第一章 シンフォリア|第二話(2)|現実と理想のあいだで

「大丈夫ですか! 手伝いますよ!」

 声を張り上げながら、リオ・フォノールはガラス片が陽にきらめく──だが踏み損なえば足を裂くような危うさを孕んだ地面を駆け抜けた。

 外壁の装飾が一部剥がれ落ちた店先で、ひとりの老女が看板を起こそうとしている。


 深い青のストールを肩にかけ、赤布の服は時の色を吸い込んだように褪せていた。

 その立ち姿は、長い年月を生き延びた都市の木々のようで、静かに風雪を受け止めていた。


「すみませんねぇ」

 老女は、目尻に刻まれた皺をふっと緩め、リオを見上げた。

 その笑みに、疲れと安堵が同居している。


「いえ! ──それっ!」

 リオは勢いよく看板を起こし、壁に立てかけた。

 木が鳴くような音が響く。そこには、柔らかな筆致で〈喫茶ルシュカ〉と刻まれていた。


 彼は店の中を覗く。

 ガラスの破片は片付き、棚も整っている。

 ──被害は、外だけか。良かった。

 胸をなでおろすと、額の汗を拭い、長袖のカーキのジャケットを腰に巻き直す。


「他に手伝うことはありませんか? 店の前のガラス片、片付けますよ!」


 老女は小さく首を振り、穏やかに微笑んだ。

「いえいえ、私は大丈夫です。どうか、もっと助けが必要な方のところへ行ってあげてくださいな。……ルメイアさんも、ご苦労様です 。」


 その声には、深い優しさが滲んでいた。

 リオは照れくさそうに後ろ手で黒髪をかき、苦笑する。

「い、いえ! それじゃあ、何かあったらすぐ近くの隊員に声を掛けてくださいね!」

「はい。」

 短い返事。その響きが妙に温かく、胸に残った。


 通りを渡ろうとする時、風が都市内に漂う様々な色のエトス粒子を舞い上げて、空へと還していくのが見えた。

 微細な光の欠片が渦を描きながら舞い、空気はどこか柔らかな輝きを帯びている。

 人々はそれぞれの“能力”エトスを持ち寄り、その灯りを淡く灯しながら、懸命に“今日”を繋いでいる。

 それは、まだこの世界が息をしている──そう、リオの胸に確かに伝わってきた。


 エトス可動式の大型運搬車両が、鉄の呻きのような音を響かせながらゆっくりと進んでいた。

 車体から伸びた太い管が、ガラス片で彩られた地面を吸い上げるたび、回収物は重たい音を立てて荷台へ運ばれていく。

 車から放たれる青紫の粒子は、空へふわりと舞い上がり、やがて光の糸となって、静かに空気に溶けていく。


 リオの目の前をその車両が通過していく。

 車体の周囲を巡回していた警備のルメイア隊員が、手のひらを上げて「ちょっと待ってくれ」と無言の合図を送る。

 リオは小さく頷き、その場に足を止めた。


 ふと背後を振り返る。

 先ほどの老女が、ふたたび店の前に立っていた。

 手には何も持っていない──だが、彼女は確かにガラス片の片付けを始めていた。


 淡い山吹色の光が、静かな滲みのように老女の身体から広がっていく。

 その光を受けたガラスの破片は、まるで記憶のかけらをひとところに集めるかのようにクシャリと音を立てて結ばれていく。

 やがて、いつの間にか現れていた円筒型の小さなゴミ箱型の機械人形が、手足を器用に動かしながら、

 まとめられたガラスの塊をひとつ、またひとつと丁寧に、胴の中へと“ぽいぽい”と収めていった。


 リオはその光景を見つめ、胸の奥がじんと熱くなった。

 ──自分は、本当に役に立てているのだろうか。


 ルメイアに入隊して半年。

 任務をこなすたびに、心のどこかでその問いが疼く。


 手のひらを見下ろす。

 彼の身体から漏れる“白いエトスの光”は、朝の陽に溶け、都市の空気に紛れていく。まるで、自分の存在もまた、世界に溶けてしまうかのように。


 ひとつ息を吐き、拳を握る。

 ──人にできることなんて、きっと、ほんのわずかだ。

 俺は他の人みたいに、能力エトスで役立つことはできない……。

 でも、能力エトスがあろうとなかろうと、誰もが限られた力の中で生きているだ。


「誰かを助けたいと願う心があるなら──それで、いいんだよな。」


 それは信念にも、言い訳にもなりきらない、曖昧な呟きだった。

 けれど、今の自分を動かすには十分だと──彼には思えた。


 ***


 ──黒い柱が発生してから、10時間が経っていた。

 朝10時。いつもなら柔らかな陽光が反射し、ガラスの塔群がきらめく――

 “世界一平和だった都市”シンフォリアの朝。

 しかし今、その光景は一変していた。


 ビルや建造物が傷ついた街区では、ルメイアの隊員たちが住民と力を合わせ、負傷者を安全な区域へと運び、即席の救護所を設営していた。

 白い布の下で包帯を巻く手。救援物資を仕分ける声。

 建物の形状によっては、内部の気圧が一瞬で押し出され、薄いカーテンや軽い家具が外へと吸い出されていた。

 それを拾い集める音が、瓦礫に反射して街のあちこちから響いてくる。

 リオにはまだその経験はなかったが、どこか戦場のようでもあり、同時に人々の息遣いが確かに感じられる“生”の現場だった。


 通信網は一部復旧し、街のスピーカーから「窓から離れてください」という定型の放送が、ひび割れた空気の中を淡々と流れている。

 昨晩、空を裂いて飛来したあの巨大な虹色の物体。その通過時に生じた風圧は、シールドを越えて都市の外壁を叩き、ガラスの雨を降らせた。

 それは高層ビル群を中心に家屋や看板を次々と床に叩きつけ、街の表層を爪で引っ掻いたような傷跡をも残している。


 避難が遅れた住民たちは、飛散したガラスで裂傷を負い、中には命を落とした者もいる。

 リオが耳にした報告では、死亡者は現時点で十数名にのぼるという。

 それでも、あの瞬間――都市を覆っていたエトス・アーク・シールドがなければ、この街はもっと悲惨な光景になっていただろう。

 誰もがそう語っていた。


 時折、通りの向こうから泣き声が聞こえる。

 それが誰かの死を嘆く声なのか、建物内に閉じ込められた家族を呼ぶ声なのか、恐怖の余韻なのか──彼には区別できない。

 ただ、胸の奥で鈍く蠢く痛みが、今の世界の現実を伝えている。


 シンフォリアの都市機構は、すべてセントラル・アーカイブから供給される青紫のエトス“電気”によって成り立っている。

 しかし、物体通過時に発生したソニックブームの影響で、エトス通信網は広範囲にノイズを発生させ、一時的な停電を引き起こした。

 エトスで駆動する電車の制御システムも電子系統に依存していたため、現在は運行停止。

 非常制動で最寄り駅まで到達できた車両もあったが、いまだ帰宅できない市民も多い。


 病院の電力も一時は途絶えたが、エトス補助炉と自家発電の併用で、現在は最低限の機能を維持している。

 それでも、都市の呼吸はどこか途切れ途切れなことに変わりはない。


 ──都市に起きた出来事を、言葉にしようとすればきりがない。

 リオは思考を重ねるほどに、胸の奥が静かに沈んでいく。

 道端で立ち尽くしている人々を見つけては、できるだけ穏やかに声をかけた。


「この先の広場に避難所があります。怪我をしていない方は、そちらへ──」


 その声に、人々が小さく頷き、歩き出していく。

 人の塊の中から、誰かの静かな声が聞こえた。

 「リーベの神よ……どうか私たちをお守りください。」

 その響きは、まるで街の上に祈りを置くように淡く漂う。


 ──神というものが本当に存在するのなら。

 この出来事は、人間という種に与えられた“試練”なのだろうか。

 リオは、普段の生活の中で「神」という言葉をほとんど口にしたことがなかった。

 けれどこの惨状の中にいると、誰かの祈りが確かに意味を持っているようにさえ思えてくる。


 ここに来る前、建物の間の広場に人だかりができていたことを思い出す。


「エトスの子らよ、リーベの教えに従い──

 今こそ、未曾有の試練に立ち向かうのです」


 そう書かれた旗が、風に揺れていた。

 その傍らで、司祭と思しき男が声を張り上げ、集まった信者たちに説教を説いていた。

 

 ガシャンッ!

「うわっ!」

 記憶の光景に耽っていたリオは、不意に足を取られ、前のめりに体勢を崩した。倒れ込むことはなかったが、靴が何か硬いものを蹴った感触が残る。

 振り返ると、そこには銀色の外装を持つ“人形機械アージェント”が横たわっていた。


 白と青のポロシャツにパンツ。まるで人間のような服装。

 だが、その瞳にあたる部分は黒く沈み、どこにも光が宿っていない。

 日々の都市生活を支えてきた“市民補助型人形機械”──

 いまやただ、地面に突っ伏したまま動かないその姿は、まるで死者のようだ。


 リオは膝をつき、そっとその金属の手に触れた。

 冷たく硬いはずの指先から、わずかに“人の温度”を探してしまう。

 顔の側面には、小さく「モッカ」と刻まれている。

 彼にはそれが、この人形の名前であることがすぐにわかった。


 ふとあたりを見渡すと、小さな機械たちの残骸も散乱している。

 昨晩まで荷物を運んでいた“小型飛行機械エアリア・フロン”。

 物体が通過したあの瞬間、彼らは制御を失い、そのまま地面に叩きつけられたのだ。

 潰れた荷物の中から、赤いトマトが転がり出ていた。

 地面に落ちて、ぐしゃりと潰れた果肉が、濃い色の汁を広げる。

 ──それが、何か別のものに見えた気がして。

 リオは、思わず息を呑んだ。


 不憫だとか、可哀想だとか──もっと純粋な何かに突き動かされる。

 “モッカの身体”を、通りの隅へと引きずって運んだ。

 重すぎるわけではない。だが、決して軽いとも言えない。

 上空からの落下物──特にガラスの破片が降ってこなさそうな、少しでも安全そうな場所を選び、彼はそっと金属の体を横たえた。

 地面に触れるたび、カラン……と静かな音が、ひとつずつ響く。まるで、別れを告げる鐘のように。


 ──機械に、命はない。

 それなのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。

 胸の奥が、うっすらと曇る。霞がかったように、言葉にできない感情が揺れる。


 リオは膝をつき、しばらくその無機質な顔を見つめていた。

 そして、まるで“そうするのが当然だ”と教えられたかのように──

 モッカの両の手を、そっと腹の上で組み合わせる。

 それは祈りのようで、儀式のようで、静かな敬意のようでもあった。


 そのとき。

 後ろから、場違いなほど明るい声が響いた。


「ヨォ! ここにもあったぞ!」


 リオが振り返ると、轟音を立てて大型のエトス式運搬車両が近づいてくる。

 荷台には銀、ピンク、オレンジ──

 色とりどりの金属片が山のように積まれ、朝の光を不規則に反射している。


 荷台の上には、紺のタンクトップを着た大柄な男。

 むき出しの腕を振って、運転手に大声で叫ぶ。


「ここで止めてくれ!」


 ブレーキが鳴き、車両がわずかに軋むと、

 男は軽々と荷台から飛び降りた。

 地面に転がっていた小型飛行機械エアリア・フロンの一体を片手で持ち上げると、

 おもちゃでも放り投げるように、それを宙へ放り──荷台へ。


 ガランッ。

 乾いた金属音が、冷えた空気を振るわせた。


「あぁ〜あ、もったいねぇなぁ……」

 男はそんな言葉を零しながら、荷台から黒いゴミ袋を引きずり出した。

 袋の中には、もはや“何だったのか”すら分からない、ゴミとなった物が詰め込まれているのだろう。

 彼は、近くに潰れて落ちていた赤いトマトを素手で掴み、

 そのままぐしゃりと音を立てながら、袋の奥に押し込んでいった。


 最後に、靴底でザッザッと無造作に地面を拭うと、

 トマトの痕跡は、すっかりと消え失せた。


 袋を片腕で担ぎ、男が無造作に荷台へ投げ込もうとしたその時──

 運転席から、青いバンダナを頭に巻いた短髪の男が顔を出した。


「おーい! あっちにもあるぞ!」


 その指が向いていたのは──

 膝をついたまま、モッカのそばにいた、リオだった。


 タンクトップの男が、彼の方へと駆けてきた。

 その野太い声が、ざわめく街路に響き渡る。

「ルメイアの隊員さん! ご苦労様っス!」


 リオはカーキのジャケットを腰に巻きつけているが、すでにこの街の者であれば、その色と雰囲気だけで彼が“ルメイア”であると気づくだろう。

 だからこそ、男の口調にはどこか不思議な礼儀と明るさが滲んでいた。

 粗野な見た目とは裏腹に、その声の奥には、仕事への誇りのようなものが確かに感じられる。

 リオは一瞬、返す言葉を探したが、喉の奥にうまく出てこなかった。


 彼が何かを言うよりも早く、男の視線が地面の一点をとらえた。

「それ、隊員さんのですかい?」


 太く節ばった指が、地面に横たわるモッカを差す。

 その手には、先ほど潰れたトマトの赤がまだこびりつき、

 黒い煤と乾いた汚れが、手の甲まで覆っていた。

 細かな切り傷が何本も走り、

 その肌が“労働”という言葉を無言で語っているようだ。


「あっ、いや。ちがう──」

 リオは反射的に答えた。

 張りを欠いた声のあとで、「でも──」と言いかけた、その刹那。


 「そうですかい!」

 男は豪快に笑い、何の迷いもなくモッカの身体を持ち上げた。

 「じゃっ、ご苦労さんっス!」

 肩に担ぐと、再び小走りで運搬車の方へと駆けていった。


 ガシャ、ガシャ……。

 金属が揺れる音が、背後へ遠ざかってゆく。

 リオはただ、それを黙って見送るしかなかった。


 男の背に揺れるモッカの顔が、

 ほんの一瞬、自分の方を見ているように思えた。

 ──錯覚だったかもしれない。

 けれど、胸の奥に針のような何かが刺さった感覚が残った。


 ガシャッ!

 さっきよりも少し重い音が、荷台の方から響く。

 ほんのわずかに、リオの肩が震えた。


「おーしっ! いいぞぉー!」

 タンクトップの男が荷台へひょいと乗り込み、運転手に声を掛ける。

 プシュ……ブン、とエトスの制御音が響き、

 タイヤのホイールが一瞬、青紫の光を放った。

 ゆっくりと車体が動き出し、ゴロゴロ……と重低音が道に残る。


 通りの向こう。

 ビルと、人の列のあいだを縫うように、

 運搬車はやがて小さくなり、点となって遠ざかっていった。


 リオはその場に、しばらく立ち尽くしていた。

 ため息を吐くわけでもなく、何かを考えるでもなく。

 ただ、風に揺れた窓ガラスの破片が、

 どこかでカラカラと鳴る音だけが聞こえる。


 ──街が、まだ痛みを訴えている。


 額の汗をぬぐいながら歩き出す。

 そして少しして、下唇をきゅっと噛む。

 すると言葉にならない疼きが、また静かに胸の奥で波打っていた。


 ***


「おい! 気をつけろ!」


 鋭い声が、ざわめきの中でひときわ強く響く。

 透明のフェイスシールドを被った救急隊員が、崩れた建物から担架を抱えて出てくる。

 その瞬間、上層から――光を散らすようにガラス片が、ばらばらと落ちてきた。


 直撃は避けられそうになかった。

 だが、隊員の身体の周囲に展開された小型のエトス・シールドが、

 「バチッ!」という鋭い音と共に閃光を放ち、すべての破片を粉砕する。

 粉々になった破片は、光の粒子になって空へ舞い上がり、朝の風に溶けていった。


「……問題ない、行こう。」


 短い確認のあと、担架はすぐに救急車両へと運び込まれる。

 だが無線が上手く繋がらないのか、車内からはノイズ混じりの通信音が響いていた。

 通信障害もまだ完全には復旧していない。

 誰もが、その音に小さく眉を寄せながら、黙々と動き続けている。


 リオはその様子を見つめながら、また額の汗を拭う。

 呼吸が浅い。疲労よりも、どこか焦燥が勝っているのかもしれない。

 ――自分の力を、どこに使えばいい?

 そんな問いを飲み込みながら、彼は膝に手を置いて息を整えた。


 そのとき、落下物に備えて傘をさした男たちが通り過ぎ、一瞬だけ、その会話が耳に届く。

「北ブロックは人手が足りないらしいな」

「マジか……途中の大通りも大変なことになってるのにな。」


 リオは思わず顔を上げた。

「……よし」

 短く呟くと、身体を起こし、足を北ブロックの方へ向けた。


 北ブロック――そこはルメイア本部にも近い中心区画。

 普段なら車両の往来が絶えず、観光客と住民が入り混じる活気ある大通りだ。

 だが、やはりここも、今はまるで別世界のようになっている。


 ビル群を抜けて大通りに出ると、

 そこは人と機械と光が入り乱れる、混沌とした光景だった。

 機動隊の装甲車、ヴェロスギア隊員、そしてルメイアの救援部隊が入り交じり、

 それぞれが指示を飛ばしながら住民の誘導にあたっている。


 信号機はすべて沈黙し、交差点は制御を失っていた。

 電子制御の一斉停止によって、複数の車両が同時に交差点へ突っ込み、

 大型トラックやバスがブレーキを間に合わせられず、

 折り重なるように衝突していた。


 リオは足を止めた。

「……酷いな」

 思わず口から漏れたその声は、息のように掠れていた。


 車体が歪み、スリップ跡が黒い線となって道路に刻まれている。

 ヘッドライトの閃光が煙に反射し、

 金属の焦げた匂いが、風に乗って鼻を刺した。


 その匂いは、ふと記憶を滲ませた。

 視線を落としながら、10時間前の光景を思い出す。


………


 黒い柱が空へ突き立った、あの直後のことだ。

 セントラル・アーカイブから都市内部へ戻ると、街はすでに混乱の渦中にあった。


「走……ず、落ち……て指……避難……へ向か……て……さい。指定……所は次の通り……す──」

 避難所への案内を促す機械音声が、断続的なノイズを混じえながら街中に響いていた。

 赤い緊急ライトがビルの壁面を断続的に照らし、

 人々の影がそのたびに伸びては消え、また現れては揺れる。

 世界全体が、息を潜めながら軋んでいた。


 すぐに動ける者たちは、ルージュの指揮下に集められ、

 彼女は不安の影の一切を押し殺すように声を張り上げる。


「ルアン、怪我人がいたら、すぐに私の元に連れてくるんだ!

 ピエト、デパート“ラルジュ”はわかるな?

 “アラハーナ高等学院”は避難所としてすぐにいっぱいになる。

 すぐに解放して、店の人たちに受け入れ準備を頼んでくれ!」


 その声には、恐怖よりも“決意”があった。

 ルージュの茶色の髪が、赤いライトに照らされて波打つ。

 彼女の指揮は、混乱のただ中で唯一の秩序を作り出そうとしていたのだ。


 「了解しました!」

 ルアンが真剣な眼差しで敬礼し、黄色のエトスの光を身体から放出させた。

 その光が彼女の輪郭を淡く包み、次の瞬間には人の波に溶け込んでいく。


 少し間を置いて、ピエトが前に出た。

 「で、デパート“ラルジュ”、わかります! お母さんと行ったことあります!

  ……で、でも、声を掛けるお店はラルジュだけでいいんですか?」


 ルージュは息をひとつ吐き、微笑を作った。

「この街でも特に目立つ店だ。

 あそこが動けば、他もきっと追随してくれる。──頼んだぞ。」


「は、はい! わかりました!」

 ピエトは慌てて敬礼し、くるりと背を向けて駆け出していく。

 その姿が人の群れに紛れようとした、その時。


「ピエト!」


 リオの声に、彼女は立ち止まった。

 振り返った瞳は、驚くほど澄んでいた。

 ピンク色の虹彩が緊急灯に照らされ、わずかに煌めく。

 「気をつけてな。」


 リオはそう言ったきり、微笑むことはできなかった。

 ピエトは言葉を返さず、小さく頷いて──

 ほんの一瞬、迷いのない笑みを浮かべてから、小さく手を振った。

 そしてそのまま、人の流れの中へと消えていった。


「ルージュ、俺は──」と、リオは言いかけた。

 その瞬間、足元に何か柔らかいものがぶつかった。

 見下ろすと、赤と白のオーバーオールを着た小さな少女が、地面に尻餅をついていた。

 どうやらよそ見をして走ってきたらしい。

 驚いたのか、少女はそのまま大きく口を開け、わんわんと泣き出してしまう。


「だ、だいじょうぶかい?!」

 リオは慌てて膝をつき、少女の肩を支えた。

 擦り傷はあるが、大きな怪我はない。

 ほっと胸を撫で下ろしたその時だった。


「何をしている!」

 鋭い声が通りを切り裂いた。

 リオが顔を上げると、いつの間にかルージュが道を渡り、反対側の歩道へ向かっていた。

 店の前では、パイプのような金属棒を手にした二人組の男が、シャッターの鍵をこじ開けようとしている。


 彼女は迷わず駆け出し、ひとりの腕を掴み、軽く体をひねる。

 男の手からパイプが抜け落ち、乾いた音を立てて地面に転がった。

「いてててっ!」

 その声に、もう一人の男がたじろぐ。

 すかさずその手首を取り、体の重心を滑らせるように動かすと──

 男の身体は抵抗できずに地面に伏せさせられた。

 

 ルージュはその腕を押さえつけたまま、低く鋭い声で言い放つ。

「こんな時に……お前たち、人として恥ずかしくないのか!」


 怒鳴りつけるわけではない。

 しかしその声音には、胸の奥に響く重さがあった。

 まるで、人々の尊厳を代弁するように。


「す、すみませぇ……んっ……」

 男たちは怯えたように顔を伏せる。


「そのやる気を──どうして、他のことに役立てようと思わない?」


 叱責というより、それは問いかけだった。

 声の奥に、厳しさと同じだけの温かさが宿っている。

 その眼差しの先には、責めるでも見下すでもなく、

 “人を立ち上がらせるための叱り方”があった。


 通りを慌ただしく行き交う誰かが「あれって……」と小さく呟く。

 すぐに、別の誰かが声を上げた。

 「あっ、ヴェルメリオさんだ!」


 その名を聞いた人々が、一人、また一人と顔を上げる。

 怪我を抱えたままの者も、子を背負う母親も──彼女の姿を見て駆け寄っていった。

 その紅の姿に、救いを見つけたかのように。


 リオは、しばらくその光景を見つめていた。

 ルージュが住民一人ひとりに声をかけ、

 赤い祝福のエトスで、その身に刻まれた痛みを優しく癒していく。

 そこには、確かな意志と責任が宿っている。

 ──自分の信じる“守るべきもの”のために、

 そして、そこに在ることが当たり前であるかのように。


 ふと気づけば、泣いていた少女がまだ小さくしゃくり上げていた。

 リオはその頭をやさしく撫でる。

 「よし。お父さんとお母さんを、一緒に探してあげような。」


 少女は涙をこすりながら、小さく頷いた。

 リオは彼女を背におぶい、

 避難所の方向に向かって、一歩を踏み出した。


………


 ……我に返る。


 大通りにはようやく撤去作業の準備が整い始めていた。

 複数の運搬車が列をなし、ヴェロスギア隊員たちが声を掛け合いながら事故車両を積み上げている。

 金属が擦れる音が空気を掻き鳴らし、その中で無線のノイズが交錯していた。


 ──結局、避難所の人に、あの子を預けることになったけど……。

 お父さんとお母さんには、会えただろうか。


 その思いが一瞬だけ胸をかすめる。

 けれど、リオは首を振り、「ここに自分の役立てることはない」と判断して、大通りを抜け北ブロックへと足を向けた。


***


「……ハァ、ハァ……」

 息が荒く、喉の奥に熱いものがこもる。

 短い黒髪の間から汗が滲み出し、額を伝って頬を流れた。

 瞳の下には、疲労の影がうっすらと滲んでいる。


 走り続けた足をようやく止めると、ノイズを走らせながら点滅する電光掲示板型の地図に手をつき、深く息を整えた。

 ふと周囲を見渡すと、視線の先にひときわ目を引く店があった。

 ──ガラス張りのショーウィンドウ。その中に、倒れこんだマネキンたち。


 服を着せられた人形が、まるで逃げようとした人間のような格好で、窓枠を乗り越えるように外へと倒れている。

 首や腕が不自然な角度を描き、粉々になったガラス片が陽光を受けて煌めいていた。

 店の前では、淡いオレンジの光を身体から放ちながら、同じ色の紐状の光を操っている男がいる。

 灰色のジャケットにベレー帽──ルメイアの隊員だ。

 落下した看板を、エトスで編み上げた光の索で引きずりながら、玄関前からどかしている。

 剥がれ落ちた外装パネルが散乱し、ここも他とさほど変わらない様相を見せていた。


 リオは、まっすぐその男のもとへ歩み寄った。

「──あの、何か、手伝うことはありますか?」


 男は作業の手を止め、リオの方へ顔を向けた。

 40代ほどの、筋肉質な体躯。口元には濃い髭があり、顔には多少の疲れと汗が刻まれている。

 どうやら戦闘員の所属であることが、彼のエンブレムから判断できた。

 そして、その目にはどこか人懐っこい光があった。


「お? なんだ、兄ちゃん、手ぇ貸してくれんのか?」

 男は笑いながら言い、光の紐を一度たぐって手を休めた。


 リオは「はい!」と即答する。

 鬱陶しく額に垂れてくる汗を腕で拭い、息を整えながら微かに笑った。


 だが、男は「ん?」と眉根を寄せ、少々芳しくない顔を見せた。

 リオの全身を、足元から頭の先まで、ゆっくりと眺める。


「……な、なんですか?」

 リオは思わず問い返した。


 男は手元の光を収束させると、片手を腰に当て、真剣な眼差しを向けた。

「兄ちゃん、支援員だな?」


「は、はい。」

 リオは反射的に背筋を伸ばし、少し緊張した声で答える。


 男は短くうなずき、低く渋い声で言った。

「もしかして──昨日の任務から出ずっぱで、ずっと動いてるんじゃないか?」


 その言葉に、リオはそっと視線を逸らした。

「はい。」


 男はわずかにため息を漏らし、首を横に振る。

「朝飯も、食ってねぇだろう?」


「……は、はい。」

 言い訳のひとつも出てこなかった。

 それほどまでに、男の言葉は“正確”だったからだ。


 男は腕を組み、言葉を続けた。

「都市の頭上を、隕石みてぇなもんが駆け抜けるなんざ俺も初めてだが……。

 けどな──こういう“傷ついた街”の光景は、何度か見てきた。」


 視線は、未だ片付かない通りへと向けられる。

 積み上げられた軽い家具、割れた窓枠、吹き飛んだ看板。

 遠くでは、救急車のサイレンがくぐもった音で鳴り響いていた。


「でな──こういう時、必ずいるんだよ。兄ちゃんみてぇな若いヤツが。」

 声は静かで、けれど妙に心に染みる。

「睡眠不足に空腹が重なりゃ、身体は鈍る。

 低血糖、集中力の低下、判断ミス……それだけじゃねぇ。

 “ストレス”が原因で、エトス制御が不安定になるリスクだってあるんだ。」


 リオは、ただ黙ってそれを聞いていた。

 止まることなく額から流れる汗を手の甲でぬぐいながら、

 その言葉の一つひとつを、心の奥に静かに沈めていく。


 男はふっと表情をゆるめ、肩をすくめた。

「悪いことは言わねぇ。一度、ルメイア本部に戻って休みな。

 住民は、確かに不安だろうが──

 少なくとも今はもう、“混乱”ってほどの混乱じゃねぇさ。」


 リオの手が、ゆっくりと拳をつくる。

「でも……!」

 言葉の続きが喉に詰まり、息をのむように顔を上げた。


 男は静かに、それでいて真剣な声色で言った。

「“でも”じゃねぇんだよ。」


 その声は、怒鳴るでもなく、諭すでもない。

 ただ、現場で幾度も修羅場を越えてきた者の重みを帯びていた。


「俺たちルメイアはな、“都市の盾”なんだ。

 守るべきものがあってこそ、初めて意味がある。

 ……そんな時によ、兄ちゃんみたいなボロボロの盾に──

 本当に、誰かが安心して身を預けられると思うか?」


 リオは、息を呑んだ。

 優しさでも、厳しさでもなく、それはただ“現実”の言葉だった。


 少し間を置き、うつむいたまま、小さく答える。

「……いいえ。」


 男はベレー帽を外し、無造作に頭をかいた。

「ま、気持ちは分からんでもない。

 若ぇ頃ってのは、やる気と根性でなんとかなるって、つい思っちまうからな……

 けどな、盾は、ひびが入ったままじゃ守れねぇ。そうだろ?」


 ──その一言は、妙に心に残った。


 リオは反論できなかった。

 否定するどころか、その言葉は、まっすぐに胸へと突き刺さっていた。


 男はベレー帽を被り直し、顎でうなずくように道を指し示す。

「今日明日で、この状況が片付くわけがねぇんだ。

 一度ぐっすり眠って、すっきりさせてから、

 また顔を上げて戻ってくりゃあいい。……な?」


 その声音には、同じ“盾”としての信頼が込められていた。

 リオは、静かに──けれど、確かに頷いた。

 もはや言葉は必要なかった。すべて、彼の中で答えが出ていたからだ。


「ありがとうございます。一度……本部に戻ります。」

 ──いまの俺は、役には立てない。


 先ほどまで胸を締めつけていた、“何かをしなければ”という焦りが、

 まるで風にほどけるように、静かに消えていった。


 リオが会釈をして背を向けた、そのときだった。

「兄ちゃん!」

 背中に飛んだ声が、彼の足を止めた。


 振り返ると、男がポケットから何かを取り出し、

 軽やかな軌道を描いて投げてよこす。


 リオはそれを、反射的に受け止めた。

 白銀に青いラインが入った縦長のパッケージ。

 〈ヴァイタロン〉──シンフォリア製の、ルメイア標準支給の非常食だった。


 男はにかっと笑い、歯を見せる。

「ちゃんと飯、食えよ。」


 それだけ言うと、再び作業へと向き直る。

 その背を照らすように、オレンジのエトスが淡く宙を駆けた。


 リオはその場に立ち尽くしながら、手の中のヴァイタロンを見つめる。

 そして──そっと、強く、握りしめた。


 歩き出す足音は、細かなガラス片を靴が噛み砕くように。

 それはまだ、傷の癒えない都市の中で、

 小さく、けれど確かに“現実と理想”を噛み締める歩みだった。


***


第一章|第二話(3)へ続く──

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