秘密の懲罰
アラタはまた黒い塊が目の前に現れるのではないかと警戒していたが、翌朝の登校風景はいつも通りだった。校門をくぐると、色とりどりの髪をなびかせた風紀委員たちが整然と並んでいる。
「おはようございます、渡瀬くん」
「おはようございます、出灰先輩」
平静を装い、アラタは挨拶を返す。
イロハの隣には、謎のクラスメイトとしてアラタが畏怖しているイオリが無言で立っていた。
アラタは横目で彼女を盗み見る。その表情は相変わらず読み取れない。ただ、その黒い瞳はアラタの動きを一挙一動追うような、鋭く、有無を言わせない強い視線だった。
アラタが一刻も早くこの場を離れようとしたその瞬間、イロハが一歩前に出た。
「渡瀬アラタくん……風紀委員会からの正式な指示が下りた」
イロハが眼鏡のブリッジを中指でクイと押し上げた。レンズが朝日に反射して白く光り、彼女の表情を一時的に覆い隠す。
「指示……?」
昨日、何やら処罰あると言われたことをアラタは思い出す。
(あの話まだ生きてたのか)
「あなたは……生活態度に改善の余地があると……風紀委員会で判断された」
「オレは真面目に学園に通っているだけですよ!?」
「先週、美術準備室に無断で立ち入り、扉を乱暴に扱いました……これは風紀違反」
扉は建て付けが悪いだけだ、と言いたいところだったがアラタは言葉を飲み込む。
「生活態度を指導するため……今日一日、風紀委員会特別研修生として、委員会活動に参加してもらう」
「と、特別研修生?」
そんな制度をアラタは初めて聞いた。
そこへイオリが、機械的な所作で胸元のタイをピシッと整えながら割って入る。
「基本的に、今日の放課後は私と行動を共にしてもらいます。問題はありませんね、渡瀬くん?」
それは、命令だった。よりによってアラタが最も警戒しているイオリと組まなければいけないのは最悪としか言いようがなかった。しかも、アラタはイオリの名前を未だに忘れている。
「……分かりました」
アラタは小さく答え、その返事を聞いたイオリは、すぐに次の登校してくる生徒に視線を移した。
放課後の不安を抱えていたアラタは、授業内容が全く頭に入らなかった。気がつけば、その日の残りはホームルームだけだった。
「アラタくん、懲罰房行きらしいですな?」
隣の席に座るチヅルはどこから聞きつけたのか、青い髪をなびかせてアラタの机に身を乗り出す。
「風紀委員を手伝うだけだよ」
「この学園の地下には秘密の懲罰房があるという噂ですぞ?」
「この校舎に地下なんてねぇよ」
そこへ、教室の扉がノックされる音が響いた。そこに立っていたのは、風紀委員長のイロハだった。
「渡瀬アラタくん……悪いが、今すぐきてほしい……」
「アラタくん、風紀委員長のズリパイですぞ!?今から懲罰房に連れて行かれるんだ!」
教室中がざわめく中、イロハの姿を見てチヅルが興奮している。
「ズ、ズリパイ……?」
イロハは顔を真っ赤にし、その豊かな胸元を隠すように腕を回して身をすくませた。だが、その動揺を断ち切るように、イオリが背後に現れる。
「出灰先輩、時間の無駄です。行きましょう」
重い足取りでアラタは席を立ち、二人の美少女に挟まれるようにして廊下を歩き出した。
「アラタくん、君のことは忘れないぞ〰️」
嘘泣きをするチヅルに手を振られながら、アラタは教室を後にした。
教室の喧騒を背に、アラタはイロハとイオリに挟まれるようにして廊下を歩き出した。
「あの、出灰先輩」
「なに……?」
「本当に、研修生としてのお手伝いなんですよね? どこへ向かっているんですか」
突き当りまで来ると、イロハが立ち止まった。目の前にあるのは、保健室の扉だ。
イロハは一枚の紙を差し出した。そこには「特別研修生:健康・物品検査」と書かれていた。
「身体検査?」
「生活指導の一環……風紀を乱す要因がないかチェックする」
イロハはそう説明しながら、手にしたバインダーをぎゅっと握りしめた。なぜ今、放課後の委員会活動で身体検査なのか、アラタには理解できなかった。
「今、定期検診の時期でもないのにですか?」
(ただの罰にしては不自然すぎる。風紀委員の連中は、オレの何を調べたいんだ?)
「基本的に、特別研修生専用の、より厳密な検査となります」
イオリが静かに割り込んできた。彼女は扉の鍵を開け、中へ入るよう促す。
保健室の中は養護教員もおらず、静まり返っていた。
「身体検査って出灰委員長が?」
アラタがそう言いかけた瞬間、イロハは肩をびくりと跳ねさせ、猛烈な勢いで首を横に振った。
「わ、私は持物検査をする…… 身体検査は渡瀬くんとイオリで実施するように」
イロハはそう言い残すと、アラタのカバンをひったくるように奪い、逃げるように保健室を飛び出していった。
「イオリ……後は頼んだ」
残されたアラタは、今の言葉を反芻する。
(イオリ……さっき出灰先輩は彼女をそう呼んだ。チーちゃんがウーバーなんて変な名前で呼ぶから、今の今まで勘違いしていた)
アラタは反射的に後ずさり、保健室の扉を振り返った。イロハはもういない。畏怖の対象であるイオリと二人きりだ。
鍵も開いているが、この重々しい空気の中、逃げ出せる保証はない。広いはずの保健室が、まるで密室のように感じられ、アラタの全身の神経が張り詰める。
「あの、今更で悪いんだけど、ウーバーさんはイオリっていうの?」
この緊張感に耐えきれずアラタは口を開いた。
「私の名前はウーバーではありません」
その呼び方をイオリは即座に訂正した。
「え、じゃあ……さっきのイオリって名前は?」
「先週、自己紹介したばかりではないですか、もう忘れたんですか?」
アラタはイオリのことを思い出そうとすると、頭に白いモヤがかかるのだ。これを言って信じてもらえるかは甚だ疑問だった。これは、ウーバーという呼称への弁明だけではない。アラタ自身の切実な問題だ。
正直に打ち明けるしかないかと彼は腹を括った。
「あの……実は、ちょっと記憶が曖昧になってて……君のことだけ、うまく思い出せないんだ」
「……何を、言っているんですか?」
一瞬の沈黙。静寂だけが、アラタたちを支配した。
「ごめん……君に関する記憶だけが、綺麗に抜け落ちてるんだ」
イオリの黒い瞳の視線が泳ぎ、結んでいた唇がわずかに震える。
「ご……ごめんなさい……私」
その一瞬、イオリの表情が、仮面が剥がれるように崩れ、ただの女子高生に戻ったかのように見えた。しかし、すぐに張り詰めた、元の顔を取り戻す。
「私の名前は、
「じゃあ、なんて呼べばいい?」
「覚えられないのならイオリでいいです」
「わかった、イオリ。イオリさんで」
アラタとイオリの距離が少し縮まった。
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