第11話 領都取引と桜金貨の航路
夜明け前の港は、冷えた鉄の匂いと、パン窯の甘い湯気が混じっていた。
桜印の旗は風をつかまず、薄明の空で静止している。今日は街の音が早い。荷の固定、帳簿の確認、印章の封緘――どれも半拍ぶんだけ速い。領都行きの初便だからだ。
ユーマは埠頭の端で、黒革の帳面を閉じた。表紙には小さく「桜金貨対外決済・試験一号」。
甲板では、ドワーフの大工が最後の楔を打ち、妖精が梱包紐の結び目に小さな鈴をつけていく。エルフの記録官が目録を読み上げ、獣人の艇長が「よし」と短く頷いた。
「出す品は三束に分ける」
ユーマは全員に聞こえる声で、しかしいつもの低さで言う。
「医薬、化粧、食品保存。——武具は今回は持たない。欲しがられても出さない。今日は暮らしを取引する」
甲板の中央に、三つの木札が立てられた。
• 医薬束:風邪薬、痛み止め、消毒液、手のひら軟膏、寝香。孤児院・病院・兵営向け契約包を含む。
• 化粧束:洗顔石鹸、昼香・夜香、リネン水、手肌保護油。貴族向け試作を混載。
• 食品束:塩漬け肉、燻製魚、ハーブ油、乾燥野菜、密封瓶、酢の母。保存指導書付き。
フロルがうなずき、瓶口に白い布を結びながら言った。
「香りは言葉より速い。ごまかしが利かない」
ベイルは樽の蓋を叩いた。
「口に入るものは、もっと速い。体が真っ先に嘘を見抜く」
アーデンは巻物の封を確かめ、ユーマに目を向けた。
「領都は、噂の割に慎重だ。——いや、疑い深いと言うべきか」
「疑いは悪くない」ユーマは短く返す。「だから帳簿で行く。桜金貨の比率と裏付け、流通路と買い取り保証。数字で話す」
彼は最後に、布に巻かれた小箱を手にした。箱の中には、光を吸うような黄色が眠っている。桜金貨。金の割合は王国金貨よりわずかに多い。
「やや上で行く」
「揉めるぞ」アーデンが笑った。
「揉めない値だ。働けば届く」
その言い方に、皆が少し笑った。働けば届く。それはこの街の合言葉になりつつある。
◇
半日航路。潮がやむと、代わりに街の匂いがした。
領都ファルドは灰色の石を何層にも積んだ盆地都市で、外壁は高く、門は狭い。港側の関所では、書記が帳簿をめくり、兵は槍を持ちながら退屈そうに目を細めている。商いは好きだが、新しい商いは嫌う顔つき。それがこの都の癖だ。
「積荷検見」
関門の役人が鼻にかかった声で言う。
ユーマは先に分厚い束を差し出した。成分表、価格表、危険度票、裏付資産表、流通誓約、買い取り保証状。
「物より先に、約束を見てほしい」
役人は目だけを動かして束をざっと見た。あまり読めていない。だが、厚さには弱いようだ。
「……ふむ。香料、薬、食品。——武器は?」
「暮らしの便こそが武になる時代が来る」
「口が達者だな。——入れ」
門が開くと、街路の石が乾いた匂いを立てた。ファルドは水に厳しい。井戸は深く、雨樋は狭い。香りは町の角で立ち止まり、食は門の内側で貧しくなる。
だからこそ、今日の積み荷は効くはずだった。
◇
最初の相手は領都病院だった。日当たりの悪い石造りの廊下に、消毒用の小瓶がまばらに並ぶ。
老医師がユーマの差し出した瓶を手に取り、匂いを確かめ、光に透かす。
「……濁りがない。沈殿が出ない。ラベルの字がよく読める。字は治療の半分だ」
「使い方と禁忌を絵で書いた」ユーマが答える。「手が忙しいとき、言葉は遅い」
「数は?」
「まずは一月分を届ける。孤児院と兵営にも同量。受け入れが滞るなら、半月で切る。その代わり、滞りの原因を帳簿で掘る」
老医師は唇の端を上げた。
「やり口が会計だ。——だが、医療には会計がいる」
試しに、と病室で傷薬と手のひら軟膏が使われた。
包帯を巻く看護師の手が止まらない。匂いが軽い。子どもが泣かない。
老医師が小さく頷いた。
「仮受注だ。孤児院から始める。兵営は様子を見て増やす」
「支払いは桜銀貨、王国銀貨、半々で受ける。桜金貨は大口だけだ」
「その金は、何者だ?」
ユーマは短く息を吸い、桜金貨の小箱を開けた。
「暮らしが裏付ける金。——桜金貨。やや上にしてある。食と医と眠りで受け取れる」
老医師は目を細めた。「仮の上をつけるのは、自信か、慢心か」
「責任だ」
老医師は笑った。「今日はよく笑う」
◇
午後は貴族街だった。
屋敷の庭で香の品評が行われ、細長いテーブルに小瓶が並ぶ。昼の光では香りは立たない。布に一滴落として、影で嗅ぐ。
最初に顔を曇らせたのは、領主家の側近と思しき男だった。
「香りが軽い。弱いのではないか」
フロルは首を振った。
「昼は軽く、夜は深く。台所と寝室で役割が違う。重さは値段に含めない」
「値段に含めない?」
「暮らしには、役割の値をつける。贅沢は後だ」
女主人がゆっくりと布を鼻に寄せ、目を閉じた。
「……肩が、ほどける」
その声に、庭の空気が一度柔らかく沈んだ。
別の若い貴婦人が夜香を試し、微笑して頷く。
「眠れる」
側近が渋面のまま頷いた。「試納を受けよう」
試納――本納の一歩手前。領都の古い作法だ。新顔にはまず引き出しだけを渡す。本丸は渡さない。
ユーマは拒まなかった。
「半月で交換に来る。減りの帳簿を見せてほしい。欠品が出ていたら、違う香りに差し替える」
女主人は少し驚いた顔をした。
「売りではなく、暮らしの指図をするの?」
「暮らしが売りの親だ」
フロルが小さく笑い、布の端を整えた。
◇
夕刻、市場通りで食品束の試食が始まった。
燻製魚を薄く切り、ハーブ油を一滴、塩をひとつまみ。
通りがふっと静まり、次に笑いが起きる。美味いとき、人は子どもの声になる。
密封瓶は領都初だった。蓋の回りがよく、再利用できる。
食料商人の親父が唸る。
「水が少ねえ街で、酢をこんなに使うたぁ……」
「水が少ないから、腐敗が早い。酢と塩で道を延ばす」ベイルが答える。「油は運ぶ箱だ。香りで蓋をする」
親父は何度も頷き、卸価格を書いた札を握った。「一日十箱から頼む」
「十では足りない」アーデンが即座に返す。「二十、三十で組んだほうが、腐らない」
親父は笑って白旗を上げた。「勝てねえ。——三十」
そのやり取りを少し離れて見ていた領都商人組合の男が、肩越しに口を挟んだ。
「桜銀貨で払えるのか?」
「払える」ユーマは両替誓約を机に置く。「王国銀貨も受ける。桜金貨は大口のみ」
「王国に背く気か」
「暮らしに背かない」
男は出しかけた言葉を飲み込み、離れた。
◇
夜、領主館。
大広間は火の光で白く、床は磨き上げられている。長卓の先に、代官が座った。領主の名代。細身で、声は低いが、舞台に立つ役者のように通る。
左右に商人組合、職人ギルド、医師、貴族家の列。手の甲の白い者ほど口数が多い。新しいものが嫌いな指の色だ。
「聞こえている。桜金貨とやらで、取引を仕掛けに来たのだな」
ユーマは一礼し、桜金貨の箱を開けた。音は出さない。光と手触りだけが言葉だ。
「やや上にしてある。裏付は穀、薬、宿、香、保存。働けば届く」
代官は片眉を上げた。「働けば届く。王都の商会に、そう言ってみるがいい」
「言う。値で話す」
短い沈黙。
代官は視線だけで老医師と女主人を指した。
老医師がまず口を開いた。
「孤児院は今日から仮受給を始めた。悪くない」
女主人が続ける。
「香は夜が良い。眠りが深くなる。台所は軽いほうが良い」
代官は小さく頷いた。
「食は?」
市場の親父が手を挙げる。「三十箱、毎日いける。密封瓶が効く」
「税は?」
商人組合の男が渋い顔で言う。「王国銀で受けるのが筋だ。桜なんて名もない」
ユーマはそこで、会計台帳の写しを広げた。
医療費推移、労働損失、食品廃棄、治安、冒険者滞留、宿泊、両替。
「桜の名は要らない。暮らしが裏付ける。王国銀で納めるなら、桜で回し、王国に立て替える。数字は黒になる」
代官は写しをたぐり、目だけで読み、にわかに笑った。
「お前は面倒を先にやる」
「帳簿はいつも」
大広間に笑いが走った。緊張がほどけたのが、音でわかる。
代官は玉座の肘に軽く指を置き、まとめた。
「——仮許可。桜銀貨の領都内流通を、市に限り許す。桜金貨は貴族間大口のみ。半年で見直し」
商人組合の一部が顔をしかめたが、老医師と女主人の目は明らかに明るかった。
「病と眠りは領の利益だ」
代官は静かに言い、席を立った。
◇
席がはけると、廊下の灯が柔らかくなった。
アーデンが肩を落としてユーマに囁く。
「半分勝ちだ」
「半分で十分だ。半月で伸びる」
フロルが笑いながら扇子で風を送る。「夜の香は勝った」
ベイルが木箱の角を指で叩く。「瓶も勝った」
ユーマは頷いて、帳面に短く記す。
「初日:医・香・食、仮。桜銀、市内。桜金、貴族大口。半年見直し」
◇
翌朝から、領都の市の音が変わった。
両替の秤がいつもより多く揺れる。桜銀貨が屋台の皿から宿の皿へ、薬屋の皿から孤児院の箱へ移る。
孤児院では、消毒液の匂いが薄く香り、子どもが泣かない。
女主人の寝室では、夜の香一滴で眠りが深くなる。
市場では、塩と油と酢が保存の三本柱になり、密封瓶が洗われて陽に干される。
冒険者宿には、ファルド外縁のパーティが増え始めた。「買い取りが早いらしい」と。
同じ頃、商人組合の部屋で、渋い顔をした男たちが唸っていた。
「王国銀を落とすわけには……」
「落ちない。桜が間を埋めるだけだ」
「利は?」
「流れの利だ。滞りを買い、滞りを売る」
「……わからんな」
わからないほうが普通だ、とユーマは思った。彼は両替所の誓約板に視線をやり、赤が灯らないのを確かめる。
◇
三日目、予想外の波が来た。
兵営から手袋と石鹸の追加注文。台所の指導を隊付きで受けたいという。
ユーマは即答した。「受ける。手が治れば剣が落ちない」
五日目、孤児院から夜香の増量。夜泣きが減り、昼に眠らない子が増えたからだ。
七日目、女主人の紹介で二家の本納。試納が本納になる速さは、暮らしの快さに比例する。
十日目、市場の親父が「三十箱じゃ足りねえ」と頭をかいた。
アーデンが笑って肩を叩く。「言われる前に言え」
「言えるなら親父やってない」
ユーマは物流線の木札を動かし、舟の間引きを解いた。桜貨は市の中で滞らず、王国銀の納税を桜が先払いする形も、会計台帳の上で回り始める。
◇
十五日目。
代官が視察に来た。護衛は少なく、靴は磨かれている。見に来るときの靴だ。
孤児院の廊下で、子どもが代官の袖にしがみつく。匂いが怖くないからだ。
病院では、手の荒れが減った看護師が「助かる」と笑う。
市場では、密封瓶の口が揃って並ぶ。
宿では、夜の香が薄く漂い、昼に眠る者が減った。
代官は両替所の秤を覗き、桜銀貨を一枚だけ指で撫でた。
「……安心の手触り、とはよく言ったものだ」
ユーマは頷き、帳簿を差し出す。
「半年を待たず見直しを願う」
代官は目だけでページを繰り、そして短く言った。
「一月で本許。市だけでなく、職人街と宿へも桜銀を認める。桜金は貴族と病院に限る」
「十分だ」
「十分を重ねるのがお前だろう」
それだけ言って、代官は踵を返した。靴の音が軽い。
◇
戻り舟の甲板で、ユーマは風を受けた。
積み荷は空に近い。代わりに帳面が重い。
アーデンは嬉しさを隠さず言う。
「医・香・食で門を開けた。武は要らなかった」
フロルが笑って空を見上げる。
「眠れる街は、争わない」
ベイルは頷き、樽を叩いた。
「食える街は、歪まない」
ユーマは桜金貨の箱を一度だけ開き、音を出さずに光を見た。
「働けば届く値で、争いを外に追い出す。——それが都市の防壁だ」
遠く、アルメリアの丘が見えた。家の灯が点いていく。
この灯を桜で繋いで、王国と結べ――それが今の帳簿の仕事だ。
◇
帰港の夜、本店二階。
ユーマは会計台帳を開き、今日の黒字と赤を見た。黒は静かに増え、赤は細く警告を出す。遅延が二。交換が四。破損が一。偽造はゼロ。
桜銀貨流通比率・市内七四%/職人街一九%(初日)/宿二六%(初日)。
桜金貨決済・貴族家二件/病院一件。
医の補給遅延が一箇所。
ユーマは赤に丸をつけ、付箋を貼る。
「道の穴は夜に埋める」
ノックの音。
扉の向こうに、領都商人組合の男が立っていた。昼の渋面が、少し薄れている。
「……両替の常駐を頼みたい」
「出す。ただし、偽造判定と誓約板は必ず置く」
「置け」
男は短く言って、一歩だけ踏み込んだ。
「王国銀で税を納める手助けも、頼む」
「やる。暮らしが先だ」
男は大きく息を吐き、握手を求めた。手の甲は白く、しかし温かかった。
◇
締めの帳面に、ユーマは三行を書いた。
• 桜銀貨:市・職・宿で本許へ。
• 桜金貨:貴族・病。やや上堅持。働けば届く。
• 暮らし:眠りと食で争いを遠ざける。
ペン先を離し、窓を開ける。
夜のアルメリアは、領都と違う匂いがした。水が近い。香が回る。台所が温い。
「焦らず、競わず、ちゃんと儲かる」
小さく言って、ランプを落とす。
明日の便は二本。病院本納と貴族家本納。市場増便は三。両替所の誓約板は一枚増やす。
都市は灯でできている。灯は暮らしで燃える。暮らしは通貨で回る。通貨は約束で立つ。
その約束に、桜の小さな花弁が一枚、静かに重なった。
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