具の授業。手のひらほどの小槌を配り、鉄釘を一本ずつ渡す。
「道具は“手の延長”だ。重さを握らずに、重さと握手する。――やってみろ」
エルノアは、図書院の机に最初の本を置いた。
それは本というより、板と紐の束だ。
「本が少ないうちは、音読が図書院。読む声は風になる。……では」
彼女は木板の物語を、静かな声で読む。
内容は、とうに無くなってしまったどこかの町の、ありふれた夕方。
聞いているうちに、リトが鼻をすすり、子どもが顔を上げ、
セラが目を閉じ、グレンが腕を組んだまま目尻をぬぐった。
僕は胸の中でだけ泣いた。
失われたものを、そのまま前に置く強さ――この街の図書院は、たぶん、ほんとうにいい。
昼の鐘は、まだ塔がなくても鳴る。カラン。
休む合図。鍋をいったん火からおろす合図。
僕は《会計台帳》に教育文化税の支出を二行、書き足す。
— 読み書き板 × 二十枚
— 夜間卓用の灯 × 十基(妖精灯連動)
注釈は緑。無理なし。
◇
午後は、冒険者ギルド支部の立ち上げだ。
場所は広場の南側、木の骨組みが美しい新しい建屋。
表の看板には、かたい字で二行だけ。
冒険者ギルド・サクラリーヴ支部
死者を出さない依頼所
支部長は、あの初心者パーティのリーダー、カインが就いた。
彼はまだ若い。けれど、帰ってから笑う方法を知っている。
「受注の最初に、休息条件を入れます。夜営の場所が確保できない依頼は、うちでは通さない。“急ぐ”は“縮む”に等しいから」
「買い取りは?」と僕。
「素材買い取りを、サクラ総合商会と連携に。桜貨での即時支払い。命が金になる仕組みを作れば、命を軽くしない」
掲示板には、依頼の紙。
紙の端には**“帰着時刻の目安”が書いてある。
見慣れないけれど、すぐに街の空気に馴染む。
カウンターの脇には医務卓と相談卓**。
「帰ってから泣ける場所も必要です」とカインが言った。
僕はただ、うなずく。泣ける街は、強い。
支部開所の挨拶は短い。
リシアが市場環境税の木札を掲げて言う。
「素材の置き場は広場の北の倉へ。臭いが混ざらないように仕切ります。見張りは夜警と共通。ね、いいでしょ」
いい。街はすでに、分担の言葉で動く。
夕方、最初の買い取りが走った。
コルトから来た二人組の若者が、角の浅い小鬼の牙を十本、
ハーブの束を五つ、汚れの少ない革を一枚。
カインが査定し、僕が《真理視界(オムニアイズ)》でサッと裏取り、リトが桜貨を数えて渡す。
若者は驚く。「即金?」
カインは肩を竦めた。「生きてるうちに払うのがうちの方針だ」
若者の片方が、ふいに笑った。安心した笑いだ。
生きて帰るだけで経済が回る――この支部は、そういう作りにする。
◇
日が傾く。僕は半庭園校舎に戻った。
図書院には灯り。エルノアが机の上で、街の地図を描いている。
道の太さが同じじゃない。人の息の太さで線を引くからだろう。
「地図は“正しい”より“住める”が先です」と彼女。
僕は笑う。ここでは、なんでも生きる側の言葉になる。
校舎の外では、マリナが今日の夜の学びの準備。
「家計と保存食。両方とも、“明日がある前提の動き”です」と言う。
セラは水面の光を整えて、リトが妖精灯の明滅を鐘に合わせて試す。
グレンは支部の若者に、釘の打ち方をもう一度。
街の手が、街の背中にまわる音がする。
僕は《会計台帳》を開く。
— 市場環境税:掲示板木枠 × 二基
— 治安維持税:夜警の笛 × 十
— 教育文化税:読み書き板 × 追加十、図書台 × 二
緑の注釈がやわらかい。
『本日、無理なし』
それから、《市場掌握(マルクトコントロール)》をそっと広げる。
支部開所以来の人の流れが、細い川から幅のある川に変わっていく。
価格の歪みは今のところ小さい。偽物流通の影も薄い。
“街の呼吸”が、支えられている。
◇
夕刻。広場の真ん中。
塔はまだないけれど、鐘は今日も鳴らす。
誰が鳴らす? 今日は順番だ。
リトが灯りを結び、セラが水面を整え、グレンが小槌を握り、マリナがパン籠を抱え、リシアが木札を胸に当て、カインが支部の扉を押さえる。
エルノアは図書院の戸口から、町の声を見ている。
「――生きて帰れる街であれ」
誰の口から出たのか、わからなかった。
次の瞬間、街じゅうが“うん”と頷いた。
風が止まり、泉に輪が広がり、薬草が音もなく揺れて戻る。
カラン。
鐘は急がない。
港へ、森へ、畑へ、祈りの庭へ。
校舎の子どもが息を合わせ、図書院の声が少し低くなり、支部の扉がゆっくり閉まる。
街が“今日の速さ”を覚える。
僕は胸の中で短く言った。
ここで、生きていく。みんなで。
◇
夜。
半庭園校舎の片隅で、エルノアが僕に小さな板を渡した。
板には、今日の契りの記録が刻まれている。
彼女は言う。
「失われないために、残す。
残すために、今日を静かに厚くする。」
「ありがとう」と言うほかない。
静かに厚い――この街のやり方だ。
灯りを落とし、空を仰ぐ。
妖精灯が、星座みたいにつながっている。
十歩おきの灯が、十歩おきの安心を作る。
遠くで、もう一度だけ鐘が鳴った。
カラン。
サクラリーヴは、学びを灯りに、契りを根に、ゆっくり育っていく。
鐘の余韻が静かに薄れて、街は夜の支度に入った。
半庭園の校舎では、大人の学びの時間が始まる。昼は子ども、夜はおとな。木の長机に、仕事帰りの手が並ぶ。粉のあと、煤のあと、洗い張りの水のあと。どの指にも、今日という日が付いている。
「桜貨の数え方は、“暮らしに置き換えて”覚えるのが早いよ」
僕は板に三つの円を描く。食べる/住む/備える。
リトが小さなチョークを持って、円の中へ簡単な絵を添える。パンと湯気、屋根と窓、干した野菜。チョークの粉が空気にひかり、妖精灯がそれを薄く拾う。
「今日の素材買い取りは――」
僕は《会計台帳》を開く。緑の注釈が呼吸のように点る。
— 小鬼の牙 ×10:桜銀貨18
— ハーブ束 ×5:桜銀貨10
— 革 ×1:桜銀貨6
— 計:桜銀貨34 → 桜金貨3 と銀貨4 の支払い
「即金は、命の重さを“今ここ”に置くため。明日に回すと、人の気持ちは薄まる。だから今日の労(ろう)は今日のうちに」
机の端で、若い母親が小さくうなずいた。「明かり油、買って帰れる」
隣の老人が笑う。「字が読めると、数字が怒ってない顔に見えるな」
教室はそれだけで温度が上がる。数字は叱るための棒ではなく、暮らしを立てる柱だ。僕は、昔の白い蛍光灯を遠くへ押しやり、今目の前にある木の灯りを見つめる。
そのとき、校舎の縁側から足音がした。冒険者ギルド支部長のカインだ。
袖をまくった左手に、布で巻いた小さな包み。「指を挟んだだけ。工房の扉で。大したことはないけど、放っておくと厄介になるやつ」
「こっち」
僕は薬箱を引き寄せ、薄い消毒液を湿らせた布で周囲を拭く。セラが小さくうたを口ずさみ、泉の水から清らかな冷えを借りてくれる。リトがランプの火を整えて影を浅くする。影が浅いと、人は痛みに強くなれる。
傷は浅い。軟膏を薄くひと塗り、細い布でやわらかく固定する。
「痛みは明日の学びだよ」
カインは苦笑いして、「それは忘れてもいい学びだな」と返す。
僕も笑う。「忘れる勇気は、生きる知恵だ」
夜の授業は続く。
エルノアが図書院の戸を開け、板の本を二つ机に置いた。
「“旅の道標”と“井戸を深くする理由”。短い読みものを作りました」
彼女の声は小さく、よく通る。
道標の話は、雨の日に消える足跡の代わりに言葉の杭を打つ、という寓話。
井戸の話は、子どもの腕が届かない深さにする理由を、昔話に見せて教える話。
誰も眠くならない。眠らせない声ではなく、眠る余裕を残してくれる声で読むからだ。
外では、フォージベルの若い衆が夜警の笛を試す。
ぴぃ、と短く一度だけ。返すように、港の方角からぴぃ。
笛が**合図ではなく“安否のあいさつ”**になるのが、サクラリーヴのやり方だ。
リシアが縁側に腰かけて、帳面を膝に置いた。
「露店の間隔の札、昼のより三枚足す。夜になると人は肩で歩くからね」
僕は頷く。「肩幅が市政の単位になる街は、きっと長生きする」
やがて、ミルクグラスの方からパンの甘い匂いがまたしても届く。
マリナが盆にのせた夜食の薄切りを持って現れた。「学ぶお腹にも、帰るお腹にも、同じパン」
教室に笑いが走り、パンはすぐに半分になって、さらに半分になる。
分ける速度が早い。こういう速さだけは早くていい。
エルノアが、僕の隣にそっと腰を下ろす。
「契りの記録、朝の分は写し取りました。泉の輪は三度――妖精灯、井戸、路盤。小麦の香りの付記、そして支部の掲げた“死者を出さない依頼所”」
「ありがとう。街が覚えるのを手伝ってくれてる」
「街は覚えます。人が忘れないように」
眠気が教室の角に座りはじめる。良い眠気だ。
グレンが帰り際に、低い声で子守歌を一節。ドワーフの子守歌は石の奥を伝って、胸骨の内側に響く。耳で聞くより先に、背中で聞く歌。
セラが泉をひと撫でして、水面の光を少し暗くする。夜は夜らしく。
リトが妖精灯を十歩おきに二段目で繋ぎ直す。明るすぎない明るさ。暗がりの居場所を残す灯り。
僕は《市場掌握》を開いて、最後に歪みがないかだけ確認する。
酒場の値付けは過度に上がっていない。夜食のパンは昼と同値。
井戸の列は短い。水番がうまく回っている証拠だ。
偽紙幣や粗悪品の影は薄い。支部の即時査定が効いている。
画面の端に、小さな緑の注記がまた点った。
『本日:街の呼吸、整』
僕はチョークで黒板の端に、短く一行だけ書く。
学べる街は、帰れる街。帰れる街は、明日を使える。
誰が読むでもない一行が、夜の空気に溶ける。
リシアが横で小さく笑って、「看板文句にしたい」と呟く。
「看板は短すぎる方が長持ちするよ」
「じゃあ、二行まで」
笑いを置いて、僕は戸締まりの見回りに出る。
クリアスプリングのみちは水の匂い。
ハーブリーフは葉擦れのさざめき。
ファイアフォージは炉の熱がまだ生きていて、
グレインフィールドからは、牛のゆったりした吐息が届く。
広場に戻ると、仮の小鐘が夜露をまとっていた。
今夜は二度目の鐘は鳴らさない。休む合図は昼と夕で足りる。
人は、合図が少ないほど“自分の合図”を見つけやすいから。
部屋に戻る前に、ひとつだけ、僕はエルノアの板の本を胸に抱えた。
失われた町の夕方は、もう戻らない。けれど、
失わせない夕方なら、ここに作れる。
パンと水と、灯りと、帰れる道。
“生きて帰るだけで経済が回る” 仕組み。
“学ぶだけで街が強くなる” 場所。
大げさに言えば、そういう文明を、小さく始めたのだと思う。
戸を閉める。布団の重さが肩に落ちる。
遠くで、夜警の笛が小さく一度。港から、応える笛が一度。
返事がある夜は、よく眠れる。
目を閉じる直前、妖精灯の二段目が、そっと明滅した。
十歩おきの安心は、夢の入り口にぴったりだ。
――おやすみ、サクラリーヴ。
明日の学びが、もう胸の中で温まっている。
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