第9話 暮らしを整える街 ― きれいな香り、きれいな台所 ―
朝の港は、ひと月前よりも静かだった。仕事の音が減ったのではない。音がそろったのだ。叩く音、引く音、書く音、湯が立つ音。ばらばらだった拍が、同じ流れで歩いていく。
桜印の旗がゆっくりと風を受け、丘のふもと――川の分流を引き込んだ平地では、新しい建物が骨組みを見せていた。煙突は低く、屋根は長く、壁は半分ほどしかできていない。だが、もう人は集まり、荷台から木箱が降ろされ、獣人の若者が太い声で受け渡しを指示し、妖精が瓶口に布を結んでいる。
その中央に、ユーマがいた。いつものように、背筋を伸ばして、静かに全体を見る。彼が視線を上げると、**
「本日より、環境再生場を仮稼働する」
ユーマの声は通るが大きくはない。集まった面々に、彼は順に目を配った。
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工房の鍛え手たち、獣人の輸送隊、エルフの検査官、ドワーフの職人、そしてドライアドが背後の若木を揺らして見守る。
「この場の役割は三つ。回収、無毒化、再利用だ。汚れを“消す”のではなく、“働かせない”形に変え、暮らしに戻す。決まりは簡単だ。危険は走らせない。無駄は走らせない。嘘は走らせない」
フロルが白い布を結び、香りの器具を台に置く。「回収の窓口は私が受けるわ。危ない瓶はそのまま触らせない。
アーデンは板図を掲げた。「村筋ごとに回収箱を置く。家々の台所、古い棚、蔵から出てくる粉や油、瓶、布。全部、買い取る。桜銅貨か、食品・石鹸との交換で支払う。貴重だと思うものほど、早く持ってきてほしい」
ベイルは土を握る。「畑の境には緩衝帯を作る。**
ユーマは首肯し、壇の上に四つの木札を並べた。
有機ライン/金属安定化ライン/無機中和ライン/資源再生ライン。
「やることは、こうだ。まず有機ラインで、古い香料や残った溶剤を減圧蒸留と低温分解にかける。温度と攪拌は《錬精構式〈アルケミックフォーミュラ〉》に従う。フロル、妖精たちの手を借りて、香り成分だけを拾う。
金属安定化はドワーフの工房で。鉛や水銀は酸化して、ガラス固化に封じる。素手で触らない。
無機中和は、酸とアルカリの釣り合い。エルフと医薬の監査で、塩として安全域に落とす。
最後に資源再生。ガラスは溶かして瓶に、炭化物は吸着材に、微生物が食えるものは堆肥へ。精霊土壌で農地に戻す」
彼はそこで、少し声を落とした。
「数字で示す。危険度は赤、安定は青、再利用可は緑。会計台帳は、危険な動きに赤の注釈をつける。赤が出たら、全員、手を止める。——今日から、命を守る仕事をする」
短い拍手が広がり、作業が始まった。
◇
最初に運び込まれたのは、ミュレの倉庫から出た古い粉末だった。砕いた貝の色をしているのに、鼻を刺すような金属の匂いが混ざっている。
フロルが《真理視界》を通し、数字を読む。「鉛がいる。色は綺麗でも、これは肌に置けない」
ユーマは頷き、金属安定化ラインに渡した。「酸化から入る。温度は四二〇。攪拌は弱、時間は二刻。最後にガラス固化、封じる」
ドワーフの長、フォルテが口髭を撫で、「了解」と短く言った。炉の中に淡い橙が生まれ、金属が呼吸をはじめる。
獣人の若者たちが火ばさみを動かし、エルフの検査官が温度を読み上げ、妖精が火口の縁に座って唄う。
フォルテは目を細め、炉の色を見た。「よし、ここだ」
鋳込みはいつも通りに滑らかで、出来上がったガラス塊の中で、金属は黒い糸のように静まった。
エルフが魔印を押す。「封じ込め完了。工芸か建材へ回す」
その横で、有機ラインの釜が低く鳴った。
古い香料と溶剤が混ざった褐色の液。ユーマは《錬精構式》の表示板に細い指示を書き込む。
“温度五六度、減圧、攪拌三、触媒:花蜜精・微量”
妖精が小さな匙で花蜜を落とし、フロルが目を閉じて香りの立ち上がりを待つ。
最初の蒸気が冷却器で水滴になり、透明な液体として受け皿に落ちた。
フロルが鼻を近づけ、微笑む。「溶剤は抜けた。香りだけ残ってる」
ユーマは頷き、瓶に緑の印を押した。「内部流通へ。ラベルに再生の記録をつける。出所は分会史に残す」
午後になると、回収箱に人が列を作った。
古い粉、お守りの油、名のわからない塊、黒ずんだ瓶。
先頭に立っていたのは、白髪の老女だった。布で包んだ小箱を胸に抱え、順番が来ると小さく頭を下げた。
「若い頃に、ここで買った粉なんだよ。娘の嫁入りのときに使おうと思って、しまっておいた。——でも、このところ、目が痛くてね」
フロルが優しく笑う。「見せてください」
《真理視界》の光が走り、数字が浮かぶ。
フロルの眉がかすかに寄る。「……やっぱり。鉛が濃いわ。昔はこれが普通だったの」
老女は息を飲んだ。「娘に渡さなくてよかった……」
ユーマが前に出て、静かに言う。「買い取ります。これは、壊さずに直すものです。もう一度、別の形でお返しします」
「直るのかい」
「形を変えます。毒を働かせない形に」
老女は両手で小箱を差し出し、深く礼をした。
受け取ったユーマは、帳簿に緑の注をつけ、桜銅貨を数枚、老女の掌に置いた。「ありがとう。あなたが抱えてくれた時間は、街の資産です」
◇
夕刻、場内に新しい線が引かれた。
エルフが白墨で「危険品」「待機中」「安全」の境界を塗り直し、獣人が縄を張り替える。
ドライアドが根で地中の水脈を撫で、精霊土壌を緩やかに広げていく。
ベイルは土の色を見て頷いた。「菌が動き始めた。堆肥場が息をしてる」
彼の声はいつもよりやわらかい。
「明日、子どもに手洗いと台所の拭き方を教える。新しい石鹸の試作品も渡す」
ユーマは笑った。「石鹸も“農具”だ。畝を整えるのと同じで、台所を整える」
その横で、資源再生ラインのガラス窯が明るさを増した。
割れた瓶や曇った器が溶け、細い流れになって型に落ちる。
ドワーフの職人が型を軽く叩き、気泡を逃がす。
妖精が息を吹き、縁に冷たい風を走らせる。
出来上がった瓶は、以前のものよりも口が真円に近く、蓋がぴたりと合った。
フロルは一本を取って光にかざし、「香りが逃げない」と満足そうに言った。
日が傾くころ、アーデンが回収報告を手に戻ってきた。
「周辺四村からの回収、初日で八〇箱。予想より多い。在庫の闇は深いな」
ユーマは数字を受け取り、会計台帳に入れる。
赤、緑、青。
危険が減り、再生が増える。
「明日から、搬入時間を区切ろう。朝は一般、昼は商家、夕方は遠来。夜間は輸送隊だけ。獣人の警備に夜食を支給。
リシアが横から控えの紙を差し出す。「すでに手配済み。テルマの布とクラウのパンが届く。レーンの宿に夜回りの席を用意した」
◇
夜、工場の明かりは落とさない。
だが、燃やすのは火だけではない。無害化のための光は、静かだ。
ユーマは有機ラインの釜に向かい、表示板に新しい工程を描いた。
“温度四八度、長時間、攪拌一、触媒:樹液微量、冷却は段階”
フロルが横から覗き込み、「やさしい香りが残る設計ね」と呟く。
「強い香りは隠すのに向く。暮らしには要らない。眠りと台所に寄り添う香りを、ここで作る」
ユーマは釜の縁を軽く叩き、妖精に目をやる。
「風を、一回、やわらかく。そう、今」
妖精がふっと息を送る。
蒸気は回り道をして、冷たい管を降り、透明な液となって器に落ちた。
フロルは指先にほんの一滴を取り、腕の内側に乗せた。
呼吸が静かになる香りだった。
「コスメティーク、いける」
彼女は目の端で笑い、瓶に白い札を結んだ。「試番一号。夜用」
その間にも、金属安定化の炉は働き続ける。
フォルテが鋳型を傾け、黒い糸を含んだガラス塊を次々に出す。
エルフの検査官が、一本ずつ魔印を押す。
獣人の若者が黙って運び、荷台の上に布を敷く。
ふと、その若者がユーマに声をかけた。
「こういう仕事、初めてだ。……剣を握るより、腹が減らない」
ユーマは頷く。「守るために剣はいる。守り続けるために、こういう仕事がいる」
若者は照れたように笑い、肩の力を抜いた。「明日も来る」
◇
翌朝には、生活必需の統一が街に見える形で現れた。
石鹸、拭き布、泡立て器、小瓶の香り水、薄手の手袋。
ラベルには、絵でわかる使い方と、禁じることがやさしい言葉で書かれている。
「泡は強ければ良いわけではない」「台所の刃はよく拭いて眠らせる」「手のひらを大事にする」
店の前で、フロルが台所の拭き方の手本を見せ、ベイルが手洗いの歌を子どもたちに教える。
妖精が瓶の蓋をちょんと叩くと、ふわりと香りが広がり、子どもたちが笑った。
「台所は畑だ。まな板は畝で、包丁は鍬。拭かなければ、雑草が生える」
ベイルの言葉に、母親たちが真面目に頷く。
ユーマは脇で、購入記録を会計台帳に入れていく。
医療費の予測グラフが、わずかに下向いた。
「良い」
彼は小さく呟き、紙を閉じた。
同じ頃、
テルマの布が規格になり、洗浄の水温と乾燥時間が貼り出される。
宿の女将が腕まくりをし、若い従業員が手荒れの少ない石鹸を使って笑った。
「手が痛くならないなんて、夢みたい」
「夢じゃない。基準だ」
ユーマが言うと、女将は「はいよ、代表」と腕で汗を拭った。
◇
回収は周辺の村々にも広がった。
荷台に積まれた、過去が押し寄せる。
「こんなもの、家の奥から出てきた」「祖母の箱」「薬だと思ってた油」「名前がわからない粉」
アーデンの書記官が丁寧に話を聞き、リストに落とす。
値段は低くない。持ってきた勇気に対する支払いが含まれている。
ユーマは、列の最後尾にいた若い冒険者たちを呼び止めた。
「君らの荷袋にも、古いものが混じっていないか?」
彼らは顔を見合わせ、恥ずかしそうに頷いた。「遠征で拾ったやつ、売るのが怖くて」
「怖いのは良い。怖いから、正しい場所に持ってこられる」
ユーマは荷袋を受け取り、桜銅貨を数えた。「ありがとう。これが治安を上げる」
その日の夕方、回収箱には花が添えられていた。
誰かが置いていったのだろう。
“ありがとう”と子どもの字で書かれた札が一枚、紐に結ばれていた。
◇
工場は、工場らしくなっていく。
柱が増え、壁が伸び、屋根がつながる。
だが、ユーマは風の道を残した。
窓を高く取り、香りと熱がゆっくり抜けるようにし、光が床に落ちるようにした。
ドライアドが柱に触れて、「木が痛がらない」と言った。
フロルが笑う。「ここは、香りの工房でもあるから」
フォルテが鉄骨を締めながら、「音の抜けも良い」と満足そうに頷いた。
コスメティークの仮工房は、工場の一角に生まれた。
白い棚、磨かれた瓶、柔らかい布。
フロルが配合を指示し、妖精が微細な調整をし、エルフが保存の強さを試す。
最初に世に出たのは、洗顔石鹸と夜用の香、それから手のひら用の軟膏だった。
軟膏は医薬の窓口で、手荒れの人に配られ、笑顔が増えた。
夜用の香は、寝室の枕元に置かれ、宿の客がよく眠れると評判を呼んだ。
ユーマは帳簿で、その眠れた時間を数字に変えた。翌日の労働が少し伸び、事故が少し減った。
「見えない黒字」
彼はそう名付け、紙の片隅に小さく、花の印をつけた。
◇
もちろん、問題がないわけではない。
ある昼、有機ラインで冷却管が詰まり、圧が上がった。
エルフの検査官が真っ先に気づき、笛を吹く。
赤い灯が一つ灯る。
ユーマは走らない。歩幅を少し広げただけで釜の前に立ち、表示板を見て、指を二本、上に向けた。
「攪拌止め。温度、二下げ。冷却、別管。風、一回」
妖精が風を送り、獣人がバルブを回し、ドワーフが別管の接続を締める。
圧はゆっくり落ち、灯が青に戻った。
ユーマは確認し、短く言う。「再開」
終わってから、彼は全員を集めて言った。
「走らないのは、逃げないためだ。危険は、見えるほど弱い」
それで、誰も声を荒げなかった。
別の日、回収箱に、悪意の混ぜ物が紛れた。
国の古い商人が嫌がらせ半分に、使い道のない廃液を混ぜたのだ。
《真理視界》は見逃さない。
ユーマはその場で買い取り、危険優先の赤札をつけ、無機中和へ回した。
そして、**
倉庫、荷台、港。
線の先を、彼は追わない。
代わりに、相場を少し動かした。
その商人が得をしないように、だ。
「帳簿は、嘘を嫌う」
ユーマはそれ以上、何も言わない。
翌週には、その商人は姿を消した。
◇
一日の終わり、ユーマは会計台帳を開いた。
医療支出は、前月比で一二%減。
労働損失日数は、七%減。
物流破損率は、四%減。
危険注記の件数は、一週間で半分に。
再生素材の出荷は右肩上がり。
台所セットの売上は控えめだが、再購入率が高い。
洗顔石鹸は、医薬窓口の“相談”を減らした。
数字が、静かな街の音に変わる。
ユーマはペンを置き、窓を少し開けた。
夜の工場が、猫の喉のように、低く、気持ちよく鳴っている。
リシアが扉を叩き、湯気の立つ杯を二つ、机に置いた。
「いい一日だったわ」
「ああ」
「桜貨は、まだ回さないのね」
「路は敷いた。使える場所は整えた。匂いはきれいになり、台所は整い、眠りは深くなった。——通貨は、暮らしの上に乗せる」
リシアは微笑む。「あなたって、やっぱり会計士ね。順番を守る」
「順番を飛ばして儲けると、翌年の赤が泣く」
「泣くのは、数字?」
「人だ」
ふたりは杯を合わせた。湯気の香りが、夜の風に溶けた。
◇
数日後。
コスメティークの新作を試す場が、宿の小広間に設けられた。
働き手の女性たちが順番に席に座り、フロルが軽く手順を説明する。
「これは昼の香り。台所と相性が良い」
腕に一滴。
香りは強くない。けれど、指先が軽くなり、肩の力が抜ける。
「これは夜の香り。眠る前に、布に一滴」
目がやわらかくなる。
「この軟膏は、手のひらを治す。働き続けるために」
笑いが広がる。
「きれいって、こういうことか」
誰かがぽつりと言い、全員がうなずいた。
ユーマは壁際で、見えない黒字をまた一つ、心に書き足した。
化粧は、飾るためだけではない。
暮らしの矛を収めるためにある。
強い香りは戦に向く。
やわらかな香りは、休息に向く。
この街が選ぶのは、後者だ。
◇
港の先に、王都の小旗を掲げた艇が見えたのは、その翌週のことだった。
使節が来る。
領主からの照会が届く。
都市化の足音は、もうここまで来ている。
ユーマは焦らない。
桜貨の鋳型は、ミントの棚に置いたまま、そっと布をかけてある。
使える場所は整った。
回る路も整った。
あとは、街がひとつ息を整え、香りと台所がきれいになったことを、もう少しだけ、数字に刻む。
夜。
工場の灯は、今日も落ちない。
ベイルが畑の端で、手を洗い、空を見上げる。
獣人の若者が見張りを終えて、腰の袋を叩く。
エルフの検査官が帳面を閉じる。
ドワーフの職人がハンマーを置く。
フロルが瓶の蓋を確かめる。
リシアが紙を束ねる。
ユーマは、会計台帳を閉じ、ランプを少しだけ暗くする。
耳を澄ませば、街の音は、ほんのわずかに、前より静かだ。
それは、仕事が減ったのではなく、不安が減ったからだ。
「焦らず、競わず、ちゃんと儲かる」
独り言は、窓の外でほどけ、工場の屋根でやさしく跳ね返った。
きれいな香りと、きれいな台所。
そこから生まれる黒字は、きっと長持ちする。
ユーマはそう確信して、明日の回収表に小さな花を描いた。
⸻
サクラ総合商会 売上構成(第9話時点)
部門名 内容 月間売上(推定) 粗利率 コメント
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合計(第9話末時点)
• 月間総売上: 約38,600桜銀貨
• 営業利益: 約20,000桜銀貨(利益率 約52%)
• 雇用人数: 約280名(人間80名、妖精40体、ドライアド20体、ドワーフ50名、エルフ30名、獣人60名)
• 回収買い取り総額(月間): 約4,000桜銀貨(再利用による利益回収を含む)
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収益の仕組み(簡略説明)
• 廃棄を買い取って黒字化しているため、原価が通常より低い。
• 回収→無毒化→再販の三段階利益構造。
• 工場設備費は初期投資の半分を3ヶ月で回収。
• 村の総貨幣流通量は1.8倍。生活必需品価格は安定。
• 農作・宿泊・流通が“桜印”基準で統一され、外貨流出がほぼゼロ。
⸻
ユーマの経営方針メモ(帳簿抜粋)
「廃棄がある限り、資産は尽きない。
値をつけられないものにこそ、次の黒字が眠っている。」
「数字は、命の安定の裏に立つもの。
無毒化は医療費を減らし、医療費は余剰時間を増やす。
余剰時間が、人を創る。」
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