第10話 狂った世界で
目を覚ますと、そこには見覚えのない天井があった。どこまでも白く、無機質な光が刺さる。
不破真赫はゆっくりと上半身を起こす。だが次の瞬間、右の首筋──頸動脈に走る鋭い痛みが、直前の出来事を呼び戻した。
暴走。罪人の断首。そして──自分の手で、自分の首を裂いたこと。
窓の外では、あれほど激しく降っていた雨が嘘のように止み、空は血のような茜色に染まっていた。
「……生きてたのかよ」
低く、しゃがれた声。振り向くと、病室のドアにもたれるようにして煤川凌也が立っていた。咥えた煙草は火がついていない。
「……病院ですよ、ここ」
「火はつけちゃいねぇ。……それより、あんな真似して何がした」
煤川は近づくと、ベッド脇に腰を下ろした。
「あと数秒遅れてたら、お前、白布被ってたぞ」
不破は目を伏せ、沈黙した。
──異能者。
人智を超えた身体を持つ者。
不破はずっと前から、自分がその“特異存在”だと知っていた。
軽い切り傷なら数秒、骨折なら一時間。致命傷でさえ数時間で回復する。
だから分かっていた。あの程度では死ねない、と。
「……自分の身体なんで、限界くらいは把握してます」
淡々と返す不破に、煤川は哀しげに目を伏せた。
「……にしても、なぜ瀧さんはもっと早く麻酔弾を撃たなかったんですか。あのタイミングなら、俺もあんな判断しませんでした」
──ガタンッ!
鋭い音と共に胸ぐらを掴まれる。不破の身体が軋む。
「てめぇが暴走しなきゃ、撃つ必要すらなかっただろ……! 瀧はな、あれ以来、医務室から出てこねぇ。完全に潰れちまったんだよ!」
煤川の眼差しは、怒りに濁っていた。
だがその奥に、不破は一瞬“自分と同じ色”を見た。
「──お前が死のうが生きようが正直どうでもいい。けどな、うちの部下を殺したら、次は俺がてめぇを始末する」
不破はその言葉に、心の奥で確信する。
この人もまた、自分たち“罪人”を、人間として見てはいない。
罪を犯した異常者。化け物。
どれほど任務をこなしても、その烙印は剥がれない。
──けれど。
掴んだ煤川の手が、ほんのわずかに震えていた。
その震えが、不破の胸に妙な違和感を残す。
(……この人も、本当は……)
堰を切ったように、不破は怒声を放った。
「罪人、罪人って──同じ人間だろうが!!」
病室の壁が震える。
「てめぇらは神にでもなったつもりか!? 誰が悪で、誰が正義か、それを決めるのはあんたらかよ!」
煤川は目を逸らさない。だが、ほんの一瞬、言葉に詰まった。
「……勝った奴が正義なんだよ。この国は」
絞り出すような低い声。
それは“加害者の理屈”にも、“被害者の諦め”にも聞こえた。
「明日、“罪人の家族を皆殺しにしていい”って法律ができても──止める奴なんて、どれだけいると思う?」
煤川の吐息には、どこか自嘲が滲んでいた。
まるで、自分もかつて“止められなかった側”だと告白しているかのように。
不破の怒りはやがて静かな声へと変わる。
「悪にも理由がある。罪の裏には物語がある。でも誰も聞こうとしねぇ。……それが“正義”かよ」
煤川は答えない。
ただ、不破の胸ぐらを放し、背を向ける。
その背中は揺れていた。
警官のそれではなく、一人の人間として罪を背負った者の──そんな影を滲ませて。
◇◇◇
一人、病室に取り残された不破真赫は、無言でベッドに身を預けた。
白すぎる天井が、まるで罪を照らし出すように眩しかった。
──罪人とは、何なのか。
また、この問いが胸の奥を焼いた。
答えの出ない問い。だが、答えを放棄すれば、きっと自分も“ただの兵器”になる。
数日前、偶然目にしたテレビ番組の記憶が蘇る。
テーマは「罪人の心理」。犯罪心理学の教授が、淡々と語っていた。
『罪人とは、悲しい生き物なんですよ。外見は我々と変わらない。でも……精神の一部が、未成熟なまま成長を止めているケースが多いんです』
『私は、その原因の多くが“環境”にあると考えています。教育の欠如、家庭の崩壊、愛情の不足──子どもが健やかに育つ基盤が、あまりにも脆すぎる』
その言葉に、当時の不破はどこか静かに頷いていた。
だが、放送後すぐ、番組は炎上し──教授の発言は一部で“罪人擁護”と叩かれた。
──甘えるな。
──環境のせいにするな。
──被害者の痛みは無視か?
確かに、虐待や貧困を経験したすべての子どもが罪人になるわけじゃない。
けれど、そこから“逸れてしまう”子どもがいることも、間違いない現実だった。
そして、不破は知っていた。
その現実を“利用”した者たちの存在を。
──意図的に、罪人を作る組織。
命の価値を歪められ、「殺すこと」だけを刷り込まれた子どもたち。
多くは孤児。あるいは、売られた存在。
“誰にも望まれず生まれた命”を、武器として仕立て上げる──狂気の育成システム。
どれだけ倒しても終わらない。
モグラ叩きのように、根を絶たねば、次々に“罪”が芽吹いてくる。
いつから、“罪人”が人間ではなく、別の“カテゴリ”になったのか。
いつから、日常が戦場のように“選別”を孕んだのか。
始まりも、理由も、記録のどこにも残されていない。
教授の最後の言葉だけが、耳にこびりついていた。
『私は、政府が何かを隠していると考えています。“罪人”という兵器は、国家によって作られたのではないか──と』
その数日後、教授は“心臓発作”で死亡した。
偶然とは思えなかった。不破は知っている。
この国には、“消される死”が、確かに存在することを。
(……もっと話を、聞いておけばよかった)
どこまで堕ちても、そこにはまだ“闇”がある。
不破はすでに、その足元に立っていた。
──まだ、終われない。
ゆっくりと身を起こし、手術着を脱ぎ捨てる。
タンスの奥から黒いスーツを取り出すと、丁寧に袖を通し、ネクタイを締める。
鏡の中に映る自分と目を合わせた。
そこには、まだ“人間”の目があった。
諦めでも、怒りでもない。たった一つ、信念だけが残っていた。
「……まだ、堕ちるわけにはいかねぇ」
その呟きに、迷いはなかった。
やがて、病室の扉が静かに開く。
男の影が、光の中へと溶けていった。
◇◇◇
不破は、自分のスーツと靴に仕込まれた武器を一つひとつ確認していく。
──だが、何もなかった。
「チッ……タガーも飛び道具も、全部警察署か……」
苛立ちを噛み殺し、髪をかきあげた瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。
──頸動脈を、自分で切った、あの一瞬。
あの痛みと、あの決断を、身体がまだ覚えている。
「深く刺したからな。あと数十分ってとこか……」
視線を落とせば、スーツは返り血で赤黒く染まっていた。
自分の血と、殺した罪人の血。生と死が混ざりあったその匂いは、廊下の空気を濁らせている。
不破は眉間に皺を寄せ、音を刻むように歩き出した。
薄暗い廊下に響く革靴の音は、まるで死神の足音のようだった。
ナースステーションの前を通りかかると、看護師や医師たちが慌てて立ちはだかる。
「不破さん、ダメです! まだドクターの許可が──」
「手術から数時間しか経ってません! 傷が開いたら……!」
「塞がってきてる。それに、動ける」
冷たく言い捨て、通り抜けようとした瞬間、若い医師の一人が不破の腕を掴んだ。
「あなたは罪人かもしれない。でも……いまは、私の“患者”です。治るまで、責任をもって面倒を見るのが、医者の仕事です!」
不破の足が、ふと止まる。
そして、次の言葉は──意外なほど、優しかった。
「悪いが、俺は忙しい。その熱意は……もっと“救える誰か”に向けてくれ」
「……僕にはわからない。なぜそこまでして、戦うんです?痛みに耐えてまで……あの人も、あなたのように──」
不破は、静かに彼を見据える。
「“あの人”が誰かは知らない。でも俺には……奪ってしまった命の数よりも、多く救わなきゃならない奴らがいる」
その声は、まるで自分に言い聞かせるようでもあった。
医師は黙って手を離した。
ただ、不破を見送るように、その場に立ち尽くしていた。
──不破自身、驚いていた。
今の自分の言葉に。
かつての自分なら、こんな台詞は絶対に出てこなかった。
命なんて数字だと思っていた頃なら──。
これはきっと、“償い”だ。
殺すことで、守ろうとする。
その在り方が、どれほど歪んでいても……
自分の正義は、そこにしかなかった。
『罪人とは──悲しい生き物だ』
痛みを知りながら、また罪を犯す。
人間の形をしながら、最も孤独で、最も残酷な存在。
病院を出ると、また雨が降っていた。
冷たく、静かで、悲しい雨だった。
不破は、傘も差さずに歩き出す。
まるで──この世界の痛みを、その身で受け止めるかのように。
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