第9話


心のどこかで、期待してた。


いつか私を愛して、無償の愛で包み込んでくれるんじゃないかって。



親は子供に無償の愛を捧ぐ。


それは、幻想。



私の母親は、私を殴って蹴って。


熱湯を掛けて来た。


私の背中には、醜い火傷の跡が残った。



心の傷も、一生消えない。



母親の恋人から、首を締められ犯された。


あの時、一度死んだ。



私は母親の恋人を刺した。


包丁で。




一色さんと出会って、私は息を吹き返した。


初めて人を好きになって恋をした。



陸くん、未来ちゃんが友達になってくれた。



施設長は万年筆をくれた。


客の情報を書き込んだり、手帳に日記を書いたりするのに使った。




……一色さん。


早く、目を覚まして。



死なないで……。



クソみたいな私の人生で、何よりも誰よりも大切な人。


唯一の希望の光だった。




お腹が大きくなり、出産の時期が近づいていた。


頭が悪いなりに、一生懸命考えた。



ホステスとして二年と数ヶ月働き、風岡さんとの愛人契約で、お金はある程度貯まった。


島のお土産屋さんで働いた給料は、安かったけど贅沢しなければなんとか暮らしけてた。




好きな人との間に出来た子供。


産まない選択肢は無かった。




けど、……怖い。


怖くてたまらないんだ。




私を産んだ母親みたいになるのではないか。


子供の愛し方が分からない。


不幸にしてしまう。



一色さんを失う事にならないか。




不安でどうしようもなかった。




私は出産した。


性別は女の子、香澄と名付けた。



お見舞いに風岡さんが病室に飾ってくれたカスミソウからと、一色さんの漢字から付けた。



一色さんの名前は、登悟という。


呼んだ事は一度も無かった。




アパートを借りて、香澄と暮らし始めた。




一色さんはまだ眠ったまま。



刺されて出血多量から意識障害が起き、昏睡状態から目を覚まさなかった。



心臓は動いてるけど、意識が戻らない。




一色さんが入院して、二年の月日が流れた。




貯金を切り崩して、生活費に当てていた。


風岡さんは出産祝いをくれて、来栖さんがオムツやミルクを定期的に届けてくれた。



子育ては大変で、とても助かった。




母乳とミルクを与えて、一生懸命飲む姿は可愛いと思った。


きっと、一色さんとの子供だから。



幸せにしてあげたい。


未婚の母親だけど、父親の分まで愛情を注いで。



一人で立派に育ててみせる、そう決意した。





母乳とミルクを卒業して、離乳食が始まった頃。


ママと呼んでくれた。



舌足らずで言えてるか、少し怪しかったが。


涙が出る程、嬉しかった。



健診で問題は見つからず。


香澄は健康にすくすくと育った。



病室のベッドで眠る一色さんをパパだと教えたけど、男の人をみんなパパだと香澄は呼んだ。


風岡さんとか来栖さんとか。


「オレはパパじゃないっすよ。香澄ちゃんのパパはオレより男気溢れる色男っすから。」



来栖さんがそう言うと、香澄は不思議そうな目で見上げてた。



風岡さんは子供の扱いが上手だった。


歳の離れた妹がいて、面倒を見てたから慣れてた。



腹違いの妹で、先代組長の後妻の子らしい。



高額な入院費は、風岡さんが支払ってくれていた。




物欲しそうな顔をしてたのか、風岡さんにキスされて寂しさを埋める為に抱かれた。


私はまた風岡さんの愛人になった。



拳銃で撃たれて出来た銃創が、風岡さんの体には刻まれてた。



口を手で塞ぎ、漏れそうになる声を抑えた。


隣の部屋には香澄が寝てるので、聞こえない様に堪えなければ。



……気持ち良い。  


風岡さんによって、女としての悦びを思い出させられた。



来栖さんの父親も、風岡組の構成員だったと。


先代組長の護衛をしていて、抗争で命を落とした。


先代組長は来栖さんを引き取り、風岡さんとは一緒に育った。




「俺は一色登悟って、んだ。名前教えてくれよ。」


初めて会ったあの日。


「……愛美、日高愛美。」


「愛美か。よろしくな。」


そう言って、笑った。


私に向けてくれたその笑顔に恋をした。


大人なのに、ヤクザなのに、無邪気だった。



母親の客で歴代の恋人やヒモ達は、初めは子供を可愛がる、自分の良いところを母親に見せたいから優しかったが、いつの間にか母親と一緒になって私を殴って蹴った。



“君、可愛いね。いくつ?”


中学生の頃、そう声を掛けて来た男とラブホテルに行った。


男は一万円札をくれた。


私が初めて自分で稼いだお金で、メイク道具を買った。


綺麗になりたくて。



でも、何故かそれが一色さんにバレて、私を買った男はボコボコにされた。


一色さんからは、厳しいお説教を受けた。



自分を大切にしろと一色さんは言ったけど、それって誰にも出来る事じゃないと思う。


親に愛されて大切に慈しまれて、初めて自分や誰かを大切に出来るんじゃないかな。



自分を安売りする事は無くなった。


一万円で股を開く、お手軽で安っぽい女はやめた。




バレンタインの日。


「種類いっぱいで目移りして、迷っちゃうね。」


「……これにする。」


「選ぶの早っ。わたしは、どうしよっかなぁ……。」


私が選んだのは、黒の箱に可愛いハート型のチョコレートが入った商品で、箱には赤いリボンが掛けられてた。


学校終わり、未来ちゃんとチョコレートを買いに行った。


未来ちゃんは、陸くんに渡す用を買い求めた。


私は一色さんに。



施設では少ないながら、毎月お小遣いが出た。


施設を運営する資金の中には、一色さんからの寄付金が含まれていた。



一色さんはいつも、繁華街のどこかしらに姿があった。


ケツモチする店があるから。


制服から私服に着替えて、一色さんを探した。


未来ちゃんから、ファイト!と激励をもらった。



未来ちゃんは陸くんに渡して告白して、その年のバレンタインから付き合い始めた。




一色さんを見つけたが、私はチョコレートを渡さなかった。


綺麗な女の人と腕を組んで、親しげに話しながら歩いてたから。


私の心はグチャグチャになった。



真っ黒に塗り潰された。




ヤクザの愛人になったのは、子供染みた当て付けでもあった。


私に手を出さない一色さんへの。



触れて欲しいけど、私は汚くて汚れてる。


綺麗だって言われたい。……綺麗だなんて言えない。


……触れられたくない。何も、……知られたくない。



そんな矛盾を抱えていた。







「はい、愛美です。」



マナーモードにしていたスマホが震え、部屋から出て電話に応答した。


香澄がお昼寝をしていて、起こさない為に。



「意識が戻った。」



その風岡さんの言葉を聞いて、足の力が抜け床に座り込んだ。



……良かった。


本当に、良かった……。



スマホを耳に当てたまま、安堵の溜息を漏らした。




「二年寝たきりだったからな、筋力が低下して自分の足で歩ける様になるには、リハビリが必要になるが、他に体には目立った異常は無かった。」



体には……?




「脳、頭がな。」


「……え?」


「記憶が抜け落ちてやがる。現状は自分の名前、何処の誰かさえ、覚えて無い状態だ。綺麗さっぱりな。」



目の前が真っ暗になった。




……記憶障害。



二年ぶりに目覚めた一色さんは、私の事なんてすっかり忘れ去っていた。





病室の前で深呼吸した。


ドアをノックすると、返事があった。



ドア越しに二年ぶりに聞く、一色さんの声に泣きそうになった。


スライドさせてドアを開けた。



病室に入ると窓が開いていて、カーテンが風に揺れていた。


ベッドから背中を起こし、テーブルでノートに何かを書いてた。


目が向けられ、視線が絡んだ。



胸が締め付けられた。


落ち着け……。


泣くな。



「初めまして、日高愛美と申します。貴方とは同じ児童養護施設の出身で、妹の様に可愛がって頂きました。」


微かに声が震える。



「私は兄の様に慕っていました。」



……始めよう。


新しい関係を。



「娘を紹介しても良いですか?」


はいと、返事があったので廊下に呼び掛けた。


香澄は廊下で風岡さんと待ってた。



スライドドアが開き、風岡さんに抱っこされてる香澄が病室に入って来た。


香澄が私に小さな手を伸ばすので、風岡さんと交代して抱き上げた。



「娘の香澄です。」


「可愛い娘さんですね。」


一色さんはそう言った。



「……ありがとうございます。良かったね、褒められたよ。」


香澄は私を見上げると、ママと呼んだ。



そして、一色さんを見ると 

 

「パパ。」


と、呼んだ。



「この子、男の人は漏れなく全員、パパと呼ぶので驚かせてすみません……。」


私は謝罪した。



……心臓に悪い。




リハビリを終え退院しても、一色さんの記憶は戻らなかった。


このまま一生戻らないかも知れないし、ある日突然、記憶を取り戻し思い出すかも知れない。


それがいつなのかは、医者にさえ分からなかった。



一色さんはアパートの部屋を借りると、ビルの清掃のアルバイトを始めた。


各フロアやトイレ、窓や外壁を掃除する仕事らしい。



一色さんの母親は、お見舞いには来なかった。


風岡組の先代組長と盃を交わし、任侠界に足を踏み入れ、ヤクザになる時に縁を切り、顔を合わせて無かった。


破門で追放処分になり風岡組若頭から、かもめ荘の従業員になってからも。



母親は良い人と出会い再婚して、幸せに暮らしてる、その邪魔にはなりたく無かったんだろう。


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