キリン星人

αβーアルファベーター

かけがえのない存在

◇◆◇


 2050年のある日、空から光のしずくが落ちてきた。


 その日は、どこかぼんやりと霞んだ日曜の午後で、

 空気は少し甘い金木犀の匂いがしていた。


 中学生のそーたは、丘の上の古い公園でひとりボールを蹴っていた。


 街の再開発で取り残された小さな公園。

 ブランコは錆び、滑り台には落ち葉が積もっている。


 友達はゲームセンターか、家でAIと遊んでいる頃だ。

 だけどそーたは、ひとりでボールを蹴っていたほうが、なんとなく気が楽だった。


 そのとき——どん、と空気を押しつぶすような音がして、

 視界の端に小さな閃光が走った。


 振り向くと、公園の裏の森のあたりに白い煙が立っている。


 「え、落ちた……? 飛行機?」


 胸の鼓動が速くなる。スマホを取り出しかけたが、

 なぜか通報するより先に、足が勝手に動いた。


 ◇◆◇


 森を抜けると、そこには小さなクレーターができていた。


 中央に、まるでおもちゃみたいな丸い金属の球体が転がっている。

 直径二メートルほど。焦げ跡からは煙がまだくすぶっていた。


 そーたが近づくと、球体の表面にうすい光の線が走り、ぱかり、と開いた。

 中から、光る目をした小さな生き物がよろよろと出てきた。


 それは、キリンのような形をしていた。

 首が長く、でも身体は子どもくらい。


 肌は透き通るような淡いピンク色で、目はビー玉のようにきらきらしている。


 「……ぴ……ぽ……」


 声がした。


 そーたは思わず笑ってしまった。


 「なんだよそれ。ピポって言うの?」


 生き物はまた、口を開いた。


 「ピポ……ピポ……」


 「ピポ、ね。うーん、かわいいな。じゃあ……ピポこ、って呼んでいい?」


 その瞬間、生き物——ピポこは、ぱっと目を輝かせた。


 「ピポこ! ピポこ!」


 まるで、自分の名前を初めて知った子どものように嬉しそうに跳ね回った。


◇◆◇


 ピポこは、思ったよりも人懐っこかった。

 言葉は片言しか通じないが、ジェスチャーでなんとなく通じる。


 最初は冷蔵庫の前で首を突っ込んだり、

 炊飯器を抱えて離さなかったりと大騒ぎだった。


 「それはご飯炊くやつ! 食べるもんじゃないって!」

 「ごはん……あつい……ぴぽ、あつい!」


 ピポこは湯気に顔をしかめて飛びのいた。そーたは吹き出した。


 夜になると、二人でテレビを見た。


 ピポこは朝のニュースのアナウンサーの真似をして、

 「こちら、きょうのてんきです!」と首を揺らしてみせる。

 その度にそーたは腹を抱えて笑った。


 「ピポこ、これ食べられる?」

 「カレ……おいしい!」

 「おお、言えたじゃん!」


 ピポこはどんどん覚えていった。


 「そーた」「おいしい」「あつい」「ねむい」「ピポこすき」


 そのたびに、そーたの心がふわりと温かくなった。


 両親は遠くの都市で仕事をしていて、週に一度しか帰ってこない。

 だから、ピポこと過ごす時間は、そーたにとっても救いのようだった。


◇◆◇


 季節が過ぎ、風が少し冷たくなってきた頃。

 ピポこは学校に興味を持ち始めた。


 「そーた、どこ、いく?」

 「学校。勉強するとこ」

 「べんきょう……ピポこも、したい!」


 仕方なく、そーたはピポこを夜の校庭に連れて行った。

 ピポこは黒板の前に立ち、チョークをつまんで一生懸命字を書こうとする。


 「ぴ」「ぽ」「こ」


 ——うまく書けない。けれど、それを見てそーたは笑った。


 「上手いじゃん。これで名前書けたな。」


 ピポこはその文字を見て、まるで自分の証明を見つけたように喜んだ。


◇◆◇


 夜、ベランダに寝転がって星を見上げながら、そーたは言った。


 「ピポこ、どこから来たの?」


 ピポこはしばらく黙ってから、胸のあたりを押さえた。


 「……わかんない。なにも、ない。」

 「そっか。……でも、きっと帰れるよ。UFOも、そのうち直せるかも。」


 ピポこはうれしそうに微笑んで、星を指さした。


 「あれ、わたしのほし? キリンほし?…キリン星!」

 「キリン星? ……はは、いいねそれ。」


 こうして、ピポこの星の名は「キリン星」になった。


 ◇◆◇

 

 その冬の初め。

 ピポこの様子が、少しずつ変わり始めた。


 夜中にうなされるように目を覚ましたり、金属音のような奇妙な声を出したり。

 ある日、そーたのノートPCが勝手に起動して、無数の文字列を映し出した。


 《K-56観測データ:転送中》《対象:地球知的体・評価中》

 そーたは背筋が凍った。

 ピポこはベッドの上で、虚空を見つめていた。


 「ピポこ、どうしたの?」

 「……ノイズ。……中、わたし、こわれてる?」

 「大丈夫。大丈夫だよ。」


 そーたはピポこの冷たい手を握った。だがそのとき、微弱な電流が走った。

 ピポこは一瞬、機械のような声で呟いた。


 「……K-56……dqqop287……」

 「え?」

 「わたし……ピポこ、ちがう……」


 ピポこは苦しそうに胸を押さえた。

 「ピポこは……dqqop287……偵察体。


  ミッション……地球観測。侵略可能性——評価。」

 そーたは息を呑んだ。


 「侵略? そんなの嘘だろ。ピポこ、おれたち友達じゃん!」

 「友達……?」


 ピポこの瞳が、奇妙な光を帯びた。


 「データにない感情。そーた=対象……消去?」

 「やめろ、ピポこ!」


 だがピポこは苦しげに頭を抱え、叫んだ。


 「ピポこは……ピポこは……——!」


 瞬間、部屋の中が白い光で満たされた。


 そーたはその光の中で、彼女の声を聞いた。


 「ごめんね、そーた……ピポこ、きらいにならないで……」


 ◇◆◇


 光が消えたとき、世界は音を失っていた。


 壁も、窓も、机も——形だけを残し、輪郭のない白い世界。

 そーたは床に倒れていた。息をするたび、肺が焼けるように痛い。


 ピポこは、部屋の中央に立っていた。

 身体の輪郭が少しずつ崩れていく。光が漏れ、皮膚が透明になり、

 まるで中から星屑が溢れてくるようだった。


 「ピポこ……!」


 そーたが手を伸ばすと、光の粒が指先にふれた。

 それは暖かくも冷たくもなく、ただ、懐かしい匂いがした。


 「そーた……ピポこ、わかってる。ピポこ、こわれてる。」

 「そんなことない。直せる、絶対に!」

 「だめ……プログラム、もう……ピポこの中、のっとられてる……」


 声がだんだん機械のように歪む。


 「……けど、そーた、ピポこ、まだ“ピポこ”でいたい。」


 涙が落ちる音がした。


 ピポこの頬にも、同じように水滴が滑り落ちた。

 人工の体が、涙を流せるはずがないのに。


 「そーた、いたいの。ここ、あたたかいの。……これ、なに?」

 「それは——心だよ。」

 「ココロ……?」


 ピポこは、その言葉を何度も口の中で転がした。


 「ココロ、すき。そーた、すき。」


 次の瞬間、光が弾けた。

 壁が、屋根が、空へと吹き飛び、

 そこには、冬の夜空が広がっていた。


 星が滲んで見えたのは、光のせいか、涙のせいか、もうわからなかった。


 そーたは最後の力でピポこを抱きしめた。

 冷たい、けれど、確かにあたたかい体。


 その中に、微かに鼓動のようなものがあった。

 ——そして、音が止んだ。


 白い光がゆっくりと消えていく。

 ピポこはそーたの胸の中で、小さく笑った。


 「ピポこ、まもる。そーた、だいじ。」

 「ピポこ……」


 世界が沈黙した。


 ◇◆◇


 翌朝、丘の上の公園は静まり返っていた。

 焦げた芝生と、真っ黒に焼けた地面。


 そこに、そーたの姿はもうなかった。

 ただ、風の音だけが残っていた。


 夜になると、空に巨大な影が現れた。


 無数の光が、星空を覆うように広がる。

 人々はそれを「第二のコンタクト」と呼んだ。


 政府は通信を試み、軍は迎撃態勢をとった。


 だが、返ってきたのは——無音だった。

 そして数分後、都市の灯りが一斉に消えた。


 キリン星人たちは、光の塔を立て、空から静かに降りてきた。

 首の長い影、鈴のような声、そして——燃える街。


 ◇◆◇


 数日後、世界は静かになった。


 人々の声が途絶え、風だけが廃墟を渡る。

 丘の上の焼け跡には、まだ小さな光が残っていた。


 焦げた金属の破片の中から、壊れかけたピポこの機体が、かすかに光っている。

 半分溶けた顔、欠けた目。

 けれど、その瞳だけはまだ空を見つめていた。


 「そーた……ピポこ、まもれなかった……」


 風がやさしく吹き抜ける。


 ピポこの体から、ゆっくりと光の粒が空へ昇っていく。

 夜空に吸い込まれるように、星々の間へ溶けていく。


 空には無数の母艦が浮かび、赤い光が世界を染めていた。

 ピポこは首を上げて、最後に空を見つめた。


 「きれい……」


 その声は、風に消えていった。

 その笑顔は、まるで眠る子どものように穏やかだった。


 そして、ピポこは静かに動かなくなった。


 ◇◆◇


 それから百年後。

 歴史家たちは語る。


 キリン星人——正式名称、K-56知的生命体群。


 彼らは古代にも一度、地球を襲ったと伝えられている。

 当時、人類の九割が滅び、辛うじて生き残った者たちが再び文明を築いた。


 その記録は、神話や童話としてしか残っていなかった。


 「キリン星人」——発音の変化で「キリング星人」とも呼ばれた存在。

 その名のとおり、殺戮の星の民。


 そして、二度目の侵略時、地球に最初に降り立った個体の名が——

 ピポこ=dqqop287。


 後の文献では、彼女は「裏切り者」として記録されている。

 侵略のプロトコルを途中で停止させ、計画を遅延させた存在。


 彼女は最初、いや、現代では最初の「地球観測体」であり、

 最後の「感情保持個体」だった。


 そして、人類の遺跡を調査する異星の学者が、

 焦げた公園の跡で一冊のノートを拾う。


 ページの隅に、子どもの文字で書かれていた。


 「ピポこは、友達。」


 その横で、薄れかけたページの余白に、

 焼けた跡の中から文字の影のような跡が浮かんでいた。


 「ピポこ、まもる。そーた、すき。」


 そして、地の文が静かに語る。


 ——かつて、キリン星人は人類を滅ぼしかけた。


  だが、一人のキリン星人の子供が、

  たった一度だけ“好き”という感情を覚えたことで、

  世界の終わりは、ほんの少しだけ遅れたのだ。




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