第一章 シンフォリア|第二話(4)|夜の屋上、遠き影を見据えて

 大都市シンフォリアの頭上を、あの“虹色の球体”が通過してから、一日が経とうとしていた。


 夜。

 空に浮かぶ月は、未だ街に漂うエトスの残光を薄く纏い、

 静謐な光を落としている。

 停電した建物では、窓辺に置かれた小型ランプがかすかに揺れ、

 壊れた街灯の代わりにエトスが人影を照らしていた。


 まるで──

 混乱の中にだけ咲いた、奇妙な“イルミネーション”。


 20時を過ぎたシンフォリア市民交流館〈アークホール〉には、

 遠い作業音や人々の声が、波のように聞こえてくる。

 地上三階、地下一階。

 「笑顔と学びと文化の祝福」──かつてそう掲げられ、

 世界一平和な都市の象徴だった施設は、いま、

 800人近い避難民の息遣いで満ちていた。


 簡易マットの上では、不安を漏らす者。

 泣き叫ぶ赤ん坊。

 苦しげに咳き込む老人。

 疲れを滲ませながらも無邪気に戯れる子どもたち。

 妊婦、障がい者、帰宅難民──。


 “明日”を見失った人々が寄り添い、

 それぞれの影を抱えながら時間を過ごしている。


 とはいえ、怪我人の呻き声はない。

 この場所には、静かな安堵がわずかに戻りつつあるようだった。


 アークホールは指定避難所であることから、

 セントラル・アーカイブから優先的に電力が供給されている。

 高い天井から降り注ぐ灯りは、

 日常とは異なる柔らかさで人々を包み込み、

 淡い光とともに、暗闇をそっと追い払っていた。


 ──ホール脇の小部屋。

 本来は職員用のデスクが並ぶその部屋へ、

 赤いジャケットとベレー帽をつけた一人の女性が足を踏み入れる。


 胸元にはルメイア戦闘員のエンブレム。

 茶色の長い髪は歩みに合わせて揺れ、

 耳元の赤いアクセサリーが、

 部屋の灯りを受けて、きらりと一瞬の光を放った。


 手には白い紙を挟んだバインダーとペン。

 部屋の一角に設けられた簡易医療スペースへと向かうと、

 白衣を着た中年の女性が、気配に気づいたように顔を上げた。


「──あぁ、ルージュ。どうだった?」


 優しく、しかし疲れの隠せない声。

 ルージュは小さく頷き、手元の紙へ赤い瞳を落とした。


「うむ。状況は……良いとも悪いとも言えないな。」


 かすかに眉を寄せながら続けた。


「吸入器が明らかに足りていない。

 喘息持ちの子どもや老人が多いようだ。

 私の方からルメイア本部の医療班に追加を要請してみる。」


 白衣の女性は、渋い顔で小さく息をついた。


「……やっぱりね。病院は緊急の患者さんでいっぱいらしいから、連れて行くことも難しいものね。」


「あぁ。本音を言えば、真っ先に病院へ向かうべきだと思っていた。だが――ここも救護班の手が明らかに足りていなかった。少しでも病院の負担を減らした方がいい。」


 女性はそこで言葉を止め、わずかにためらうようにルージュを見た。


「……大丈夫?」


 メモに視線を落としたまま、ルージュが返す。


「ん? 何がだ?」


「詳しくは知らないけど……以前、別都市の任務で“病院に駆けつけず、倒壊現場で人命救助を優先したこと”を、責めようとしたお医者さんがいたでしょう?」


 ルージュは一瞬だけ視線を右上に泳がせ、思い返すように軽く息をついた。


「ああ……あったな。よく覚えてるよ。」


「あなたの“祝福”は、『傷の治癒』というとても特別な能力だから……判断に迷うこともあるでしょうけど。多くの医者はね、あなたの活躍に感謝してるのよ。もちろん、私も。」


 ルージュは微笑み、片足に軽く重心を乗せた。


「心配いらない。私は大丈夫だよ。」


「お願いね、ルージュ。」


 そう言われると、彼女は茶色い髪を耳に掛け、顎に指を添えた。

 思考の流れをほどくように、メモへ視線を落とす。


「男性と女性、それに子どもの生活スペースは……できる限り分けたいが、

 高齢者に階段を上がらせるわけにもいかない。女性の中には妊婦もいる。

 そこは医療班や職員とも連携を取って判断しつつ、優先的に顧慮しなければな。」


 言葉を重ねるたび、頭の中に避難所全体の配置図が描かれていくようだった。


「生活用品の管理場所も、職員エリアの広さでは間に合っていない。

 現状、不要な物は、一度別室に集めるか、

 外部に保管用スペースを設ける必要がある。

 それと、まだ家に帰れない者も多いから──」


 そこまで言いかけた時だった。


 隣から小さな音がして、ルージュはそちらに目を向けた。


 白衣の女性が、

 水と、非常食ヴァイタロンを差し出していた。


「あなたも少し、休みなさい。」


 患者を気遣うときと同じ、

 柔らかい笑みが浮かんでいる。


 小さく息を吐き、バインダーを「……そうだな」と、胸元まで下すと、

 素直にそれを受け取り、近くの長椅子へ腰を下ろした。


 白衣の女性は申し訳なさそうに眉を下げた。


「ヴァイタロンなんだけど、ミルクナッツ味でごめんなさいね。

 一応、私の手元にあったやつだから。」


 「構わない。むしろ、いつもカカオばかり食べているからな。

 たまには違う味も楽しみさ。」

 

 首を横に振って、微笑む。

 ヴァイタロンの袋を開けながら、ふっと小さな笑いを漏らした。


「それに、マオのやつが以前“チョコの苦味は覚悟の味”なんて言い出して、

 食べるたびにその言葉を思い出してしまってな。」


 白衣の女性は思わず口元を押さえて吹き出した。


「まあ、“覚悟の味”って……何それ」


「さあ? あいつも変わっているからな。

 “変人の舌は奇天烈である”──ということだろう。」


 言葉に冗談めいた音が混ざり、彼女自身も“ふふ”と笑う。


 その場の張り詰めた空気が、ほんの少しだけ和んだ。


 彼女が栄養を補給するそばで、

 白衣の女性は医療道具の整理を続けていた。

 包帯、消毒液、携帯型診療具──

 箱の中には、まだ使われていない道具がぎっしりと並んでいる。


 その光景を眺めながら、ふっと明るい声を漏らす。


「これも、あなたのおかげなのよね。」


 ルージュは喉を潤していた水を口から離し、

 小さく「ん?」と返した。


「さっきの話よ。あなたがここへ駆けつけてくれたから。

 医療品だって、まだこんなに余ってる。

 “祈癒きゆのヴェルメリオ”の名は、まだまだ健在ね。」


 部屋を軽く見渡しながら言うその声には、

 心の底からの感謝が乗っていた。


 もしがいなければ──

 負傷者や衰弱した人間で、この医療スペースは

 とうに溢れ返っていたかもしれない。


 ルージュはその言葉を否定しようとしたわけではなく、

 ただ静かに微笑んだ。


 少し赤い瞳を細め、思い返すように言葉を紡ぐ。


「私だけの力ではないさ。

 ドクターやルアン、みんなが一緒だからこそ……だ。

 正直、私ひとりができることには限界があるからな。」


「うふふ。本当に、入隊した時から変わらないわね。

 こんな時くらい、胸を張ってもいいのよ?」


 女性が肩越しに振り返って言う。


「うーむ……そうだな。

 だが、それはすべてが片付いた時までお預けだ。

 まだまだ、明日回らなければならない避難所もたくさんある。」


 再びバインダーを手に取り、メモをめくる。

 そこには縦横にびっしりと並ぶ避難所施設の名前。

 チェックが入っているのは、ごく一部だけ。

 ほとんどが、まだ“未チェック”のままだ。


「明日の朝は早くに出発を──」


 そう言いかけた瞬間。


 大ホールの方で、

 ざわ……と、人々がざわめく声が上がった。


 ルージュと女性は「なんだ?」と、同時に顔を上げた。


 互いに短く囁き合い、

 心配の色を浮かべながら、部屋の出口へと向かう。


 扉を押し開くと、まず視界に飛び込んできたのは、数人のルメイア隊員の後頭部だった。

 黒いジャケットを纏った男性隊員たちが、何かに吸い寄せられるように大ホールの中央へ視線を向けている。


「何かあったのか?」

 そう声をかけると、ひとりの隊員が振り返り、どこか嬉しさを隠せない表情でホール中央を指差した。


「あ、ルージュさん! 見てください、あちら!」


 目を凝らし、人だかりの奥を覗き込んだ。

 そしてその理由に気づいた瞬間、思わず短く息を漏らす。


「あっ……」


 大ホールの中央付近──

 そこには、母親に抱えられた黒髪の少女の頭を、しゃがんだ姿勢で優しく撫でている、ひとりの男の姿があった。


 初老を思わせる白髪。

 整えられた髭と、灯りを映して温かみに揺らめくオレンジの瞳。

 純白のスーツに赤いネクタイ──その佇まいは、まるでこの混乱の夜だけが冥府から切り離され、清浄に満たされているかのような“異彩”を放っていた。


「怖くはなかったかね?」

 男は、父性を感じさせる低く穏やかな声で、少女に問いかける。


 少女を抱く母親の表情は恍惚に満ち、涙が今にもこぼれそうなほど、胸の奥の感情に押し流されている。

 そのすぐ隣では、母の肩にそっと手を添える夫らしき男性が、同じように安堵と感激を分かち合う。

 少女が無事に守られたという事実を、家族三人が互いの温度で確かめ合っている──そんな一体感が、そこにはある。


「うん!“るめいあ”のお兄ちゃんがここにつれてきてくれてね、そのあともママとパパが一緒だからだいじょうぶだった!」

 黒髪を三つ編みにした少女は、母親の頬を触りながら元気に答える。


「そうか。」

 男は深く頷き、優しい笑みを浮かべた。


 少女はさらに続けた。

「だからね、ママとパパがケンカして“はなれたり”しないようにね、こんどはアミーがね、ちゃんと“みはって”てあげるの!」


「こ、こらアミー、なにを言ってるの……!」

 母と父親の焦り混じりの声に、周囲が柔らかく笑い出す。


 男は白い歯を覗かせて微笑み、オレンジの瞳を人々に向ける。

「実に頼もしい。将来は優秀なルメイアになるかもしれませんぞ。」


 温かな笑いが、大ホール一面に広がった。

 階段の方からも人々が集まり始め、その場の空気は、まるで一瞬だけ災厄を忘れたような明るさに満ちていく。


「ママとパパを、しっかり守ってあげるんだぞ。」

「うん!」

 少女の声が、夜の避難所に響き渡る。


 男は、家族へ落ち着いた声で続けた。

「元気なお子さんだ。ご無事で何よりでしたな。」


「すみません……ありがとうございます、ディセリオ元市長様。」

 母、父共に深々と頭を下げた。


 ディセリオはしゃがんだ姿勢のまま周囲に視線を向けて問いかける。

「みなさんも、大事ありませんかな?」


 その瞬間、

「はい!」

「あなたのお顔を見れて、不安が消えました!」

「元市長もご無事で本当に……!」

 誰からともなく声が上がり、人々の表情が一斉にほころぶ。


 ディセリオはゆっくりと立ち上がり、ひとりひとりの手を取りながら言葉をかけ始めた。

 その姿を少し離れた場所から見つめるルージュの赤い瞳は、そっと揺れている。


 近くで見ていた白衣の女性や隊員たちも口々に声を漏らす。

「ディセリオ元市長が慰問に来てくださった……」

「こんな時でも行動が早いんだから……本当にすごいわ……」


 白のスーツがほのかな光を反射しながら、

 彼は人々の心の隙間をひとつひとつ埋めていくように、優しい笑顔を浮かべ続ける。


 公民館の一階での慰問を終えると、彼は静かな足取りで階段を上っていった。

 その背に揺れる白のスーツは、避難所の雑多な空気の中でひときわ清潔に浮かび上がり、

 かつて“シンフォリアを世界一住みたい都市”に押し上げた男の象徴のようにも見えた。


 階段を折り返すたび、彼の存在を見つけた男性たちが振り返り、ざわめきが広がる。


「ディセリオ元市長……!」

「本物だ」

「お疲れさまです!」


 興奮と安堵をないまぜにした声が自然と周囲に集まり、

 彼は誰に対しても同じ柔らかな姿勢で接する。


「元市長、あの黒い柱は一体何なんですかね?」

「昼間のニュースで“ディーローク”って……あれは本当に煙なんですか?」

「E13評議会は、もっと何か……話し合いを?」


 まるで世間話を投げかけるような口調だったが、その裏には

 “何か情報を知りたい”という切実な思いが透けて見える。


 ディセリオは全員の顔を、ひとりひとり確かめるように見渡し、

 軽く肩をすくめて、少し冗談めかした声で答えた。


「私はもう市長を退いた身だからね。

 マレーズ君とは時折話すが、一市民となった私に教えてもらえることは、そう多くはないさ。」


 そう言いながら、掌をゆっくり広げて見せる。

 その仕草ひとつで、緊張していた空気がふっと和らいだ。


「不安なことも多いだろう。

 だが──この都市は、これまでも君たちの“手”で支えられてきた。

 いざという時、復興の礎となるのは、まぎれもなく君たちだ。

 どうか力を貸してほしい。一緒に、この苦境を乗り越えよう。」


 力むような言葉ではなかった。

 しかし、不思議なほど胸にすっと届く声だった。


「はい!!」


 男性たちは、まるで訓練された兵士のように、揃った声で答えた。

 彼の前では誰もが“強くなれる”──そんな雰囲気すらあった。


 ………


 階段をさらに上がり、三階へ足を踏み入れた途端、

 一階や二階とはまるで違う“静けさ”が訪れる。


 薄暗い照明。

 最低限の人員しかいない作業スペース。

 床には仕分け途中の箱、壁際には医療物資の段ボール、

 小型通信端末や水のペットボトルが雑務用の机に散らばっている。


 その中で──

 肩までのブロンドを流す若い女性が、小型医療物資の箱を整理していた。


 深い青のワンピースはところどころ汚れていたが、

 怪我をしている様子はない。

 ただ、その所作にはどこか“落ち着きを失った気配”がにじんでいた。


 指示を出している女性のルメイア隊員が、「そちらお願いしますね」と穏やかに声をかける。


 ディセリオは、階段を登り切った位置からその光景を見て、

 少しだけ不思議そうに眉を寄せた。


 避難民が三階の雑務に参加することは、本来ならほとんどない。

 しかし彼女から伝わってくる“必死さ”は、理由を想像させるに余りあった。


 白い靴が音を立てて進む。


 その音に驚いたのか──

 ブロンドの女性は、持っていた小さな箱を取り落とした。


 乾いた音が三階の静寂に響く。


「だいじょうぶですか?!」

 ルメイア隊員が机を回り込んで近づこうとした、その瞬間。


 ディセリオが、一歩先に出て軽く手を挙げた。

 「任せてくれ」とでも言うように、落ち着いた仕草で。

 隊員は足を止めて、机越しにその様子を固唾を飲んで見つめる。


 箱の中からは、包帯やマスク、温度計、絆創膏──小さな医療物資が乾いた音を立てて床へこぼれ落ちていた。

 ブロンドの女性は膝を崩し、その場に手をついて座り込む。落ちた物資の散らばりが、彼女の動揺をそのまま視覚化したかのようだった。


 ディセリオは歩みを緩め、女性と同じ高さになるようにしゃがむ。

 床に散った物をゆっくり拾い集めながら、彼女と呼吸を合わせるように、箱へ納めていった。


「大丈夫かね?」


 その声音は、苦しむ者の胸を撫でるような、深く穏やかなものだった。


 女性は前髪の陰で、焦点の合わない瞳を揺らしながら──

「……すみません。」

 それだけを、床に向けて落とした。


 ディセリオは、そばに立つ女性ルメイア隊員へ視線を向ける。

 その目は言葉を必要としない。「彼女はどうした?」と問いかけるだけで意図が伝わった。


 女性隊員は両手を胸の前でそわそわさせ、眉を落としながら、声を潜めて説明する。

「不安で……じっとしていられないから、お手伝いをさせてほしいと。──どうしても、と言われて……」


 そこまで口にしたところで、言葉が続かなかった。

 しかし、続きを語ったのはブロンドの女性自身だった。


「……すみま……せん……。一階には……とても……いられなくて……」

 乾いた小枝のようにか細い声。

「サヴァイブに……父と……母が……」


 その先は、涙と嗚咽が塞いだ。


 女性隊員が机を迂回するように回り込み、肩を抱き寄せる。

 震える身体が、必死に声を押し殺し、涙を止めようとする姿が痛いほど伝わってくる。


 ディセリオは、散らばる物資を箱へと納め終える。

 その音が彼女の耳に届かぬよう慎重に。


「今の私に出来ることは少ない。」

 それは虚勢ではなく、事実を優しく受け止めた声だった。

「けれど──私も共に信じます。あなたのご家族の無事を。」


 女性は顔を上げられなかったが、大きな頷きでその言葉を受け取った。

 その震え方には、感謝と祈りが入り混じっていた。


 ディセリオは一度だけ頷く。

「頼む。」

 それだけの一言なのに、声にはどこか揺るぎない威厳が宿っていた。

 ほんの一瞬、彼がかつてシンフォリアを導いた“統治者の記憶”が、

 そのまま呼吸と共に滲み出たかのようだった。


 女性隊員もそれを感じ取ったのだろう。

 真剣な眼差しで、その願いとも指示とも取れる想いに「はい」と応じた。


 ブロンドの女性が、そっと傍の椅子へ導かれる。

 しゃっくり上げる息は、痛々しいのにどこか幼い。

 その音は、三階の薄暗がりに、静かな悲しみの旋律として漂っていた。


 ………


 どれほどの時間が経っただろうか。

 階下から、書類の擦れる音と、小さな箱を抱えた足音が近づいてくる。


 階段の影がほどけると、

 その向こうからルージュと白衣の女性が姿を現した。


 上がってすぐの左側──

 女性隊員が、不安に肩を寄せるブロンドの女性を支えている姿が目に入る。


 すでにスペースは静けさを取り戻していた。

 だが、その表情に刻まれた疲弊と緊張は、まだ消え切れていない。


 ルージュは荷物を抱えたまま、すぐに駆け寄る。


「どうした?」

 

 白衣の女性が女性隊員に事情を聞き始める横で、

 ルージュの視界の端に、ゆっくりと影が動くのが映った。


 白いスーツ──

 恐らくは、彼の背中だ。


 灯りの少ない三階の奥。

 その姿は、まるで光の届かない道へ吸い込まれていくかのように、静かに歩いて行く。


 ルージュは荷物をそばへ置くと、

 白衣の女性たちに任せるよう小さく合図し、

 影へと消える背中を追って──薄明かりの奥へ足を踏み入れた。


 人影のない三階に、ブーツの音が響く。

 まるでひとりでリズムを奏でる打楽器のように──

 乾いたその響きだけが、この階に息づく唯一の音だ。


 非常口の方向を示す緑色の誘導灯が、暗がりの中にぼうっと浮かんでいる。

 階下の避難者たちの声は、もうほとんど聞こえない。

 消灯時間が近いこともあって、建物全体がひとつの眠りの層に包まれようとしている。


 周囲を見渡した。

 だが──彼の姿はどこにもない。


 そんなときだった。

 視界に、ふと“境界線”が引かれているのが見えた。


 “立ち入り禁止”と書かれた札。

 簡素な鎖が、ゆるやかな弧を描いて通路を塞いでいる。

 鎖の向こうは、上へ向かう階段──

 その先の扉の上部には“屋上”を示す灯りぼうっと光っていた。


 彼女は小さく息をのみ、足元に気をつけながら数段だけ階段を登った。

 扉の前に立ち、ドアノブにひねりを加える。


 カチャリ──


 拍子抜けするほどあっさりと、扉は開いた。

 ──開いている。

 きっと慌ただしい作業の中で、誰かが鍵を閉め忘れたのだろう。


 外の空気が頬を撫でる。

 夜の帳、エトスの光が幻想的に漂い、生き物のように揺れている。

 未だ灯りを取り戻さない高層ビル群が、灰色の海のように沈黙していた。


 屋上の入り口付近には、公民館に入りきらなかった支援物資の箱がいくつか積まれている。

 そして、その少し先──


 柵のそばに、白いスーツの男が立っていた。

 スーツのポケットに片手を入れ、まるで風景の一部であるかのように、ただ静かに佇んでいる。


 ルージュは、そっと指の背でドアを二度叩いた。


 コン、コン。


 その音に、彼の背筋がわずかに動く。

 遠くを眺めていた視線がゆっくりとこちらへ向き、オレンジの瞳が柔らかく揺れる。


「すみません、ここは立ち入り禁止ですよ?」

 腕を組み、風に声を乗せるように少しだけ張った。


「ああ、これは失礼した。」

 彼は肩越しに落ち着いた声を返す。

「規則を破ってしまった私は、どうなるかな?……逮捕されてしまうのかな?」


 風が、二人の間を抜けていった。


 ――ぷっ。


 堪えきれず、ルージュが吹き出す。

 すぐにその笑いが声となり、屋上に転がった。


 男も、穏やかな低音でくつくつと笑う。

 夜の空気に混ざるその声は、不思議なほど温かい。


 二人はゆっくりと歩み寄り、

 ルージュは一回り大きい彼の身体に、ためらいなく腕を回した。


 そして、彼もまた──

 古い家族を抱き寄せるように、彼女の肩を包み込んだ。


「無事で良かった。ディセリオ伯父さん。」

 囁かれた声は、胸の奥から安堵が溶け出すように。


「ああ。君もだよ、ルージュ。」


 二人は抱擁をほどき、微風の中で向き合う。

 赤い瞳が、「私は無事だよ」と優しく光った。


 ディセリオは、肩にかけた彼女の茶色い髪を避けるようにして、手を置きながら言った。


「みんな君に感謝していたよ。“祈癒きゆのヴェルメリオ”がいてくれたおかげで、痛みを忘れられたとね。」


 その声には、ただの讃辞ではなく──

 父が娘を誇るような温度が含まれている。


 ルージュも一度、柔らかく微笑みを浮かべた。

 けれど次の瞬間、階段の側で涙を堪えていたブロンドの女性の顔が脳裏をかすめ、

 その笑みはほんの少しだけ翳りを帯びる。


「……でも、心の痛みは、取ってあげられないから。」


 ディセリオはその言葉を逃さなかった。

 喉の奥で頷き、まるで彼女の心を受け止めるように眼差しを落とす。


「それは、私とて同じだ。いや、誰であっても越えられぬ壁だよ。

 君には素晴らしい“エトスの祝福”がある。人はそれで、どれほど救われるか。

 君の祝福は、君自身のためだけでなく……光に触れた者の心に、明日を灯す力だ。」


 オレンジ色の瞳に、確かな温もりが宿る。

 元為政者として、まるで保護者としての誇りと愛情。


「持てる力以上のことを望まなくていい。

 君は──もう十分に、誰よりも人を救っている。」


 その言葉は、夜の冷えた空気をゆっくりと溶かすように染み込んだ。

 ルージュは少し考えるように目線を落とし──

 やがて「うん」と頷いた。

 耳元の赤いアクセサリーが、小さな星のように光を弾く。


 ……すると──


 ディセリオが突然、胸の奥を押しつぶすように咳き込み始めた。

「伯父さん、平気?」


 彼女は反射的に歩み寄り、背に手を添えた。

 指先から赤い光がほとばしり、彼の身体を包み込む。


「大丈夫だ」

 苦しげな声でそう返すと、彼は胸元のポケットから

 銀色のケースと同色のスキットル型の小さなボトルを取り出す。


 ケースを開くと、白いカプセルが整然と並んでいた。

 一つを摘み、微かに震える指で口へ運ぶと、スキットルの水で飲み下す。


 咳はしばらく続いた。

 ルージュはその姿を見守りながら、ほとんど自分自身に向けるように呟く。


「……光が届かない場所があるのが歯痒い。

 いっそのこと、万能だったらよかったのに……」


 やがて呼吸はゆるやかに整い、肩の揺れも静まっていく。

 気休めでしかないとわかっていながら支えていた赤い光を、そっと収束させた。


「……歳を重ねると、こうしたものに頼らなくてはいけないことも増えてね。」


 冗談めかすように微笑むが、

 その指先には、ほんのわずかな疲労が滲んでいる。


「そうだよ。伯父さんは、もう若くないんだから。

 あんまり無理しちゃダメだよ?

 もし下の階で倒れたりなんかしたら、公民館アークホールが──

 ううん、シンフォリアが崩れ落ちるくらいに、みんな悲鳴を上げるんだから。」


 軽口を叩くルージュに、元市長は喉の奥で静かに笑う。


 その余韻に気づいた彼女が、半笑いで眉を寄せた。


「なに?なんでそんなに笑うの?本当のことでしょう?」


「いや……昔、君の誘拐事件があった時のことを、何故だか不意に思い出してね。

 あんなに小さかった君に、こうして叱られていると思うとね。」


「叱ってなんかいないよ。ただ、心配しているだけ。」


 彼女のその言葉に、彼は「わかっているよ」と穏やかに表情を崩す。


「それに誘拐事件って、あれはもう10年も前の話だよ?

 ちょっと……ほんとうに、“おじいちゃん味”が増してきたんじゃない?」


 その言葉に男は声を上げて笑った。

 その笑いが、夜風の冷たさをひととき忘れさせる。


「そうかもしれんな。」


 彼は視線を「だが──」と言葉を重ねながら、屋上の柵越しに向けた。

 声が変わった。温かみの奥に、鋼のような重さ。

 その変化に、ルージュの心拍はほんの一瞬だけ速まった。


「──あの黒い煙。ディーロークの正体を暴き、

 皆が安心できる日常を取り戻すまで……

 私も出来うる限りのことはするつもりだよ。」


 低い声が、屋上に薄く漂う風を震わせた。


 その視線を彼女が視線を追うと、ビルの合間のさらに奥。

 遥か彼方に、“それ”はあった。


 夜空の底で、黒い柱ディーロークが無言のまま光を孕み、

 稲光にも似た異様な輝きをときおり発している。

 それは自然現象の域を超え、

 世界の不安をそのまま象徴するような“存在感”を帯びていた。


「今日の昼、先遣隊が向かったけど……何かわかると思う?」

 ルージュはディセリオの横に並び、指先を柵へ添えて問いかける。


「うむ……」


 一拍。

 言葉を選ぶように、彼は眉を寄せた。


「もし、このまま何も判明しなければ……

 少々、厄介なことになるかもしれん。」


 ルージュは柵を両手で握りしめる。

 金属の乾いた擦れ音が、胸のざわつきを代弁した。


「……それって、私が考えていることと、同じかな?」


 彼女はディセリオの顔を見ることができなかった。

 ただ、強く息を吸う音だけが、夜の空気に滲む。


 彼は眉間へ手を当て、少し考え込む仕草を見せる。


「ルージュ。もし君が望むなら、私からマレーズ君へ──」


 そのとき。

 白いスーツのポケットで、小型通信機が震えた。


 青緑色の光がぼんやりと光る黒い端末。

 彼は操作し、耳へ当てるとすぐに通話を始めた。


「私だ。……うん。……そうか──わかった。

 では、私もすぐに向かおう。」


 声は静かだが、そこには断崖の縁を踏む者のような緊張があった。

 通話が途切れると、彼は端末を手にしたまま、ルージュへ向き直る。


「……今は、ここだけの話にしてくれ。」


 既に察していたのだろう。

 ルージュは「うん」と返した声はかすかに震え、活力は影を潜めていた。


「先遣隊からの連絡が……数時間前から断絶したままだそうだ。

 マレーズ君から、E13の緊急会議へ共に出席を願う連絡だったよ。」


 返答はなかった。

 ただ、赤い瞳がディーロークを見据える。

 微風に揺れる茶色い髪が、街の光に淡く照らされた。


「ルージュ。私であれば、君を編成部隊から──」


「覚悟はできてる。」


 彼の言葉に、彼女の声が重なった。


「きっと私は……もっと近くで、“あれ”を見ることになるって思ってた。

 知っている顔があそこへ向かうのを、黙って見送るだけなんて……

 私らしくないって、考えてたから。」


 肩越しに振り返ると、

 下の階で作業する市民たちの放つエトスの光が舞い上がるように漂い、

 黄色、青、橙……さまざまな色が彼女の頬を照らした。


「平気だよ。持てる以上の力は望まない。

 想いは、伯父さんと同じだから──。

 私は……私に出来ることがあるなら、それに命を賭けたい。」


 ディセリオは頷き、

 “信念”という名の光を宿した彼女の瞳を受け取った。


「行こう、伯父さん。」


 ルージュが微笑んで背を向ける。

 ディセリオは通信端末をポケットにしまい、

 風に消えるほど小さな声で一言つぶやく。


「……すまない。」


 扉が閉じる音だけが屋上に残る。

 その向こう、ビルの海の裂け目に、

 “ディーローク”は怪しい光を抱えたまま、世界を見下ろすようにしていた。


***


第一章|第二話(5)へ続く──

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