第29話【誕生!リアナの“影なる”親衛隊】
戦場と化した峠道に、静けさが戻った。
辺りの空気は、まるで時が止まったかのように凍りついている。
さきほどまで空を覆い尽くしていた矢の雨も途絶え、怒号も悲鳴も消えていた。
耳に届くのは、風が木々を揺らすかすかな葉擦れの音――そして断続的な呻きと、荒い吐息だけだった。
歩を進めるにつれて、血と鉄の匂いが濃くなってくる。
地に崩れ落ちた“赤い牙”の幹部たち。その合間を縫うようにして、エリスが私の方へ駆け寄ってきた。
「リアナ様! 見ていてくださいましたか……」
その声には高揚の響きがある一方で、張り詰めた緊張もにじんでいた。いつもの無邪気な笑顔ではなく、戦いの余韻がまだその瞳に宿っている。
私は両腕を広げて彼女を迎えた。エリスも迷うことなく私の胸に飛び込んでくる。
「……ええ、見ていたわ。本当に、すごかった」
抱き寄せた髪に指を滑らせる。温かい――生きている。その確かさが胸を強く打った。
よかった。本当に無事でよかった。
さっきまで不安でたまらなかった。あの罠に囚われたまま、矢の雨に倒れていたら――そう思うだけで胸の奥がギュッと痛む。
けれど、目の前に広がる光景は、甘い安堵とはほど遠かった。
見事に統制の取れた動きを見せていた盗賊団は、今やそこかしこに散らばった数多の負傷者と、戦意を失った投降者との無秩序な集団と化していた。
痛みに呻く者。ぐったりして胸だけを上下させている者。武器を捨て両手を挙げて膝を折る者。恐怖に顔を引きつらせ、硬直している者。
負傷者の中には、通常の手当てでは助からない者もいる。幹部に至っては全員が重症だった。
「……それで、リアナ様。彼らの処遇をどうされますか?」
エリスが問う。澄んだ声は冷静で、その目は私の判断を待っている。
「そうね……」
私は視線を巡らせた。
ここは辺境――法の届かぬ無法地帯だ。
役人を呼んでくる、などという甘えた選択肢はない。
いっそ全員を拘束して、街まで移送するか?
それは現実的ではない。街までの距離は遠く、人数も多すぎる。
それだけの食糧も水もない。
ならば見逃す?
それも駄目だ。彼らは“赤い牙”と恐れられる盗賊団。解き放てばふたたび徒党を組み、人々の脅威となるだろう。
それに、彼らがルドラ商会と繋がっているのなら、私たちがまた襲われるかもしれない。
理屈で言えば、ここで全員処刑するのが最善。
アデルさんがこちらを見つめ、小さく頷いた。私の決定に従うという意思表示だ。
エリスの目も同じ。ナイトもまた然り。私が「殺して」と言えば、ためらわず実行するだろう。
……それを、私にできる?
胸に手を当て、目を閉じた。
私は――死にたくなかった。生きたかった。その一心で、あの日、女神様にすがるようにして異世界へ来た。そんな私が――。
今ここで、まだ息をしている者たちの命を奪えと?
甘いとわかっている。愚かだともわかっている。それでも――。
「……痛い……死にたく、ねえ……」
ふと、震える声が耳に届いた。思わず駆け寄る。
そこにいたのは、まだ若い盗賊だった。血にまみれ、地を這いながら恐怖と痛みに震えている。
私に気づいたその目が、すがるように見開かれた。
「……た、助けてくれ……死にたく、ねえ……」
血と泥に塗れた手が、私の方へ伸びてくる。
その瞬間、胸の奥に一つの決意が芽生えた。
そうだ。私、死にたくなかった。生きていたかった。――この人も、この命も同じ。
私はその手をしっかり握りしめ、抱き起こした。
「……大丈夫。今、癒します」
「え……」
深く息を吸い、両手を胸元に重ねる。
「我が祈りは、尊き神の掌――《ハイ・ヒール》」
淡い光が溢れ、傷口はみるみる塞がっていく。砕けた骨も復元し、血は止まり、皮膚が瞬く間に再生してゆく。
その奇跡に、周囲の盗賊たちは息を呑んだ。
「リアナ様……」
エリスの掠れた声に、私は向き直る。
「アデルさん、エリス、ナイト――お願い。負傷者を集めて。できる限り早く、全員よ」
「……幹部や首領も含めて、でしょうか?」
エリスの問いに、私は力強く頷いた。
「すべて、救います」
アデルさんは一瞬目を伏せ、息を吐いた。
「……わかりました」
ナイトは「御意」と短く答え、すでに動き出している。
エリスもアデルさんと一緒に負傷者を探し、運んでくる。
数十名が目の前にずらりと横たわると、私は胸の前で両手を重ね、祈りの言葉を
「我が祈りは、女神の御息に宿る癒やし。尊き神の掌よ、すべての傷を包み給え――《ディヴァイン・ヒール》!」
輝く光が幾度も舞った。
全員の治療が終わる頃には、呻き声はぴたりと止まり、辺りを沈黙が包み込んでいた。
百を超える盗賊たちが、信じられないものを目にするように私を見つめている。
……これでよかったのだろうか。本当に。
けれど、私にはこれしか選べなかった。覚悟はもう決まっていた。
「……聞いてください」
静かに言葉を発した。震えそうになる声を必死に抑えながら。
「私は皆さんの、私たちを襲った罪を許します。全員を解放します」
ざわめきが広がる。
「……ですが、次はありません。ふたたび敵として私たちの前に立つなら、その時は容赦なく命を奪います」
涙で震えそうになる声を、懸命に振り絞る。
「私も……死にたくない。大切な人を死なせたくない。だから、その時は……私自身の手で、あなた方の命を奪います」
嗚咽が喉を塞ごうとするのを必死に堪え、言葉を続ける。
「だから……お願い。今度こそ、盗賊なんてやめて。どうか命を、大切にして……」
ふたたび沈黙が辺りを支配する。それを破ったのは、野太い笑い声だった。
「……ははっ……負けた、負けたわ……」
笑い声の主は、首領のガルド。だが彼はすぐに真顔に戻り、大きく息を吸い込むと――吼えた。
「――よく聞け、てめえらァ!!」
場の空気が一瞬にして凍りつく。
「“赤い牙”は、本日をもって盗賊家業を捨てる! これより我らは、聖女リアナ様の“影なる親衛隊”となる!」
驚愕のざわめきが広がった。
「異議ある者は、今すぐ立ち去れ! 賛同する者は、胸を二度叩け!!」
その途端、鎧の上から胸を打ち鳴らす音が次々と響く。誰一人、その場を去る者はいなかった。
ガルドが私の前に膝をつき、深く
「聖女リアナ様。この“黒狼のガルド”以下、“赤い牙”が総勢百二十五名、我らの命を貴女様に捧げます。どうぞ、いかようにもお使いください」
私は絶句した。だが拒むことはできなかった。
彼らには帰る場所も、拠るべき者もない。だからこそ盗賊として生きてきたのだ。もし私がその居場所になれないのなら、彼らが変わることは決してないだろう。
胸に宿った覚悟を確かめ、小さく息を吸う。そして震える声で告げた。
「……私は……あなた方を受け入れます」
大きな責任を前に、不安と迷いが胸を締めつける。けれど、それでも続けた。
「でも、もう悪事は絶対にしないで。どうしても困ったら、私に相談してください。必ず、別の方法を探します」
ガルドは深々と頭を下げた。
「……御心のままに」
ガルドに続いて、百を超える誓いの声が、戦場に響き渡った。
*
風が静かに吹き渡る。
血の臭いが漂っていた戦場に、静謐な空気が満ちていた。もう誰も武器を取ろうとはしない。百二十五名の元盗賊たちが膝をつき、ただ私を見上げている。
……やってしまった。
でも、後悔はない。だってこれが、私という人間の選んだ道なのだから。たとえ誰に非難されても、私はこうありたいのだから。
近づく足音に気づいて振り返ると、エリスたちが歩み寄ってきていた。
エリスは凛々しい戦士の顔を和らげ、微笑んでいる。
「……リアナ様。やっぱりあなたは、思った通りのお方でした」
その声は誇らしげだった。
アデルさんは正面に立ち、深く一礼する。
「リアナさん。あなたのご決断に、心から敬意を表します。……それでこそ、我らが主です」
「……然り」
ナイトも短く同意する。
私は小さく笑みを返した。
「……ありがとう。でも――これからが大変よ」
「ええ」
視線の先には、百二十五名の元盗賊たち。
この人数をどう扱い、どう生かすか――これから考えなければならない。難題は山積みだ。
それでも、私は誓った。
きっと彼らを、みんなが
胸の奥に一筋の光を抱き、私は一歩を踏み出した。これからの彼らの未来へ、希望を託して――。
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