第32話
「冒険者が近づいている」
ルカがそうつぶやき、エマは緊張を高めた。ルカはテーブルに頬杖を突き、特に身構えている様子はなかった。
「……あいつらか。運がいいな」
ルカの言葉に、エマは首を傾げた。
「誰が来るかわかるの?」
「ああ。足音と話し声でわかる」
ルカはそう言うが、エマには何も聞こえない。ルカはどれほど遠くの音まで拾えるのだろうか。
なにが「運がいい」のかエマにはわからなかったが、ルカには何か考えがあるのだろうと、エマはあまり気にしなかった。
次第に街の入口付近が賑やかになり、エマはようやく冒険者が来たことを認識した。
ついに冒険者が家の前に来たとき、エマは逸る心を抑え、「いつも通り」と自分に言い聞かせながら出迎えた。
てっきりすぐに戦闘態勢に入ると思っていたので、解毒を頼まれたとき、エマは拍子抜けした。
毒を受けたという青年は明らかに人間ではなかったが、エマにとっては些細なことだった。魔王すら治療できたのだから、他の種族でも問題なく薬が効くだろうと思い、エマは普通に治療を行った。
その最中、祖母の話をされた時には驚いた。そして少女の話から、祖母が治癒魔法を開発した“カトリーヌ”と同一人物であることを悟った。
魔法の研究をしていたとは知らなかった。そして研究対象を変えた理由が、魔法研究所を追放されたからだとも。
ルカは“カトリーヌ”のことをあまり良く思っていない。だから祖母が“カトリーヌ”だったことを、エマは少し残念に思った。
しかし祖母のことを嬉しそうに語る少女を見て、エマは心が温かくなるのを感じた。こうして祖母のことを理解してくれる人がいると知り、報われたような気持ちになった。
祖母の研究は、確かに誰かのためになっている。エマは自分のことのように嬉しくなった。
治療が終わり、出ていこうとする少女たちを見て、このままルカに気づかず村を出て行ってくれるのではないかと希望を抱いた。
しかし、その希望は呆気なくついえた。
「そこにいるんでしょ?魔王様」
治療をした青年に呼ばれ、ルカが姿を現す。ルカは人間の姿をしていたが、一つ瞬きをすると、月のような金色の瞳が冒険者たちを捉えた。
冒険者たちがびくりと肩を震わす。その様子にエマはようやく、ルカが本当に魔王なのだと実感した。
ツインテールの少女が、戸惑ったような声を上げた。
「なんで……!?こんなに近くにいるのに、魔力探知が反応しなかったなんて……」
聖職者らしき柔らかな雰囲気の女性が、視線をルカに向けたまま答える。
「人の姿をしてらしたからではないでしょうか……。魔力探知は魔族を見つけるために作られたものですから、人間の探知能力は低いと伺っています」
治療をした青年が少女に目を向け、軽い調子で笑う。
「僕も匂いがしなかったらわかんなかったかも。その匂いもさぁ、ここ薬が多すぎて全っ然わかんないの。よく気づいたよねー」
青年が人差し指を立て、自分の鼻をつついた。エマは慣れてしまってわからないが、そんなに薬くさいだろうか。
不意に、青年がエマに目を向けた。ぎょろりと動く真っ赤な瞳に、エマは一瞬肩がすくんだ。
「君さ、あれを魔王様って呼んでも眉一つ動かさなかったよね。魔王だって知ってたの?」
心の奥まで見通すかのような瞳に、エマは少し恐怖を覚えた。何も答えず、胸の前で拳を握る。
「否定しないってことは、図星なのかな?それって人間への反逆行為だよねー」
青年の目が、獲物を見据えるように細められる。
「……殺しちゃおうか」
先ほどまでのお茶らけた様子からは想像できない低音に、エマは驚いて後ずさった。
エマが動き出すより少し速く、青年がエマに向かって飛びかかってきた。
しかし青年の手は、エマの少し手前で止まった。まるで見えない壁があるかのように、青年が力を入れても、それ以上近づいてくることはない。
ルカの方に目を向けると、エマに向かって指を向けている。ルカが何かしらの魔法を使ったのは明らかだった。
「もー、邪魔しないで、よっ!」
青年は見えない壁を踏み台に、今度はルカに向かって飛びかかった。その手にはいつの間にか、鋭利なナイフが握られている。
ルカは青年を躱すと、手のひらに光る球を作り、それを青年に思い切りぶつけた。扉の方へ飛んで行った青年が戸にぶつかりそうになるが、扉が勝手に開き、青年はぶつかることなく外へ飛ばされた。
「ヨルム!」
少女と女性が出入口を出て、青年に駆け寄った。
ヨルムと呼ばれた青年は、思いのほかあっさりと体を起こした。
「容赦ないなー。出し切れなかった毒が回ったらどうしてくれんの?」
「ならば動き回らないことだな」
ルカは今まで聞いたことがないほど、冷たい声でそう返した。まるでエマの知らない人のように、強い威厳と冷酷さを感じる。
しかしエマの方を見たルカの表情は、いつも通り優しい微笑みを浮かべていた。
「怪我はないか?」
「え、うん……」
ルカはエマに近づき、エマの頬をそっと撫でた。
「怖かっただろう。奥で隠れているといい」
ルカはゆっくりとエマから離れ、外に向かっていった。
エマは隠れていろと言われたにもかかわらず、ルカが心配になり玄関に向かった。
エマは玄関からそっと顔を出し、ルカと冒険者の様子を見た。
ヨルムは立ち上がり、毒を受けていない方の腕をぶんぶんと回している。
「魔王様強くない?リーナ、本当にあれ魔力減ってんの?」
リーナと呼ばれたツインテールの少女は、緊張の面持ちでルカに杖を向けたまま答えた。
「間違いなく減ってるね。今の魔王には、強大な魔法を放つ魔力は残ってない。ただ、少ない魔力を効率よく、必要なところにだけ凝縮してる。……並の使い手じゃないよ、やっぱり」
リーナの頬を汗が伝う。先ほど祖母のことを語ったときとは別人のように、リーナは鋭い瞳でルカを睨んだ。
その時、バタバタと足音が近づいてくるのが聞こえた。
「リーナ!マリー!ヨルム!」
金色の髪の美しい青年と、がたいのいい赤い髪の青年が、家の庭先に走ってきた。
二人は庭の手前で立ち止まり、緊迫の面持ちでルカを見た。
「魔王……」
ルカは何も言わずに青年たちを見た。
がたいのいい青年は、収穫後の何もない庭に踏み込み、冒険者たちに近寄った。
「大丈夫か!」
「ジェイクさん!大丈夫です。まだ何もされていません!」
「されたよマリー!僕のこと忘れないで!無傷だからって!」
マリーと呼ばれた聖職者の女性がとんでもない天然を発揮しているが、いつものことなのか、ジェイクはほっと息をついた。
金髪の青年も庭に駆け足で踏み入り、リーナの隣に立った。
「リーナも大丈夫?」
「リアム!あたしは大丈夫。ヨルムが吹っ飛ばされただけ。……結構早かったじゃん」
「最初に尋ねた女性の方が、片腕の男前がいるって教えてくれてね」
リアムがゆっくりと剣を抜く。リアムは真剣な瞳で、まっすぐにルカを見た。
「久しぶりだな、魔王」
「……」
ルカは何も言わなかった。
エマからはルカの表情は見えないが、それでも、ルカとリアムがお互いに視線を送りあっていることがわかる。
その様子は、物語で語られる“勇者”と“魔王”そのものだった。
得も言われぬ緊張感が漂い、風の音だけが響いた。
「……魔王?」
沈黙は、予想外のところから破られた。
少々素っ頓狂な、年かさの女性の声。エマは驚いて庭先に目を向けた。
そこには、不安そうに肩を震わせるアンナがいた。
「誰が魔王なの?まさかルカさんが?」
アンナは困惑の表情を浮かべてルカを見た。
アンナが庭に足を踏み入れたのを見て、ジェイクはアンナに立ち止まることを促すように両腕を広げた。
「ご婦人!ここは危ないので、すぐに離れて……」
「ねえそうなの?答えてルカさん!」
アンナはジェイクの腕に阻まれながらも、ルカに向かって叫んだ。
「……ああ」
ルカは、そう短く答えた。
アンナの表情が、みるみると悲痛なものに変わる。その目はこれまで築いた時間など全て忘れたかのように、異物を見るものに変わっていた。
「なんてこと……!ずっと私たちを、エマを騙していたの!?」
アンナの叫びが、痛みとなってエマに伝わる。アンナはエマを思っているというのに、エマはこれからルカと共に村を捨てようとしている。
騙されていない。そう言おうとエマは口を開いた。
「そうだ」
エマが答えるより早く、ルカが強い口調でそう言った。
「………え?」
エマは一瞬、ルカが何と言ったかわからなかった。
(なんで……?あたし、騙されてないのに……)
アンナがまた何か叫んでいるが、エマの耳には入ってこなかった。
驚いているのはエマだけではない。リーナもマリーも目を見開いてルカを見ている。ヨルムは呆れたように「はぁ?」と言った。
「いやいや、その子騙されてないでしょ?そんな見え透いた嘘……」
「そうか。わかった」
リアムはそう言って、構えていた剣を鞘に仕舞った。ヨルムは驚いてリアムを見ている。
リアムは小さな痛みを堪えるように、少し眉間にしわを寄せてルカを見た。
「……一緒に来てくれるか?魔王」
「……わかった」
ルカは静かにそう言って、リアムに向かって歩き出した。
エマはそこでようやく、ルカが最初から、エマを道連れにする気がなかったことに気が付いた。
冒険者が近づいているとわかったとき、ルカが「運がいい」と言っていた意味。それはおそらく、リアムならルカの意図を汲んでくれると思ったのだろう。
エマが騙されていたことにしてほしい、という意図を。
「ルカ……っ!待ってよルカ!!」
エマはもたつく足を無理やり踏み出し、ルカの腕を掴んだ。
ルカがゆっくりと振り返る。その表情は少しだけ申し訳なさそうで、けれどそれ以上に、優しさに満ち溢れていた。
「……エマ、すまない」
ルカはそれだけ言って、エマの手からすり抜けていった。そのまま背を向けて、どんどんとエマから離れていく。
エマは追いかけようと足を出したつもりだったのに、ふらついてその場に膝をついた。眼鏡が外れ、音を立てて地面にぶつかる。
「ルカ。ルカ、待ってよ。約束したじゃん。一緒に」
(一緒に、地獄に落ちようって)
その言葉が、エマの口から出ることはなかった。言葉にしてしまえば、エマを守ろうとしたルカの思いを踏みにじることになる。
頭ではそうわかっている。けれどエマの心は、ルカと離れることを受け入れられなかった。
エマは必死に、ルカに向かって手を伸ばした。ただでさえぼやけた視界が、水に入ったかのように歪んでいく。
「ルカ、行かないで。ねえ、ルカ、ルカ……!!」
エマの声に、ルカが振り返ることはなかった。
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