第16話

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 歩道に桜の木が連なる、車の往来の少ない静かな通りの脇に、小川は車を停めた。俺は一人降りて、三メートルほど後方に停まった冬也の乗る車の元へ行った。

「ええとこやん」

 助手席側に立った俺に、冬也は窓を開けて言った。

「ああ。向こうの道が混んでなきゃ、もっと早くに着いたんだけどな」

「ふうん。なあ、俺、朝はバレとる可能性もあるんやないかって言うたけど、やっぱり桂木こだまは俺と隼人が兄弟やってことは知らんと思うで」

「ああ、俺もそう思う。弟だってことを忘れるっていうお前との約束を破るようなヘマを、隼人はしないだろうしな」

「ほうか。で、あれが隼人んちか?」

 冬也の視線の先には、歩道の向こうの高い塀があった。

「違う。隼人の家は、そこの角を曲がって、少し行ったとこだ。降りろよ。ここから歩こう」

「え?」

 冬也は目を見開いた。「俺、行かへんよ」

「は? おい、今さら……」

「行くなんて、一回も言うてへんやん。隼人の家どのへんかな思て、ついて来ただけやん」

 冬也は困惑しているかのような表情だった。でも、明らかに目の中にからかいの色があった。

「冬也!」

「俺、もう行く。ほな」

 車のエンジンがかかり、窓が上がり始めた。

「冬也!」

 俺は引き止めようと閉まった窓に手をつこうとしたが、運転席の高階尽が上体を傾げて会釈をして寄越したので、思わず手を引っ込めてしまった。冬也は俺から顔を背けるようにしていた。車が一台横を通りすぎてから、高階尽の車は車線に滑り出した。

 俺は、車を見送った。

「冬也、あのバカ、ふざけるなよ」

 悪態をつきながら。でも、ほんの少し期待していた。数メートル行ったところで止まって、冗談や、とでも言いながら、冬也が降りて来るかもしれないと(いや、かなり確信に近い期待を持っていた。だって、今さら、いくらなんでも、だ!)。

 だが、車は止まらなかった。遠くの角を曲がって、視界からあっさり消えた。

(…………)

 十秒ほどしてから、空を見上げた。視界に入って来たのは、若葉の枝。ああ、そうだ、桜……。花の時期が過ぎてしまったのは残念だけれど、この葉の黄緑色だって悪くない。心が落ち着く。

 実際、冬也に対して怒りはまったく湧いて来なかった。怒りの種の上に、どすんと土がかぶせられたような感覚だった。脱力感という土。虚しさ、あきらめ、という肥料。

(ったく、あいつは、ほんっと、何考えてんだろうなあ)

 首を下に曲げて、大きく息を吐き出してから、車へ戻った。そこで初めて、車のドアにへこみがあることに気づいた。冬也が蹴った場所だろう。けっこう丈夫な車のはずなのに。やれやれ。呆れはしたが、やはり怒りは湧かなかった。へこみに軽く指で触れてから、車には乗らないで、軽いノックをして、村松に助手席の窓を開けさせた。

「もう帰っていいぞ、村松。小川も」

「いいんですか?」

 村松は、戸惑っているようだった。まあ、当然だろう。隼人の問題について話せるわけがないのだから仕方ないとしても、俺はろくに説明もせず、いいから来てくれと強引に村松を連れて来たのだから。

 文句の一つでも言っておかしくないほどなのに、俺が話すこと以外のことを何も尋ねて来なかったその慎ましさに感謝せねばなるまい。

「いいんだ。悪かった。こんなところまでつき合わせて。お前がいれば、冬也が素直に車に乗ると思ったんだ。あいつ、女に甘いし、ファンにならもっと甘いと思ってな」

「冬也くんに、私がファンって言ったんですか?」

 驚いたように、村松は言った。

「え、いや、言ってはないけど」

「私がファンって言わないでくださいね」

「は? 何で?」

「だって、恥ずかしいじゃないですか」

 村松は、むくれたような顔つきになった。

「そうか。分かった」

 俺は頷いた。が、心の中は逆だった。

(変なやつ。ファンって言えないなら、何でファンになるんだ?)

 だが、それを口に出せば、村松の不興を買うだけであろうことは分かっていたから、

「桂木くん」

 助手席の窓から覗くようにして、今度は後部座席の桂木こだまに声をかけた。「ここから歩くことになるけど、かまわないかな?」

「は、はい」

 桂木こだまは、慌てたように車を降りた。

 俺と桂木こだまは、車道の脇から歩道の真ん中へと移動し、車が動き出すのを見守った。窓越しに村松がこちらに会釈をし(口元に浮かべていた礼儀的微笑からして、桂木こだまに向けたものだろう)、車が走り去ると、行こう、と俺は桂木こだまに声をかけた。

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