第4話

 ただ真っすぐに草原を駆ける。時折ドォンと爆音がして、地面が揺れる。隣を駆けていた者がその衝撃に倒れて悶えた。

「大丈夫か? まだ立てるか?」

 セルウスがその傍に駆け寄って身体を起こしてやると、その人は血まみれになりながら懐かしい顔で笑った。

「オレはもう無理だ。セルウス、お前だけでもこの先に」

「嫌だデーリン。あんたも一緒じゃなきゃ!」

 けれど背中を押されて脚が勝手に走り出す。懐かしい戦友を助けてやりたいのに、セルウスの脚は砲弾の雨を潜り抜け、赤黒い草を踏み、倒れた兵士の合間を縫って前へ前へと走っていく。

 また隣で砲弾が炸裂する。

「セルウス、行け、走れ……!」

 そう叫びながら傍で倒れた顔もまた見覚えがあった。

「パドクスっ! 駄目、駄目だパドクス、死ぬなっ!」

「無茶言うなよ、さ、ほら……」

 パドクスの身体が崩れ落ちて草原に倒れ伏す。今すぐ手当てをしてやりたいのに、やっぱりセルウスの脚は穴ぼこの開いた大地を駆け、倒れた兵士の血で赤くなった河にたどり着く。

 蹄平原を流れ、国を貫く大河に合流する巻角川。その流れの速さに、腰まで浸した身体が流されそうになる。一歩進むごとに川底が深くなり、口元まで水に浸かる。倒れた兵士の身体で自分の身体を支え、向こう岸から飛んでくる銃弾を水に潜ってやり過ごすうちに身体の熱が奪われていく。その時、凍えるセルウスの手を強く引く者がいた。

「もう少しだセルウス! 生憎俺は向こう岸まで一緒に行ってやれねぇが、お前を引っ張ってやるくらいはできそうだ!」

 セルウスの所属する奴隷歩兵部隊ヒヨドリ小隊、小隊長レット。セルウスが父や兄のように慕った男だ。

「嫌だレット、そんなこと言わないで! 一人にしないで!」

「ガキを未来に送り出すのが俺たち大人の仕事だ。……セルウス、お前に出会って俺たちはようやくそれが分かった。野良犬みてぇに命を使い果たすだけだった俺たちも、お前のおかげでちっとは人間っぽくなれたんだ。さあ行って来いよ……!」

 懐かしい顔がニカっと笑ったかと思うとぐわん、と大きく腕を引かれ、投げ飛ばされるように河からはじき出され、向こう岸に顔面から着地する。その衝撃で……。

 セルウスの意識が浮上した。心臓がバクバクと脈打っている。浅く肩を上下させながらあたりを見回し、そこが王太子クラヴァラの館の客室であるのを思い出すと彼は大きく息を吐いた。あたりは暗く、カーテン越しに月光が部屋に注いでいる。

(……夢、か)

 いやに鮮明な夢だった。原因は分かっている。昼間にクラヴァラ王女が蹄平原の名前を出したからだ。蹄平原、セルウスの所属していた奴隷歩兵部隊ヒヨドリ小隊が彼を残して全滅した地である。

 濡れた目尻を指先で拭う。

 脚を焼かれながら、銃弾を受けながら、激流に飲まれながら、ヒヨドリ小隊の年上たちは命を懸けて一番年下のセルウスを守り生かした。その時に言われた言葉を、今も彼は鮮明に覚えている。

(ガキのくせに不愛想だとかなんとか、みんな俺をからかったくせに……)

 未来へ、と。目を細めて微笑みかけて。最後に見た仲間たちは皆、痛いのも悲しいのも苦し野もこらえて、そうやって笑ってセルウスに祝福だけを施した。そんなだからもう、セルウスが思い出すヒヨドリ小隊の思い出はいつも優しく、幼い者への労りに満ちている。痛いことも辛いことも苦しいことも沢山あったはずなのに。

(にしても変な時間に目が冴えちまったな)

 大人しくベッドに潜ってみるが素直にもうひと眠りできそうに無かった。仕方なく部屋を出ると、セルウスの耳はなれない音を聞きつけた。

 水音である。それも穏やかなものではなく、バシャバシャと激しくしぶきを立てる音。首をひねったセルウスが廊下の窓から外を見下ろし、目を疑った。窓から見える庭の小さな噴水の傍に銀髪がうずくまっていたのだ。見間違えるはずがない、フィーロである。木桶で噴水の水を汲んで頭からかぶり、手を組んで身を縮こまらせている。

(こんな夜中に何やってんだアイツ!)

 階段を下りて庭に飛び出したセルウスは噴水の傍で跪くフィーロに駆け寄った。フィーロは頭からつま先までびっしょりと濡れ、目をきつく閉ざし、祈りの形に組んだ手に何かを握って口早にささやいている。

「風の神、地の神、死した者の魂に安楽を運びたまえ。その身体を覆うものが星や花であるように。土は軽く、陽は優しく、風は柔く、水は温く……」

 何か声をかけようとして、セルウスは口をつぐんだ。フィーロが唱えているのは死者の冥福を祈る文言である。祈祷文が一巡するとフィーロは再び桶を噴水に突っ込んでくみ上げた水をかぶろうとしたところで手を止め、顔を上げた。

「……セルウス?」

「悪い、邪魔をするつもりはなかったんだが」

「いや、良いよ。どうしたんだい?」

「どうも何も、お前がこんな夜中に水かぶってるから何事かと思って」

「様子見に来てくれたの?」

 ありがとう、と笑ってフィーロが立ち上がる。濡れた白いシャツがべったりと身体に張り付いて、その下の肌が透けて見える。今日はことさらに明るい月光に照らされて、その身体の古傷たちを目の当たりにして、セルウスは言葉を失った。

 しばしの無言に耐えられなくなったようにフィーロが笑う。無理に口角を上げるあの笑みを張り付けて、握りこんでいた銀色の翼の形のペンダントをセルウスに寄越す。

「君もお祈りするかい? その……ヒヨドリ小隊のことでも何でも」

 ヒヨドリ小隊。その単語がフィーロの口から出て、セルウスは弾かれたように彼を見つめる。その名を彼らの前で出したことは無かったはずだ。

 フィーロが斜め下を見て、神々を象徴する銀の翼をもてあそびながら歯切れ悪く言った。

「レット、デーリン、パドクス、それにセルウス。君が口にしていた戦友の名前と、君以外の構成員が全滅したってのが一致するのは、奴隷歩兵部隊の中でも蹄平原の巻角川渡河作戦に参加したヒヨドリ小隊だけだから」 

 何気ない風に言われて、セルウスは信じ難いものを見る目つきになった。覚えているというのか? あの戦争に参加した奴隷歩兵部隊の全小隊名とそこに参加していた者たちの名、そしてその顛末を?

 セルウスの表情を読み取って、フィーロは苦笑する。

「たまたま私が覚えていた分に君の小隊のことが含まれていただけだよ。……私が覚えていたら彼らがよみがえるわけじゃないけど、羊戦争が始まるのを止められなかった責任として、せめて冥福の祈りだけでもと思って」

 そこまで言ってフィーロは視線をうろつかせた末にまぶたを閉ざし、うなだれて黙り込んだ。裁きを待つ罪人のような姿だ。だが出会った当初ならともかく、今のセルウスに彼を裁き責める気はなかった。

「……ありがとな、俺たちのこと覚えててくれて」

 代わりに出たのは謝辞だった。鼻の奥がツンとする。けれど涙は見せないように眉間に皺を刻んでこらえる。

 不意に風が吹きつけてフィーロが小さくくしゃみをした。初夏とはいえ、ずぶ濡れで夜風に吹かれれば体を冷やす。

「部屋に戻るぞ、そのままじゃ風邪ひく」 

 大人しく首を縦に振るものの動きの鈍いフィーロの手を引いて、セルウスは彼の寝室まで向かう。タオルと新しい着替えなら部屋にあるはずだ。王子の側仕えは一番豪奢な客室に入ると棚を漁ってタオルを出し、主人の頭に乗せた。そのまま着替えになりそうなものを引っ張り出して背後に立つ王子を振り返る。

 フィーロが濡れたシャツを脱ぎ、床に落とした。古傷のある身体が月光に照らし出されて、セルウスの眼前に晒された。

「……気になる?」

 フィーロがどこか自暴自棄にも見える微笑みを浮かべ、指輪を飾った左手で鍛えられた腹の古傷を撫でる。その仕草にセルウスの中の何かがざわりと沸き立った。その不埒なざわつきを努めて無視して、セルウスは素直に首を縦に振った。

「これは矢傷。こっちは槍がかすめて」

 王子は頭にタオルをかぶったままおどけたような声色で傷一つ一つ指さして来歴を披露する。だがそれを遮るようにセルウスが確信めいた口ぶりで言った。

「あんた、羊戦争で戦ってたのか」

「……まあね」

 肯定は淡々としていた。セルウスは唇を尖らせる。

「そんな話、蹄平原じゃ聞かなかったぞ」

「私が戦っていたのは牛皮丘陵だったから。離れていたし、無理ないさ」

「でもようやくわかった。あの仏頂面メイドがアンタの傍を離れて前線で戦うなんて変な感じがしたから」 

 昼間のリリアンを思い出してフィーロが微笑む。そしてセルウスに背を向け、窓の向こうの夜空を見つめてぽつぽつと語り出す。

「私もリリアンも最前列に立ったんだ。叔父王と同じ王族でありながら羊戦争の開始を止められなかった罪滅ぼしとして。王子として民を守る責務もある。何せ、私には生まれついての魔法もあるから」

 黙ってフィーロの声を聞きながら、セルウスは運命糸と呼ばれる赤い糸で縫われた自身の腹の傷を撫でる。そして想像する。馬に乗り、牛皮丘陵を先陣切って駆けるフィーロの姿を。

 今のセルウスには分かる。異様なまでの覚悟と度胸を備えたフィーロは、我先勇んで戦場で戦ったはずだ。牛皮丘陵でも奴隷歩兵部隊は戦っていた。王族でありながら最前列で自らも戦い傷つくフィーロの背は、奴隷たちの目にどれほど大きく力強く映っただろう。

「忘れられない。牛皮丘陵で戦っていた奴隷歩兵部隊の少年が、そう、と同じ年頃の少年が、僕の従卒になりたいと言ってきた」

 少なくとも、奴隷たちはフィーロの背を喜び勇んで追いかけたに違いない。

「シギって名前の少年だ。最初は断った。最前列は危ないから。だけど彼の小隊の隊長に、魔法も使える僕の傍が安全だからと説得されて、彼を従卒にした」

 フィーロが王族として持って生まれた糸魔法は名前こそ地味だが汎用性が高い。人を殺すことだって容易いだろう。そしてそんな魔法を使いこなすフィーロの背は、誰の目にも凄まじいものに見えただろう。

「シギとはすぐに気が合った。何より他人に思えなかった。僕も王子にならなければ彼と同じ奴隷のままだったから。そして、シギは死んだ。砲撃が着弾した拍子に馬から落ちて。僕の、隣で……っ!」

 だが、それがどうだ。今、本物のフィーロの背は弱く小さく縮こまって震えている。

「僕があの時もっと早く魔法を使っていれば……そもそも僕が叔父王を説得してあんな戦争を起こさなければ……」

 頭にのせていたタオルが床に落ちた。ひぅ、ひぅ、と嗚咽の合間に聞こえる呼吸の音が痛々しい。

「これから先、奴隷制度を廃止してもシギは帰って来ない……」

 涙声で呟いて、フィーロは鼻をすすった。だがしばしの沈黙ののちに、彼はくるりとセルウスの方を振り返っていやに明るい笑みを浮かべた。

「ごめん、情けないところ見せちゃった。他のみんなには秘密にしてね。私の一存で王位簒奪なんて危ない橋を渡らせてるんだから、せめて私は涼しい顔をしていなくちゃ申し訳が立たないし、みんなを不安にさせちゃう」

 そう言いながらも小さな背は確かに震えている。一体、これまでどれほどの夜をそうやって震えながら過ごしてきたのか。

 見ていられなかった。たまらなくなってセルウスはフィーロの肩を掴む。冷たく、どこか頼りない肩だった。

「誰にも言わねぇから、こんな時まで平気なフリするな」

 絞り出すような声で言うと、触れた肌越しにフィーロの身体が強張るのが伝わった。

「学のない俺でも分かる。万が一謀反の情報が漏れでもしたら、あの嘘つき国王は関係者を生きて帰さんだろうよ。二年間計画をひた隠しにして、それで平気だと?」

 フィーロがセルウスを睨みつける。否、睨みつけているのではない、泣くのをこらえているのだ。若草色の目のふちに溜まった涙が今にもこぼれだしそうになっている。それを分かっていて、セルウスは言葉を止めなかった。

「お前が部下やあの子供たちや俺たち奴隷や民を守るために苦しむというなら、俺がお前を守るから。だから、一人で全部抱え込むな」

 ついに大粒の涙が白い頬を転げ落ちた。フィーロは身体ごとセルウスに向き直り、彼のシャツ越しの太い二の腕を掴んだかと思うと肩口に自身の額を押し付け、顔を伏せて声を絞り出した。

「シギは死ぬ間際に言ったんだ、この国を良い国にしてくれって。痛いとか助けてじゃなくて。だけどその願いを叶えてもシギは帰らない。その良い国を、シギは見ることはできない。絶対に……!」

 声はかすれて引きつり、セルウスの二の腕を掴む手に力がこもる。沈黙があったかと思うと不意にフィーロが顔を上げた。歯を食いしばって涙を目に溜め、拳でセルウスの胸を叩く。

「じゃあ、じゃあは一体何のためにッ!」

 弾けるように言ったかと思うとフィーロはその場に崩れ落ち、堰が切れたように声を上げて泣いた。

 これまでずっと落ち着き払った態度ばかりだった王子が初めて見せた激しい感情の表出に、セルウスは戸惑いながらもその場に座り込んで彼を抱き寄せる。抵抗が無いのを見て取ると、そのまま幼子のように泣くフィーロを抱きしめてやり、その背を撫でた。

 泣き止んで欲しい、その一心だった。仮にも一度は殺すと決めた相手なのだ、少なくともこんなしょぼくれて傷ついた姿は見たくなかった。セルウスは黙ったままフィーロをますます強く抱きしめる。若草色の瞳からとめどなく零れる涙で胸が火傷しそうなほどに熱く濡れるのも構わなかった。

 いつまでそうしていたか、ようやく落ち着きを取り戻したフィーロがすん、と鼻を鳴らした。ぱちぱちと上下するまつ毛と月光に照らされた瞳が涙の名残で潤んできらめき、目尻はわずかに充血している。

 それを気遣わしく見つめながら、セルウスは静かな声で言った。

「フィーロ、お前はシギに頼まれたから、シギみたいな奴をこれから二度と出さないために今、とんでもない無茶をやらかそうとしてる。そうやってシギの死に報いようとしてる。あの人ならこうしていた、あの人がこう望んでいたって、思い出しながらこの二年間水面下で色々やってきたんだろ?」

 フィーロがもたれかかっていた身体を腕の長さの分だけ離して、セルウスの顔を見上げる。セルウスは腕をほどくとフィーロの心臓の上にそっと触れた。

「もう言葉も交わせないし手だって握ってやれねぇけど、シギはちゃんとお前の中で息をして、お前の一部になってるんだ」

「……じゃあ、ヒヨドリ小隊の人たちもここにいる?」

 触れる手の温さを感じながらフィーロが同じようにセルウスの胸に触れると、彼は暗色の瞳を月明かりに潤ませながら黙って首を縦に振った。

 今ならエルリダの言葉の意味がよく分かった。ヒヨドリ小隊がセルウスに授けた優しさと幼い命への祝福は、セルウスの行動となって、例えばアンナに向けられた。その意味で亡き戦友たちもまたセルウスの中で生きている。

「でも、それが分かってても寂しくてやるせない時はある。その時には俺が一緒にいるから。……少なくとも、独りでいるよりマシだろ?」

 疼き続ける傷を負う者たちの四つの瞳が探り合うように見つめ合う。それを合図にどちらともなく互いを引き寄せてくちびるを重ねるだけのくちづけをした。

「じゃあ一緒にいてくれ、僕と……」

「ああ」

 ほんのわずかに離れたくちびるで吐息のようにフィーロが囁くと、セルウスもまたひそめた声で、けれどはっきりと返事した。

 色白の頬をほのかに赤くしたフィーロは軽やかに苦笑して立ち上がった。

「ありがとうセルウス。ごめんね、こんな夜中に付き合わせて。あの男の子を見てたらシギを思い出しちゃって」

 聡いセルウスはおおよそ予想していた通りの答えにも大真面目にうなずく。そしてタオルでフィーロの濡れた顔を拭いてやった。

「……寝られそうか?」

「どうかな」

「目を閉じて横になっとけ」

 フィーロが言われるがままにすると、大きな手が彼の目や額のあたりをそっと覆った。その温かさにフィーロの身体は眠りへと誘われていく。だから「おやすみ」の穏やかな声と可愛らしいリップ音が現実なのか夢なのか、彼にはもう判断が付かなかった。

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