七不思議の噂
アラタはウーバー改めイオリの好感度アップイベントを上手くこなしたことにご満悦だ。
週末の記憶は未だ思い出せず、モヤがかかったままだが、少なくともイオリに対する漠然としたアラタの畏怖は、綺麗さっぱり消え去っていた。
「持物検査……異常なし」
イロハが保健室へ戻ってきた。アラタはカバンに変なものでも入っていたらとヒヤヒヤしていたが、杞憂で済んだらしい。
「渡瀬くんには……これから体育祭の準備をしてもらう……」
「体育祭? どうして風紀委員が?」
アラタが聞き返すと、隣にいたイオリが間に入った。
「基本的には体育委員の仕事ですが、体育祭は全校の秩序に関わります。風紀委員も積極的に関与すべきとの判断です」
真面目な風紀委員らしい模範解答だ。アラタは、チヅルの言っていた地下室に連行されるようなことはなさそうだ、と少しだけ安堵した。
アラタが緊張を滲ませながら体育館に足を踏み入れると、既に数名の生徒が作業中だった。その中に見知った顔はいない。いや、一人だけ知っていた。
「やあ、渡瀬くん。まさか君が体育祭の準備に来るなんてね。まあ、僕もいるから、わからないことがあったら気兼ねなく聞いてくれよ」
柔和な笑みを浮かべたアラタの担任、松根トオルだ。
アラタの脳裏が再び警戒体制に入る。アラタにその原因はハッキリとは分からない。実際はアラタの記憶が消えた、その現場にいたからなのだが、今の記憶を失ったアラタには、ただ『本能的な嫌悪感』としてしか感知できなかった。
「どうして、松根先生がここに?」
「松根先生は、風紀委員会の顧問も務めていらっしゃいます」
アラタの疑問に隣のイオリがすかさず答えた。
「そうなんだよ。生徒指導員としてね」
松根はそう言って軽くウインクした。くたびれた無精髭のおっさんのそんな仕草に、アラタの警戒レベルは最大限まで引き上げられる。
「それで、オレに何をさせようっていうんです……?」
「渡瀬くんには、他の一年生と一緒に体育祭で使用するゼッケンの仕分けをお願いするよ」
「ゼッケン……普通だな」
松根の指示により、アラタは体育館近くの空き教室へ移動し、ひたすらゼッケンをサイズごとに分け、記号順に並べるという作業に移った。あまりに地味な作業内容に、アラタが抱いていた大袈裟な警戒心は拍子抜けしていった。
作業していると、一年生の女子二人組が、アラタの横にやってきた。ロングヘアの子が常盤で、ショートヘアの子が山吹だ。
「よろしく、オレは特別研修生の渡瀬だ」
「渡瀬くんって、風紀違反で特別研修になったんですよね?」
常盤は率直に尋ねる。
「まあ、そんなところだ」
アラタは作業中の話題を探す。しかし、彼がこの学園で知っている無難な話題といえば、七不思議くらいしかない。
「二人はこの学園の七不思議の噂、知ってるか?」
「あ、知ってる知ってる! 定番のやつだよね。ほら、学園長の銅像の目が、毎日ちょっとずつ違う方向を見てる、ってやつ!」
山吹の話はアラタには初耳だ。
「なんだそれ、銅像って校門にあるやつか?」
「そ、あの、全然オーラのないおじさんの像!」
「うわ、そうなんだ、今度見てみよう。他には? 他に何か知ってる?」
「私が聞いたのはね、ちょっとロマンチックなの。中庭の桜の横に昔ポストを置いたら、投函されたラブレターが、朝になるといつの間にか消えてたって噂」
「そんなん、どうせ誰かが嫉妬で抜き取って捨ててただけじゃないか?」
「でも、それが何年も続いたんだって話だよ? さすがに最近は設置してないみたいだけどね」
それは調べようがないとアラタは落胆する。
「渡瀬くんは? どんな噂を知ってるの?」
「よし、聞いて驚け。これはオレが独自ルートから掴んだ真実だ。旧校舎の美術準備室に古い姿見があるだろ? あの姿見には幽霊が取り憑いてるんだ。しかも、その幽霊はいかがわしいことをする代わりに、見た奴の記憶を抜き取るらしいぞ!」
アラタが周りの空気を読まずに声量を一段階上げて大声を上げた瞬間、静かだった空き教室の空気が、まるで真空パックされたかのように、一瞬で固まった。
周囲でゼッケンを仕分けていた数名の手がピタリと止まる。そして、部屋の入り口付近にいた上級生も、まるで示し合わせたかのように、アラタの方を向いて静まり返ったのだ。
「あれ……皆さんどうしたんですか?」
(女子にする話題じゃなかったか?チーちゃんなら乗ってくれるんだけどな)
アラタの耳には、布が擦れる音さえ届かない。あまりの静寂に遠くで聞こえていた体育館の生徒の話し声まで、急に遠ざかったように感じた。
「渡瀬くん。私語は慎んでください」
背後から氷を砕くようなイオリの冷たい声が響いた。いつの間にか、足音ひとつ立てずにアラタたちの真横に立っていた。
イオリは、常盤と山吹に向かって静かに告げた。
「常盤さん、山吹さん。根拠のない噂話は、風紀の乱れにつながります。今日、この話題は禁止します」
そう言い放つと、イオリはアラタの隣にピタリと立ち、アラタから常盤たちを遠ざけるかのように、周囲を監視し始めた。その視線は、アラタと常盤たちの間の空間を遮断している。
「渡瀬くん。記憶の話は他人にしないと約束したはずです。他生徒との不要な接触は控えてください」
イオリがアラタだけに聞こえる声で囁く。その瞳には、単なる怒りを超えた、切迫した何かが宿っていた。
(……そんなにまずい話だったか?)
アラタの背筋を、旧校舎で感じたものとはまた違う、冷ややかな戦慄が駆け抜けた。
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