記憶がない!

 夜明け前の蒼い空が、網膜を刺す。


 渡瀬アラタは、駅と自宅を結ぶ道端で、制服姿のまま立ち尽くしていた。

 肩にかかるカバンの中には、手つかずで冷え切ったままの弁当が、重く沈んでいる。


「何を……してたんだ、オレは……?」


 震える指先でスマホの日付を確認する。表示されたのは「日曜日」。


 弁当を持って登校した記憶はある。だが、最後に明確な意識があったのは「土曜日」の放課後だ。


「それから、どうしたっけ?」


 脳内には濃い霧が立ち込め、丸一日分の記憶がゴッソリと抜け落ちていた。


 重い体に鞭を打とうとした瞬間。アラタは奇妙な違和感に気づく。倦怠感はある。なのに、全身はかつてないほどの活気に満ちあふれ、羽根が生えたように軽い。


 ふと、意識が腹部へと向いた。へその下、いわゆる「丹田」のあたりを触ってみる。そこには、まだ微かな熱が宿っていた。


「丹田──って、なんだっけ?」


 無意識に漏れたその単語に呼応するように、脳裏を二人の少女の残像がよぎった。ノワールとグリーズだ。しかし、強固な蓋をされたアラタの記憶は、彼女たちが誰なのかを教えてはくれない。


 ドクン、と心臓が跳ね上がる。


 猛烈な羞恥心と、言葉にできない高揚感が全身を駆け巡った。

 結局、その高揚感を引きずったまま帰宅したアラタを待っていたのは、親からの容赦ない説教だった。


 親の説教を逃れ、ようやく自室で一人になれたアラタは、土曜日から着続けていたはずの制服を脱ぎ捨て、ベッドの上に広げた。


​「待てよ。これ、おかしくないか?」


​ アラタは、指先に触れた生地の感触に眉をひそめた。


 丸一日以上、あちこちを彷徨っていたはずだ。だが、袖口には埃一つ付いていない。まるで時間が巻き戻ったか、あるいは誰かが執拗に手入れをしたかのような不気味なほどの清潔さだった。


​ 次にアラタはスマホのメモ帳を開く。


「旧校舎の古い姿見対策?」


 そこには、学園七不思議の一つ、美術準備室にある「古い姿見」を調査していた痕跡が記されていた。


「あの鏡のゲーム的なイベントが起こったってわけか」


 美少女ゲームの箱庭であるこの「色込学園」なら、記憶を吸い取る鏡くらいあってもおかしくない。そう思いアラタは泥のような眠りについた。


 その夜、アラタは夢を見た。淫らで、熱い、夢。


 二人の少女が、アラタの下半身を貪るように舐めとっている。一人は黒髪、もう一人は銀灰色の髪。


「な、なんだ、今の……っ!?」


 飛び起きたとき、丹田は火を噴くように熱かった。

 結局、悶々としたまま月曜日の朝を迎えることになる。


「……おはようございます、渡瀬くん」


「お、おはよう……」


 校門で挨拶をしてきたのは、風紀委員長の出灰いずりはイロハだった。


 彼女はアラタと目が合った瞬間、林檎のように顔を赤らめて視線を彷徨わせる。

 アラタは忘れている。だが、イロハの脳裏には、彼に太腿を鷲掴みにされ、その丹田を必死に舐め上げた感触が鮮明に焼き付いていた。


(風紀委員長の名前……ああ、出灰だ。でも、なんだろう……)


 イロハを見ていると、昨夜の夢の少女がフラッシュバックする。


 無意識に視線が彼女の足元へ吸い寄せられ、スカートに隠された絶対領域の肉感を、無意識に目測してしまう。


「わ、渡瀬くん?」


 熱烈すぎる視線に気づいたイロハが、さらに顔を赤くしてスカートの裾をぎゅっと握りしめた。


「い、いえ! なんでもありません!」


 慌てて視線を逸らし、その隣に立つもう一人の風紀委員に挨拶を向ける。


「おはようございます」


 その顔を見た瞬間、アラタの心臓が警鐘を鳴らした。


 黒髪の姫カット。凛とした立ち姿。


 見覚えがあるはずなのに、思い出そうとすると脳内が「白い闇」に塗りつぶされる。


(……名前が、出てこない)


「渡瀬くん、何か?」


 怪訝そうに尋ねる少女、烏羽うばイオリの声は、温度が低く平坦だ。


「い、いや、本当になんでもないんだ」


 アラタは逃げるように教室へと駆け込んだ。


 教室では、いつものようにチヅルが菓子パンを齧っていた。


「アラタくん、おはんよ。今日も冴えないツラをしてますな」


「チーちゃん、おはよう……いや、なんか変な夢を見た気がしてさ」


「変な夢? んふふ、アラタくんは相変わらずのスケベですな」


 いつもの軽口に安堵する。だが、アラタの顔は晴れない。


「それだけじゃないんだ。土曜日の出来事を、丸ごと覚えてない」


「おやおや、若年性健忘症ですか? 心配なら保健室へ行きたまえ」


「いや、オレは美術準備室の姿見のせいだと思ってる。あれは、夢を見せる代わりに記憶を吸い取る鏡なんだよ」


「そんな物騒な噂、初耳ですぞ」


 二人が駄弁っていると、教室のドアが開き、先ほどの風紀委員が入ってきた。


「……あの風紀委員、クラスメイトだったのか」


「んふふ、ひどいボケっぷりじゃな。愛しの『ウーバー』ですぞ?」


 ウーバー。その愛称を聞いても、アラタの心には何も響かない。


 彼は『ノワール』どころか、烏羽イオリに関する全ての記憶をロストしていた。


 チャイムが鳴り、担任の松根が教卓に立つ。


「よーし、朝のホームルームを始めるぞ」


 無精ひげを生やした、どこにでもいそうなモブ教師。しかし、アラタが記憶を失った現場にいた彼の顔は、アラタに強烈な拒絶反応を与えた。


(……なんなんだ、このモブ教師への違和感は!?)


 ここに来てアラタは週末の記憶がないことに疑問を覚え始めた。単に記憶がないだけなら理解できる。しかし、特定の誰かに拒否反応が出るのならば、その人物に何かされたのではないか。もしくは、その人物の秘密を知ってしまったのではないか、という疑念だ。


「アラタ、お前……大丈夫か?  ずっと変な顔してるぞ」


「……山田。お前は、オレの味方だよな?」


 アラタは前の席の山田に問いかける。

 一人で抱え込むのは限界だ。失われた土曜日を取り戻すには、目撃者と協力者が不可欠だ。


「なんだよ、改まって」


「んふふ、ウチはいつでもアラタくんの味方だぞ」


 二人の言葉に、アラタは強く頷いた。


「山田、チーちゃん。協力してくれ。オレはもう一度、美術準備室の姿見を調べる」


 失われた記憶、丹田の熱、そして謎の風紀委員。

 アラタは再び、七不思議の謎へと足を踏み入れる決意を固めた。


「いや、俺は行かない」


 山田は味方ではなかった。

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