第10話【命の選択】

 短い夜が明けた。朝靄あさもやの中で木々の葉がつゆをまとい、きらきらと光っている。

 私は馬車の固い床の上で身を起こし、大きく伸びをした。


「はぁ~、もうちょっと寝ていたい……」


 そうは言っても、やるべきことが山ほどある。

 何より、昨夜はアデルさんとナイトが徹夜で馬車の修理と見張りをしてくれていたのだ、私だけ寝坊なんて申し訳なさすぎる。


 せめて自分にできることを――そう思い、アデルさんの指示を受けながら荷台の整理に取りかかった。

 まず残っている荷物をすべて外に出し、使えるものを選別して積み直していく。


「いや、使えるものが何もないんだけど……」


 荒らされた荷台は、まるで台風の通ったあとのようだった。食料も水も衣類も武具も、ほとんど残っていない。ゴブリンどもが根こそぎ持ち去ったのだ。

 私は呆然と、がらんどうになった荷台を見つめ、深いため息を吐く。


「お金はアデルさんが少し持ってるらしいけど、馬車の修理にも足りないって言ってたし……」


 体を動かしたせいか、お腹がぐうっと鳴った。乙女としてははしたないけれど、こればかりはどうしようもない。この世界に来てからというもの、消費と摂取のバランスがまるで取れていないのだ。


「わーん! スマホと、肌触りのいい下着と、おしゃれな服と、手鏡とブラシと化粧水と、歩きやすい靴と、美味しいご飯とお菓子がほしいよ~!」


 うっかり口に出してしまった愚痴は、しっかりナイトの耳に届いてしまったらしい。


「どうかされたか、主よ!」


「うわっ、聞いてたの!? い、いえ、なんでもないの……!」


 顔が一気に熱くなる。進化したナイトは超感覚を身につけ、視力も聴力も気配察知も尋常ではない。

 もっとも、私自身もこの世界に来てから“気配”を感じられるようになっていた。

 “彼女”の技能を引き継いだ影響もあるのだろうが、病室で視力や聴力の代わりに研ぎ澄まされていた感覚が、新しい体に馴染み始めているのかもしれない。


「……主?」


「ううん、なんでもないわ。これからのことをちょっと考えてただけ」


 そう話していると、ちょうどアデルさんが姿を見せた。


「それなんですが、あと一日半ほどで商業都市ベルガリアに着きます。馬車を修理するなら、そこが良いかと」


 その都市なら知っている。王都に迫る規模の、とても大きな街だ。私も……いや、“彼女”も何度か訪れたことがあった。ここからなら本来一日で着く距離だが、それだけ馬車の状態が悪いのだろう。

 それでも早ければ一晩、遅くとも二晩も野宿すれば、あたたかいベッドで眠れるかもしれない。


「わかりました。そこでなら……少しだけ、私にも金策のアテがあります」


 胸を張って言えたことではないが、私にはアルバイトの経験など一切ない。

 だが、“彼女”から譲り受けた魔法の腕は確かだ。神聖魔法に限れば王国でも――いや、世界でも指折りの実力のはず。神殿に顔を出せば、何かしらの仕事はもらえるはずだ。

 その時、ナイトが私のかたわらを指差した。


「主、その短剣をお借りしてもよろしいか?」


「えっ? いいけど……どうするの?」


 手渡したのは、昨夜拾った錆びたショートソード。ゴブリンが持っていたものだが、もとは旅人の護身用だろう。ナイトはそれを受け取ると黙礼し、走り去った。

 気になった私は、アデルさんとあとを追う。


「ナイト、どうかしたの? 何を――」


 ナイトはじっと空を見つめていた。視線の先には、小さな黒点。いや、鳥だ。


「あれは……大鷲の一種ですね。稀に人を襲うこともありますが、距離がありますし、大丈夫でしょう」


 アデルさんが解説する。でも、威嚇なら自分の剣を使えばいいはず。あえて私の短剣を持ち出した理由は――。


「まさか……」


「まさか……ね?」


 ナイトが一歩踏み込み、体を螺旋のようにひねり上げる。そして矢のような速度で短剣を投げた。


 短剣は閃光のような鋭い軌道を描き――空高く飛ぶ大鷲の胴を正確に貫く。


――ドーンッ!


 百メートルほど先の草むらに、大鷲が墜落して土煙が舞い上がった。両翼の端から端までの長さが、ゆうに二メートルを超える怪鳥だ。


 私とアデルさんは、しばらく言葉を失っていた。


 やがてナイトが怪鳥の脚を掴み、片手で引きずりながら戻ってくる。自分の皮鎧で短剣の血を丁寧にぬぐって私に返し、続いて怪鳥を差し出すと、深く一礼した。


「……すごいですね」


 アデルさんのつぶやきに、私は無言で頷くしかなかった。

 きっと、ナイトは私が“ぐう”とお腹を鳴らした音を聞いて、食料を調達してくれたのだろう。


 得物に短剣を選んだ理由も、もうわかっていた。長剣では重すぎて投擲とうてきには向かないし、仮に当てても大鷲が四散しかねない。しかもナイトは“聖女の恩寵”の縛りによって、剣しか使えない。それ以外の武具は手にできないのだ。


 それで、この結果――。


 二人の驚きに満ちた視線を受け、ナイトは誇らしげに口元をゆるめた。



 私たちは大鷲を抱え、小さな林の奥へと進んだ。向かう先は、昨日ゴブリンから逃げる途中で、偶然見つけた水たまりだ。


「では、僕が解体しましょう」


 そう優しくアデルさんが申し出たが、私は首を横に振った。


「いいえ、今回は私にやらせてください。上手くできるかどうかはわからないけど……」


 少し驚いたように眉を上げた彼は、やがて小さく頷いた。

 大した理由があるわけじゃない。ただ、この大鷲にはまだわずかに息があった。だからこそ、少しでも殺生せっしょうに慣れておきたい――そう思ったのだ。


 ナイトとアデルさんに付き添われ、水たまりへと移動する。草むらを抜けた先にあったそれは、朝の光を反射しながらも、濁って底の見えない泥水だった。

 けれど、今の私には関係ない。


「我が祈りは、流転の清水――《アクア・ピュリファイ》!」


 指先から淡い光が広がり、水たまりの濁りがみるみる消えていく。汚れた水すら澄んだ飲み水へと変える、浄水の魔法だった。


 私は膝をつき、その水で短剣を丁寧に洗う。こびりついて残っていた血を洗い流すと、そのまま大鷲の解体に移った。


 ナイトが仕留めた巨大な猛禽もうきん――力強い爪と鋭いくちばしを持つその体を、両手で慎重に扱いながら、血抜きを進めた。


「魔法もすごいですが……リアナさんの解体の腕もお見事ですね。まだお若いのに」


 アデルさんが少し驚いたように言う。私は返答に迷い、ただ笑ってごまかした。

 これが生まれて初めてだなんて、口が裂けても言えない。今の私は、“彼女”の記憶と技術を借りているだけ――それだけのことだ。


 羽根を取り、皮を剥ぎ、内臓をさばく。一つ一つの工程には、魔法と同じく集中が伴う。命を扱う作業を雑に行うことは許されない。

 手を動かしながら、胸の奥に少しだけ罪悪感を覚えた。


――昨日、私は傷ついた馬を全力で治した。


 けれど今は、大鷲の命を奪い、血を流し、肉を切り分けている。襲ってきたゴブリンはともかく、大鷲は私たちに何もしていなかったのに。


 命に貴賎きせんはないと、わかってはいる。やったのはナイトだから――なんて言い訳もしない。さっきまで息があったのだから、私が《ヒール》で癒して、空に返すことだってできたのだ。


 殺したのは、私だ。

 それでも、私は――生きていかなければならない。

 すべてを平等に扱うことなんてできない。私は、自分が大切だと思う命を優先する。それが間違っているとしても、これが私の選択なんだ。



 解体を終えると、急いで馬車が見える場所まで戻る。

 ナイトが焚き木を集め、アデルさんがその隣で肉を金串に刺していく。調味料は、唯一残っていた少量の塩だけ。


 もともと肉食鳥類で、食用に向く鳥ではないのだろう。肉は固く、臭みも強かった。それでも久しぶりに口にする温かい食事で、体に力が湧いてくるのを感じる。


 食事を終え、少し休憩を挟んだあと、私たちはふたたび馬車に乗り込んだ。応急修理しただけの車体はきしみながらも、着実に街道を進んでいく。


 次の街――商業都市ベルガリアを目指して。

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