第1章1

首相官邸・危機管理センター。




午前十時三十分。




佐藤優希は、会議室の片隅で資料に目を通していた。政府が緊急でまとめた「消失」に関する初期報告書だ。




だが、読めば読むほど、現実感が失われていく。




**確認事項:**


- 10月18日午前6時(日本時間)、日本国外からの全通信が途絶


- 自衛隊による偵察飛行の結果、世界各地で人影を確認できず


- 建物、インフラ、車両等は無傷で残存


- 動物の生存は確認(ただし詳細調査は未完了)


- 日本の領海・領空内にいた全ての人間(国籍不問)のみ生存




**推定生存者数:**


- 日本国籍:約1億2000万人


- 外国籍(在日):約340万人


- 合計:約1億2340万人




**消失者数:**


- 推定約77億人




「77億人......」




優希は、その数字を見つめた。




地球人口の98.4%が、一瞬で消えた。




家族も、友人も、恋人も。




世界中の、ほとんど全ての人間が。




「佐藤先生」




声をかけてきたのは、三十代前半の女性だった。紺色のスーツ、きびきびとした動作。目は鋭く、でもどこか疲れている。




「はい」




「早川美咲です。外務省から、今回の緊急対策本部に出向しています」




「外務省......」




優希は、一瞬言葉に詰まった。外務省。今、最も辛い立場にいる省庁だろう。




「お察しの通りです」美咲は、淡々と言った。「私の担当していた在外公館、全て連絡不通です。部下も、同僚も......海外にいた人間は、全員」




「......すみません」




「謝らないでください」美咲は首を振った。「今は感傷に浸っている暇はありません。先生、政府はあなたを『J-リセット計画』の総責任者に任命します」




「J-リセット......それが、正式名称ですか」




「ええ。桜井大臣の命名です。『日本を起点に、地球全体をリセットし再構築する』という意味だそうです」




優希は、微かに眉をひそめた。




「聞きたいんですが、桜井大臣は......本気で『日本が選ばれた』と思っているんですか?」




「さあ」美咲は肩をすくめた。「本気かもしれないし、政治的パフォーマンスかもしれない。でも、確実に言えることがあります」




「何ですか?」




「桜井大臣は、あなたを利用するつもりです。あなたの科学的権威を借りて、自分の理想とする『日本中心の世界秩序』を創り上げる。そのために、あなたを総責任者にした」




「でも、僕は......」




「ええ、わかっています。あなたは理想主義者だ。『全人類で協力』なんて、本気で信じている」




美咲は、優希の目を見た。




「でも、政治はそんなに甘くない。特に今は、極限状態です。人々は恐怖と絶望の中にいる。そんな時、強いリーダーシップと『我々は特別だ』という物語が求められる」




「それは......危険な思想です」




「ええ」美咲は頷いた。「だから、私はあなたに協力します」




「え?」




「私は現実主義者です。理想論だけでは人は動かないことも知っている。でも」美咲は、わずかに笑った。「あなたの理想は、正しい。少なくとも、桜井大臣の『日本至上主義』よりは、ずっとマシです」




優希は、この女性を見直した。




「ありがとうございます。協力、お願いします」




「ええ。でも、一つ条件があります」




「条件?」




「あなたは科学者だから、すぐに専門用語を使いますよね。それ、やめてください。政治家も、国民も、専門用語では動きません。『誰にでもわかる言葉』で話してください」




優希は、苦笑した。




「......努力します」




「努力じゃなくて、絶対です」




その時、会議室のドアが開いた。




「始めるぞ」




低い声。桜井晋三が入ってきた。




そして、その後ろには――優希の知っている顔があった。




「健吾!」




「よう、優希」




田中健吾が、いつもの軽い調子で手を上げた。だが、その目は笑っていなかった。




「お前も召集されたのか」




「ああ。通信関係は全部俺が担当だってさ。まあ、確かに俺の専門だけど......」健吾は、ちらりと桜井を見た。「正直、重すぎるぞこれ」




「皆、席に着け」




桜井の声で、会議室が静まった。




約三十人の科学者、技術者、官僚、自衛隊幹部が席に着く。




石橋恵子副長官が立ち上がり、スクリーンを指した。




「これより、『J-リセット計画』の第一回会議を始めます。まず、現状の確認から」




スクリーンに、日本地図が表示された。




「現在、日本国内の状況は比較的安定しています。パニックは一部地域で発生していますが、自衛隊と警察の協力で鎮圧されつつあります」




次に、世界地図が表示された。




「問題は、海外です」




石橋は、深呼吸をした。




「全世界のインフラが、無人になりました。特に深刻なのは――」




スクリーンに、リストが表示される。




**緊急対応が必要な施設:**


1. 原子力発電所(世界中に約440基)


2. 石油・天然ガス施設


3. 化学プラント


4. ダム


5. 空港・港湾




「特に原子力発電所は、72時間以内に対処しなければ、メルトダウンのリスクがあります」




会議室が、ざわめいた。




「72時間......」




優希は、時計を見た。




既に、消失から4時間半が経過している。




残りは、67時間半。




「佐藤先生」石橋が優希を見た。「あなたの見解は?」




優希は立ち上がり、スクリーンの前に進んだ。




「結論から言います。我々には、三つの選択肢があります」




優希は、指を三本立てた。




「一つ。何もしない。世界中の原発がメルトダウンし、放射能汚染が地球規模で広がる。日本も、数年以内に居住不可能になる」




会議室が、凍りついた。




「二つ。海外の原発を、遠隔操作で緊急停止させる。ただし、これには高度な技術と、現地の制御システムへのアクセスが必要。成功率は不明」




「三つ」優希は、会議室を見回した。「人を派遣する。各国の原発に技術者チームを送り込み、手動で安全に停止させる」




「待て」桜井が口を挟んだ。「人を派遣?誰を送るんだ?」




「自衛隊員と、原子力技術者です。そして――」




優希は、覚悟を決めて言った。




「在日外国人の協力が、不可欠です」




会議室が、再びざわめいた。




「なぜだ?」桜井の声が、低くなった。




「理由は単純です。世界中の原発、それぞれ設計が違う。運用マニュアルも、言語も違う。日本人だけでは、対応しきれません」




優希は、スクリーンに新しい資料を表示した。




「例えば、韓国の原発。これは韓国独自の設計です。最も詳しいのは、在日韓国人の元原発技術者です。同様に、フランス、アメリカ、ロシア、中国――それぞれの国の原発には、それぞれの専門家が必要です」




「しかし」桜井は腕を組んだ。「外国人に、そこまで信用を置けるのか?裏切られたら?」




「裏切る理由がありません」優希は、きっぱりと言った。「彼らの母国は、もう存在しない。彼らにとっても、この地球が全てです。そして――」




優希は、桜井を真っ直ぐ見た。




「彼らも、『全人類』の一員です。我々に、排除する権利はありません」




桜井の目が、細められた。




「理想論だな、佐藤君」




「いいえ」優希は首を振った。「生存戦略です。排除ではなく、協力。それが、我々が生き残る唯一の道です」




沈黙。




長い、重い沈黙。




そして――




「わかった」桜井は、ゆっくりと頷いた。「君のやり方でやってみろ。ただし、72時間以内に結果を出せ。できなければ、次は私のやり方でやらせてもらう」




「......了解しました」




「よし」石橋副長官が立ち上がった。「では、具体的な作戦の立案に入ります。佐藤先生、お願いします」




優希は、深呼吸をした。




72時間。




世界を救うための、わずか3日間。




「まず、優先順位を決めます」




優希は、世界地図を指した。




「最優先は、日本に近い原発。韓国、中国、台湾。次に、ヨーロッパとアメリカ。ロシアは......厳しいですが、できる限り」




「輸送手段は?」




「自衛隊の輸送機と、民間航空機を総動員します。田中君」




「ああ」健吾が立ち上がった。「通信関係は俺が何とかする。各原発との通信回線を確保する。衛星経由になるけど、日本の衛星はまだ稼働してる」




「ありがとう。そして――」




優希は、会議室を見回した。




「在日外国人の技術者を、今すぐリストアップしてください。原子力、化学、機械工学の専門家。そして、各国の言語に精通した人材」




「待て」




また、桜井だ。




「外国人を集めるのはいい。だが、どうやって説得する?彼らが協力するとは限らない」




「......それは」




優希は、言葉に詰まった。




確かに。在日外国人たちは今、絶望の中にいる。母国も、家族も失った。日本政府を信用するだろうか?




「私が行きます」




突然、声が上がった。




美咲だ。




「早川さん......」




「私は元外交官です。多言語も話せるし、交渉も得意です」美咲は、優希を見た。「佐藤先生、あなたは技術を。私は、人を。役割分担しましょう」




優希は、美咲の目を見た。




強い意志と、わずかな悲しみが、そこにあった。




「......お願いします」




「ええ」




会議は、そこから急速に進んだ。




原発の優先順位。


派遣チームの編成。


輸送ルート。


通信手段。


必要な物資。




そして――




「最後に、一つ」




優希は、全員を見回した。




「この作戦には、名前をつけます」




「名前?」




「ええ。『オペレーション・プロメテウス』」




優希は、静かに言った。




「プロメテウス。神々から火を盗み、人類に与えた存在。我々も今、無人の世界から『火』を――エネルギーを取り戻さなければならない」




「そして」優希は、拳を握った。「この作戦が、J-リセットの最初の一歩になる」




桜井が、わずかに笑った。




「いい名前だ。では、始めたまえ」




---




**午前十一時三十分。**




会議が終わり、優希は廊下に出た。




疲労が、どっと押し寄せる。




「優希」




健吾が、隣に来た。




「大丈夫か?お前、顔色悪いぞ」




「......大丈夫じゃない」




優希は、正直に答えた。




「怖いんだ。僕の判断一つで、何百万人、何千万人の命が左右される。もし、失敗したら......」




「失敗しねえよ」




健吾は、優希の肩を叩いた。




「お前は天才だ。そして、俺がいる。美咲さんもいる。石橋副長官も、味方だ」




「でも、桜井大臣は......」




「ああ、アイツは敵だな」健吾は、あっさりと言った。「でも、だからこそお前が頑張らないと。アイツに世界を任せたら、マジでヤバいことになる」




優希は、苦笑した。




「責任、重大だな」




「当たり前だろ。お前、今や全人類のリーダーだぞ」




「リーダーなんて......」




「なれよ」健吾は、真剣な目で言った。「お前にしかできない」




優希は、窓の外を見た。




東京の空。いつもと変わらない青空。




でも、この空の向こうに、無人の世界が広がっている。




77億人が消えた、静寂の地球。




「......やるしかないな」




「そうだ」




優希は、スマートフォンを取り出した。




両親に、電話をかける。




コール音。二回。三回。




『もしもし?優希か!』




母の声。いつもの、明るい声。




「母さん、無事?」




『無事も何も、こっちは平和なもんよ。それより、テレビ見たわよ。大変なことになってるんでしょ?』




「......うん。ちょっと、忙しくなる」




『体、壊さないでね。ちゃんとご飯食べてる?』




「食べてる。父さんは?」




『田んぼ見に行ってるわ。あの人ったら、世界がどうなろうと、田んぼが心配なんだから』




優希は、笑った。




らしい。父親らしい。




「じゃあ、また連絡する」




『待って。優希』




母の声が、少し真剣になった。




『あんた、何か大きなことやるんでしょ?』




「......うん」




『無理しないで。でも』




母は、優しく言った。




『あんたなら、できるわ。母さん、信じてるから』




優希の目が、熱くなった。




「......ありがとう」




電話を切る。




優希は、深呼吸をした。




そして、廊下を歩き出した。




オペレーション・プロメテウス。




人類最初の、そして最大の作戦が、今始まる。

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